「母がおかしい」同じ話を繰り返す、怒りっぽくなる、家計簿がつけられなくなる――それでも認知症と診断されなかった理由 【ぼけますから、よろしくお願いします。】

 東京に住むディレクターの信友直子さんが、広島県呉市への帰省の際、両親の様子をハンディカメラで記録し始めたのは2001年のこと。両親を被写体にして、仕事の取材のために撮影の練習をしようと思ったのです。15年以上続くことになる撮影は、奇しくも母親(90歳)のアルツハイマー型認知症の発症と進んでいく病状、さらには老老介護者となった耳の遠い父親(98歳)の介護生活の記録になっていきます。

 陽気で几帳面でしっかり者の母親が徐々に「出来なくなっていく」一方、家事はいっさい妻任せで90を超えた父親が「やらなければならなくなる」様子を時に涙ぐみ、離れて暮らす自責の念や夫婦・家族の絆を噛みしめつつ見つめる娘。そして、認知症はどう進むのか、家族に認知症患者がいるとはどういうことか、老老介護の現実とは……それらを冷静に記録していこうとする取材者――2つの立場で踏ん張り、あるいはその間で揺れる信友さんが監督となって出来たのがドキュメンタリー映画『ぼけますから、よろしくお願いします。』です。

 ある年の元日、新年のあいさつに認知症発症後の母親が発した言葉が、そのままタイトルになりました。ミニシアター単館上映で2018年11月から公開された映画は口コミで評判となり、各種受賞などでも話題を呼んで、上映館全国100館近く、動員数10万人を超えるドキュメンタリー映画としては異例のヒットとなっています。とはいえ、102分間の作品に発症(2014年)からの家族の生活全てはとても収まりきれません。映画に盛り込めなかった数々のエピソードを、信友さんが連載で語っていきます。

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■お母さんは、認知症になったんかもしれん


 母・信友文子がアルツハイマー型認知症と診断されたのは、2014年1月8日。85歳の時でした。

 でも実は、私が最初に母のことを変だなと思ったのは、それより1年半ほど前まで遡ります。

 母は私の故郷、広島県呉市で90代の父・良則と二人暮らし。一方、ひとりっ子の私は、映像制作の仕事をしながら東京で暮らしています。普段は離れていますから、最初にあれ? と思ったのは、母との電話のやり取りでした。

 私は母と昔から仲良しで、笑いのツボが一緒なので喋っていて飽きることがなく、なんだかんだ毎日のように電話していました。「今日こんなことがあってね〜」とお互いの近況をおもしろおかしく報告しあって笑いあう、というのが会話のほとんどだったと思います。でも、2012年の春頃から、母のリアクションが少しおかしくなってきたのです。

 私が前回した話を、次の電話の時に全く覚えていなかったり、逆に母が一度してくれた話を、次の電話でも初めて話すかのように一から繰り返す、ということが何度かあったのです。

 最初のうちは私も、「お母さん、この話こないだもしたろ? 覚えとらんの? しっかりしてや〜」と軽い感じで指摘し、母も「ありゃ? ほうじゃったかいねえ」と笑っていたのですが……。

 そんなことが何度か続くと、さすがに私も「これは冗談では済まされないぞ」と思うようになりました。そしてしだいに、私なりに気を遣って、母がおかしな対応をしても気づかないふりをするようになりました。

 お母さんは、認知症になったんかもしれん……。

 普段は1年に1回、年末年始にしか帰省しない私ですが、この状況はさすがに心配です。1つの番組を作り終えたタイミングで実家に帰ることにしました。

 それが2012年6月4日でした。その時の日記が残っています。

 いつもは1日数行程度の短い日記しかつけないのですが、この日からしばらくは長い文章を書いています。初めて目の当たりにする母の異変が、それだけ自分にとって衝撃的だったということです。今読み返してみても、当時の私の動揺が伝わってきます。

 他人にお見せするのは少し恥ずかしい文章ではありますが、ありのままに書き写してみます。

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2012年6月4日(注:呉に帰る日、飛行機の中で書いたもの)

 やっぱり母はおかしい。

 さっき、「今日そっちに帰るからね」と電話した時にそう確信した。私の話が飲み込めていないようで、返事のしかたがあやふやなのだ。

 確かに昨日の夜、母に電話して、「今日放送予定だった番組が来週に延期になったから、明日帰るはずじゃったけど帰れんようになった」とは言った。でもその後プロデューサーから「もうVTRは完成してるんだから予定通り帰省していいよ」と言われたので、今朝また母に電話して、

「やっぱり予定通り帰れることになったよ。夜までにはそっちに着くよ」

 と伝えたのだ。だけど母にはそれがうまく理解できないようで、私は同じことを何度も繰り返し話す羽目になった。

 最終的に母は「ああ、そう」と言い、電話を切ったのだが……。

 3分ほどで、母から電話があった。

「あんた、帰ってくるって、今日帰ってくるん?」

 どうやら父に伝えるうちに自分でもわからなくなったらしい。というより、わからないまま、それ以上私に聞き返せなくて一度電話を切ったのか?

 時制が絡むと話が理解できなくなる。少し話が込み入ってくると理解できなくなる。

 認知症の始まりと、疑うべきなのだろうか?

2012年6月7日(注:帰省中、呉の実家で書いたもの)

 母は同じ話ばかり何度もする。それも「一から」だ。

 まるで初めてその話をするかのように「一から」話す。

 今はとにかく、ヒロコちゃんのダンナが亡くなったから香典を1万円出したのに、その香典返しをくれもせずに「あげたじゃないの」と言われたという話が母のブームだ。

 細かいディテールまで、何度も話しては怒りをあらわにする。

 この話、よっぽど腹が立ったらしく私が東京にいる間にも電話で何度か聞いたが、まだまだ母の中では消化できていないようで、毎日思い出しては喋る。しかも同じ調子で。

「ヒロコちゃんはボケたんじゃないの」と言っているが、もしかして本当に受け取っていてどこかに置き忘れてる、なんていうのが真相じゃないか、と秘かに私は思っている。母にはとても言えないが。

 最近の母の話は、他人に馬鹿にされているとか、他人からこういう目に遭わされたとかの怒りを伴ったものが多い。もっと楽しいことを話せないのかと思うし、母にも、私なりに言葉を選んでそう言ってはいるのだが……。

 あんなに明るくて楽しい人だったのに、いつからこんなに被害妄想的な性格になってしまったのだろう。

 夜、父に「お母さん最近おかしいんじゃないの?」と聞くと、父もそう思っていた。

「昔はあんなことなかったのにのう。馬鹿にされとる言うて急に怒り出したり、攻撃的になったりするんよ。誰も馬鹿にしとりゃあせん、言うても聞かんのじゃ」

 父はそんな母を、とても気遣っていた。

「おまえも、お母さんを傷つけるようなことは言うなよ」と釘を刺された。

「二人だけで暮らして大丈夫なん?」と父に聞くと、今はまだ大丈夫だと言う。今は91歳の、かなり耳の遠い父を頼りにするしかない。

「私が東京に戻っても、お母さんがおかしいと思ったら言うてよ。すぐ帰るけんね」

 そう伝えたら父は、「わかった」と答えた。
   

 お風呂に入る父と、お湯の温度のことで母が言い争いをしている。
 父がシャワーの温度を下げたことが、母としては気に入らないのだ。風邪をひくから45℃に上げろと言い張っている。

 もうバスタブにお湯は入っているのだから、シャワーを使うには40℃でいいのだと父は言い返している。実際45℃のシャワーは熱すぎる。

 それでも母が譲らないので、父は仕方なく「じゃあ45℃にして、シャワーの時には水でうすめるわ」と言ってお風呂に入って行った。

 しばらくすると、わざわざお風呂のドアを開けて、父にまだ喧嘩を売ろうとする母。「何するんじゃ!?」父はギョッとしていた。そりゃあそうだろう。無防備な裸のところに突然踏み込まれたら誰でもビックリする。

 母は私に「お父さんはおかしいと思わん?」と同意を求めるが、いや、おかしいのはお母さん、あなたの方です。

「お風呂くらい好きに入らせてあげたら?」と言うと、母はたちまち不機嫌になった。自分の思い通りにならないと、自分が軽く見られたと思って気分を害すのだ。

 これでは、一緒に暮らしている父は、よほど気を遣わないといけないだろう。

 父の耳が遠いことが、せめてものなぐさめか……。

6月10日(注:呉に帰省して6日目)

 母の一挙手一投足が気になる。いつも母が変なことをしないか、気にかけている自分がいる。変なことをしないでくれと祈っている自分がいる。

 母が何かをちゃんと覚えていたり、理解していたりすると、ホッとする。

 私も母に認知症の気が出てきたことを、やはり認めたくはないのだ。

 ゾッとしたことは、帰省してから何回もあった。

 母が果物屋で、もうバナナがないから買う、と言うので買って帰ったら、なぜか冷蔵庫の中に、買ったばかりのバナナが何房もあったこと。バナナは冷蔵庫に入れると黒くなるから常温で保存しなさい、というのは母が私に教えてくれたことなのに……。

 外科で出された湿布薬が、封の開いた状態で4つも出てきたこと。几帳面な母の性格からすると考えられないことだ。以前の母なら、1袋使い終わるまで、決して他の袋は開けなかった。

 このところ全く新聞を読んでいない。活字を読んでいる姿を見たことがない。「新聞読まんの?」と聞くと「ニュースはテレビで見るからね」と言っていたが……。

 家計簿も、私が小さい頃からずっとつけていたのに、もうつけていないんじゃないか? と思う。一度、夜、そろばんをはじいて家計簿に何か書き込んでいたから、「家計簿つけよるん?」と声をかけたら、慌てて閉じた。

 その時にチラッと見たら、字も汚かったし、買ったものと値段が別の欄にずれて書かれていたし、何よりその日の日付じゃないところに書いていたような気がする。すぐに閉じられてしまったので、よくは見えなかったが……。

 とにかく母が自分の筆記能力がおかしくなっていると感じていることは確かだ。そうでなければ、あんなに慌てて、書いたものを隠さないだろう。

 友達のやっている会社の経理を4月に辞めたのだが、それはもしかして、計算ができなくなってきたからじゃないのか? 辞めた時には母は「あそこは儲からなくなって給料が遅配だから」と言っていて、私もそれを信じていたのだが……。

 もしかして、書道をやめた2年前くらいから、今までできていたことができなくなったりしていたのだろうか……。

 そうだとしたら、私が母の異変に気づくのが遅かったのだろうか……。

 母の気持ちを思うと、涙が出そうになる。

 自分がおかしくなっていることは、家計簿がうまくつけられなくなった自分が一番よくわかるはず。だけどそれは恥ずかしいことだから、誰にも知られたくない。だからひた隠しにしたい。たとえそれが夫や娘でも。

 母が何かあるとすぐに「馬鹿にされた」と怒り出すようになったのは、自分の異変を感じ始めたからなんじゃないか、と思えてきた。

 いったい母は今、どんな気持ちでいるのだろうか……。

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■認知症ではありません


 長い日記は、ここで終わっています。

 その2日後、父とも相談して私が母を病院に連れて行ったのですが、検査の結果「認知症ではありません」という結論になったからです。

 どうしてそんなことになったのか。

 どうも、母を病院に連れて行くタイミングがちょっと早すぎたようなのです。

 認知症の検査では、お医者さまが認知症を疑われる本人に「長谷川式認知症スケール」といわれる問診をするのが基本なのですが、母はこの問診でものすごく頑張って高得点を取ってしまったのです。逆に言えば、まだ本人が頑張れば高得点を出せるような時期に検査に連れて行ってしまった、私のミスというわけです……。

 ここでちょっと時間を遡って、母をどうやって説得して病院に連れて行けたのか、からお話ししましょう。

 実際、母に「ちょっと病院に検査に行ってみん?」と言い出すのはかなり緊張しました。家族にそう言われて「私がぼけとるとでも言うんね!?」と怒って病院に行きたがらない人の話はよく聞くし、それでなくても母はもともとプライドが高い人なのです。

 しかし、恐る恐る言葉を選びながら持ちかけると、母は意外なほどあっさり「ほうじゃねえ、それなら行ってみようかねえ」と言ってくれました。

 今思えば、本人も検査したかったのだと思います。問診があるというのは本人も知識として知っていましたから(私は数年前に若年性認知症のご本人と家族のドキュメンタリー番組を作ったことがあるのですが、そのときにご本人が問診を受けて認知症と診断されるシーンを放送し、まだ元気だった頃の母は「娘の作った番組」としてそれを見ていました)、問診で頑張っていい結果を出してお医者さまから「大丈夫。あなたは認知症ではありません」とお墨付きをもらって安心したかったんだと思います。

 なので「長谷川式認知症スケール」の問診を受けるときは、母は異常なくらい張り切っていました。

「長谷川式認知症スケール」とは、1974年に精神科医の長谷川和夫先生が開発された「認知症の可能性がある人かどうかをスクリーニング(ふるい分け)する問診項目」です。あらかじめ決められた9つの質問をお医者さまが順番に聞いていって、正解なら1点、間違えたら0点、と足し算をしていき、30点満点のうち20点以下だと認知症の疑いが強まる……というものです。今も一番ポピュラーな検査法なので、ご存知の方も多いのではないでしょうか。

 質問は「お年はいくつですか?」から始まって、「今日は何年何月何日で、何曜日ですか?」「ここはどこですか?」と見当識障害がないかを確かめるもの、「100から7を引いたら?」「そこからまた7を引いたら?」と数字の把握力や計算力を確かめるもの、3つの単語を覚えさせてしばらく他のやりとりをした後に、「ところでさっき覚えてもらった3つの単語は何だったでしょう?」と記憶力を確かめるもの、など、認知症になると弱っていくあらゆる機能をテストしていくものです。

 母は、お医者さまの質問に前のめりになって、かなり食い気味に答えていきました。その張り切りぶりは異常なほどで、集中するあまり体がどんどん火照っていくのが隣にいてわかったくらいです。

「野菜の名前を思いつくだけ言ってください」という質問には、

「大根、ニンジン、キャベツ、玉ねぎ、ねぎ、じゃがいも、レタス、トマト……」

 先生から「もういいです」とストップがかかるまで、たぶん20個以上、延々と答え続けました。

 そして母は見事、30点満点中29点を獲得したのです。

「そのお年にしては立派なもんですねえ」

 お医者さまに褒められた母は得意満面でした。

 脳のMRI検査でも、特段異変は見当たらないとのことでした。アルツハイマー型認知症の特徴である、海馬(かいば=脳内の記憶や認知機能を司る場所)の萎縮はまだ認められなかったのです。

 結果を聞いた母の喜びようはすさまじいものでした。

 検査を受けた病院からの帰りに、わざわざかかりつけ医のところに「ぼけとりませんでした!」と報告に寄ったほどです。もちろん父にも誇らしげに報告しました。

「お父さんも直子も、私のことをぼけとると思うとったじゃろ? そんなことはないんじゃけんね!」

 そう言われると父も私も、苦笑するしかありませんでした。

 私が東京に戻ってからも、母は事あるごとに自分の友人に、

「直子が心配じゃ言うけん、ぼけとらんか検査しに行ったんじゃけど、30点満点で29点取ったわ〜。1問だけ間違えたんが悔しゅうてねえ」

 そう吹聴して回ったようです。母からその話を聞いたという人はけっこう多くいました(まあ、こうやって同じ話を何度もするというのが、もはや認知症の症状なんですが……)。

 そして私と父は、認知症でないという診断結果が出ると、逆にどうしようもなくなってしまいました。

 明らかに、私がフライング気味に検査に連れて行ったのが失敗だったのです。その数年前に若年性認知症の患者さんの取材をしていたので、認知症の初期症状に普通の人より敏感になっていたんだと思います。

 認知症の疑いが晴れて喜ぶ母を見ていると、ひそかに「確かにおかしいんだけどなあ」と納得いかない思いを抱えながらも、私はもう、母に病気のことを持ち出しづらくなってしまいました。そしてアルツハイマー型認知症と診断が下るまでずるずると、1年半が経つことになるのです……。

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次回の更新予定日は2019年8月20日(火)です。

バックナンバーはデイリー新潮で公開中。
連載一覧はこちらhttps://www.dailyshincho.jp/spe/bokemasukara/から。

信友直子
1961年広島県呉市生まれ。東京大学文学部卒。森永製菓入社後、「グリコ森永事件」当時に広告部社員として取材を受けたことがきっかけで、映像制作に興味を持ち転職。1986年「テレパック」、1995年「フォーティーズ」を経て2010年フリーディレクターとして独立。主にフジテレビでドキュメンタリー番組を手がける。2005年子宮筋腫により子宮摘出手術、2006年インド旅行中に列車事故で重傷、2007年乳がんを発症など波乱の人生。乳がんの経験はセルフドキュメント「おっぱいと東京タワー」(フジテレビ、ザ・ノンフィクション)として放映。

(C)「ぼけますから、よろしくお願いします。」製作・配給委員会

2019年8月6日 掲載

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