認知症の母を93歳の父に任せて東京に帰る娘の葛藤 【ぼけますから、よろしくお願いします。】

 ある年の元旦に、認知症発症後の母親が発した言葉がタイトルになった映画『ぼけますから、よろしくお願いします。』。ディレクターの信友直子さんが監督・撮影・ナレーターを務めたこの作品は、ミニシアター単館上映で2018年11月から公開されるや話題を呼び、上映館全国100館近く、動員数10万人を超えるドキュメンタリー映画としては異例のヒットとなっています。

 陽気でしっかり者の母親が徐々に「出来なくなっていく」一方、家事はいっさい妻任せで90を超えた父親が「やらなければならなくなる」様子を時に涙ぐみ、離れて暮らす自責の念や夫婦・家族の絆を噛みしめつつ見つめる娘。そして、認知症はどう進むのか、家族に認知症患者がいるとはどういうことか、老老介護の現実とは……それらを冷静に記録していこうとする取材者――2つの立場で踏ん張り、あるいはその間で揺れながらカメラを回し続けた信友さんが、映画に盛り込めなかった数々のエピソードを語り尽くす好評連載です。

 ***

■扇風機を盗られた


 2013年には、母のことが心配で3回帰省しました。まだ家事は母がやっていましたが、父曰く、

「料理が甘かったり辛かったりでのう。ちょうどええ味のときがえっとないんじゃ」

 とぼやいていました。ごはんの水加減もうまくいかないようで、柔らかかったり硬かったり、まちまちになっていたようです。

 でも、それを指摘すると母の機嫌が悪くなるので、父は文句も言わずに食べているようでした。

 味付けが薄いときには、母が見ていないところでこっそり塩を振るのだそうですが、

「おかずの味が濃いすぎるときにはどうするん?」

 と聞いたら、

「『今日はお茶漬けにしようかのう』言うて、辛うて食べられんおかずをごはんに載せて、その上から湯をかけて薄めるんよ」

 そう言うので思わず想像して笑ってしまいました。と同時に切なくなりました。

 もともと父はそこまで母に気を遣うような人ではなく、料理が美味しくなければ(そもそも美味しくないことはほとんどなかったのですが)母にはっきり言っていたのに、そんな父が気を遣って黙ってしまうほど、母が「文句を言わせないオーラ」を出しているのだ、と感じたからです。それは裏を返せば、母の不安や自信のなさのあらわれです。

 母はもともと料理がうまく、しかも研究熱心で、ご近所の家庭科の先生が開いておられたお料理教室に何年も通ってレパートリーも多かったのです。しかしこのころはだんだん、自分の得意料理ばかり作るようになっていました。レシピが頭に入っていて、間違えない自信があるものしか、怖くて作れなくなっていたのでしょう。

 なので献立は、肉じゃが、おでん、煮魚の3つをグルグルと回っていたようです。

 父は、今日もまた肉じゃがかぁ……と思ったある日、

「もう肉じゃがは飽きたけん、ちょうど味が薄かったし、そこにカレーのルーを入れてカレーにしてみた」

 と私への電話で言っていたことがあります。

「へえ〜お父さんがやったん?」

 意外に思って聞くと、

「わしにもそれくらいできるわい」

 と笑っていましたが、おそらくこれが父の記念すべき料理1作目じゃないかと思います。

 でも、母はどう思ったんだろう、自分の料理に手を加えられて傷ついたんじゃないかしら。心配になったので、電話を代わってもらって聞いてみると、母は夕飯にカレーを食べたことすら忘れていました。

「え〜? カレーじゃったかいねえ? なんかほかのもんを食べたような気がするが」

 私は、お母さんが覚えてないんならまあいいか、と思ったと同時に、母は今食べたものも忘れるようになったのか、とショックを受けたことを覚えています。

 私が帰省すると、台所で母と私、どちらが料理の主導権を取るのか、静かな攻防戦が始まるようになりました。

 母が元気なうちは、明らかにリーダーは母で、私は助手でした。母が私に手料理を食べさせたいと張り切って台所に立ち、私は母を手伝いながら料理のコツを盗ませていただく、そんな関係でした。台所は母の城で、私は母の許可がないと、置いてある鍋の位置ひとつ変えることはできませんでした。

 でも母の料理がおぼつかなくなってくると、父のためにも、私が料理を作った方がいいということになります。父は私が帰省すると「なんか美味しいもん作ってくれや〜」と期待を込めた目で訴えてくるし。

 でも母は文字通り台所に「立ちはだかって」いました。

 私が台所で何かしようとすると「どうするん? お母さんがするけん」と、まるで通せんぼをするみたいな感じで狭い台所に立ち、入らせてくれないのです。

 食料品の買い物は、母だけで行くと買い忘れがあったり、途中で何を買えばいいのかがわからなくなるので、「お母さん一緒に行こうや」と私もくっついて行って、

「今日は何にするかね? 私、お母さんの炊き込みご飯が食べたいわあ」

「ほうね、ほいじゃあ、そうしよう」

「炊き込みご飯なら、鶏肉と油揚げとニンジンを買わんといけんね〜。ニンジンはもうウチになかったじゃろう」

 とさりげなくフォローしていました。なのでそれほど問題は起きませんでしたが、家に帰ってからが大変です。

「お母さんがやるけん、あんたは休んどってええよ」

 母は料理を自分で仕切ろうとし、私は母を立てるふりをしながら、母には野菜を切ってもらったりして忙しくしてもらい、その隙に味付けなどの重要なところは自分でやるという、ちょっと姑息な手段に出ていました。

 でも案外母にはバレなかったようで、それで機嫌を悪くするようなことはありませんでした。

 ……と思っていたけど、本当はバレていて、気づかないふりをしていただけなのかな?

 今になるとそう思います。

 この年の夏には、「扇風機を盗られた」という騒動もありました。

 夏に帰省すると、扇風機が新しくなっていました。それまで実家の扇風機は、私が子供のころからの年代物で、それを両親は二人して大切に使っていたのです。もともと両親は二人とも、よく言えば節約家、悪く言えばケチで、あまりものを買い替えずに古いものを大切に使う主義なので、私にとってはけっこう驚きでした。

「扇風機買い換えたん?」

 と母に聞くと、

「古い扇風機はね、〇〇さんが来たけん玄関に出して涼ましてあげよったら、知らん間に持って帰っちゃったんよ」

 と言うのです。

 このあまりに荒唐無稽な話に、私は思わず笑ってしまいました。ウチの扇風機は50年近く前の代物なので、室内を移動させるのも大変なくらい、重くてかさばるのです。ご近所の〇〇さんというのはかなりご年配の人なので、それをウチから持って出て、えっちらおっちら運んでいくなんてこと、できるわけがありません、人目もあるわけだし。

 母によく聞くと、その人の訪問と扇風機がないと気づいたときが同じ日だったかどうかも怪しくなってきました。それでも自説を曲げず、

「どうやって持って帰ったんじゃろうか、ああような重たいものを」

 としきりに不思議がる母に、

「近所の人にそんなこと言うたらダメよ。揉め事のもとになるけん」

 父と二人で何度も言い聞かせました。

 ちなみに後日談ですが、古い扇風機は、それから2年後、私が納戸を整理していたときに奥の方から無事見つかりました。

■私が帰ってきた方がええかね?


 2014年お正月明けの、1月8日。

 父と相談して、母をもう一度検査に連れていくことにしました。

 それまでは、2012年に検査をして「認知症ではありません」と言われたことが、ある意味母の心の支えになっていて、それで自尊心を保っていたようなところがあったのですが、1年半が経って、どうやらそんな事実さえも忘れたようなので……。また検査に行ってもいいタイミングかな、と思ったのです。

 認知症は今の医学では、治したり進行を止めたりすることはできないのですが、いくつかの薬が開発されていて、飲めば進行を遅らせられるという臨床データもあったので、母に薬を飲ませてみたい気持ちもあったのです(まあ、同じくらい薬の副作用の心配もあるので、悩むところでしたが……)。

 母に話すと、1年半前に検査を受けたことは何となく覚えていて、

「やさしい先生じゃったねえ。あの先生のところならまた行ってもええわ」

 と嫌がるそぶりがなかったのでホッとしました。

 病院に行っても母はニコニコと愛想良く、

「先生こんにちは。お世話になります」

 とご挨拶し、

「娘が東京から帰ってきてね、お母さんまた検査しに行こうや言うから来ました。普段離れて暮らしとるし、私が年じゃけん心配なんでしょうねえ」

 と自分から来院の目的をしっかりと話していて、お医者さまも「はあ、そうですか」と苦笑い。

 しかし、1年半前の検査では「長谷川式認知症スケール」という問診テストをすごく頑張って、30点満点中29点という好成績を残した母ですが、今回は頑張れませんでした。

 お医者さまから「今日は何年の何月何日ですか?」と聞かれたとたんに「どうじゃったかいねえ」と私に助けを求めてきたのです。1問目から自分で考えるのを放棄して私に頼ろうとしてきた……。これは認知症の人の典型的な反応です。

「お母さんが聞かれよるんじゃけん、お母さんが答えんにゃ」と言っても、ごまかし笑いをするばかり――ああ、1年半の間にここまで進んだのか。

 前回は得意だった「野菜の名前をできるだけ挙げてください」という質問にも、3つくらい答えたところでもう思いつかなくなってしまいました。あんなに毎日、いろんな野菜を使って、いろんな料理を作ってくれた母なのに……。

 結果は30点満点中の14点。20点以下だと認知症の疑いが強いと判断されますから、母はこの時点で限りなく黒に近いということになります。

 それでも私は、母が最後まで穏やかに問診テストをやり切ったことをほめてあげたいと思いました。問いに答えられないことが続いたので、途中から私は内心ひそかに、「母が機嫌を悪くしたらどうしよう、自暴自棄になったらどうしよう」とハラハラしていたのです。「100から7を引いたらいくつ? なんて、子供に聞くようなことを聞いて馬鹿にしとる」と怒り出すんじゃないかと。

 でもそれは杞憂でした。意に沿わないことがあると不機嫌になるのは家族の前でだけで、人前では不甲斐ないことがあってもいい顔をしていられるんだ……。母の、結果が芳しくなくても笑顔を絶やさない様子を見て、そう痛感しました。それは私には、母の社会性が失われていないことへの喜びでもありましたが、母が本当は泣きたいのを我慢しているのかなあ、と想像するとかわいそうで私の方が泣きそうにもなりました。

 脳のMRI検査の結果も出ました。今回の画像を1年半前に撮ったものと見比べると、私のような素人が見ても脳全体が萎縮して空洞ができているのがわかりました。特に記憶をつかさどる「海馬」の部分の萎縮は顕著でした。

「アルツハイマー型認知症です。もう薬を飲み始めた方がいいかもしれませんね」

 私は診断にショックは受けませんでした。むしろ、やっと病名がついたことにホッとしたくらいです。それよりも私がショックだったのは、お医者さまに病名を告げられても母がそれに反応しなかったことです。あいかわらず看護師さんたちにニコニコ愛想を振りまきながら、「最近膝が悪うてねえ」などと全然関係ないことを言っている母……。

 母は自分が「アルツハイマー型認知症」だと言われたことの意味がわかってないのか?

 そこまで状況把握能力がなくなっているのか?

 実家に帰ると父はコーヒーを淹れて待っていました。父なりに、検査を頑張ってきた母をねぎらおうとしたのでしょう。

 私は、母が脱いだコートをしまいに行った瞬間を狙って、父に告げました。

「アルツハイマー型認知症なんだって」

 検査結果の紙を渡すと、父はしばらく読んでいましたが、納得したようで、

「やっぱりのう」

 と一言。そこに母が戻ってきて、冗談めかした言い方ではありましたが、

「まったく、ぼけとりもせんのに、みんながぼけとる、ぼけとる、言うんじゃけんねえ」

 あ、母はわかっていたのか。私はドキッとしましたが、父がとっさに場を収めてくれました。

「ほうよ、ぼけとらんのなら、気にすることはないわい」

 ありがとうお父さん。さすが家長さんだわ。その瞬間、父をものすごく頼もしく感じました。

 母はメマリーという、認知症の症状の進行を抑制するといわれる薬を飲み始めることになりました。最初は容量5rから始めて、副作用が出なければ10mg、20mgと増やしていくことになります。

 副作用として考えられるのは、主にめまいやふらつき、眠気などですが、人によっては痙攣を起こしたり、妄想や幻覚が現れるケースもあるそうなので、家族が注意して見守っていなければなりません。

 しかし私はそろそろ、仕事のために東京に帰らなくてはなりませんでした。

 このとき母は85歳、父はもう93歳でした。

 元気とはいえ93歳の父に、認知症の母の様子をみてもらっていいのだろうか。私が呉に帰って世話をしなければいけないのではないか。

「私が帰ってきた方がええかね?」

 父に問いかけると、父は言下に断ってきました。

「いやいや、あんたは帰らんでもええ。わしが元気なうちは、おっ母はわしがみるけん、あんたはあんたの仕事をしんさい」

 そのときの私の気持ちを正直に言うと……父にそう言ってもらってホッとした、というのが一番でした。親不孝だとは思いますが、それが隠し事のない、ありのままの私の気持ちです。

 私は独り者で、東京に家族はいないですから、夫や子供がいる人に比べれば生活拠点を実家に移しやすいとは思います。それに私はフリーランスのディレクターで、作品1本ごとに契約してギャランティーをもらう働き方です。会社の勤め人ではないので、有給休暇をいつまで取れるかとか、休職するのかそれとも退職しなくちゃいけないのか、といった心配はありません。次の作品を契約さえしなければ、すぐにでも仕事は辞められる、そういう意味では自由度が高い働き方です。

 でもそれは逆に言えば、次の作品を断ってしまうと、すぐに仕事=収入源がなくなってしまうということでもあります。そんな不安定な立場で、歯を食いしばり、自分が頑張って手にしたこの職を失いたくない……そんな未練がありました。

 東京で女ひとり、フリーランスでこの仕事で食べるためには、やはり努力を続けてきました。好きな仕事なのであまり辛いとは思いませんでしたが、45歳で乳がんになったのも寝る間を惜しんで働いたことが原因だと思っていますし、乳がんの治療をしている間も休まず仕事は続けてきました。フリーランスで独身なので、自分が働かないと治療代も払えないし、食べていけなかったからです。まあこの仕事が好きだから、がんという大病を患っても辞められず、性懲りもなく続けてきたという言い方もできますが。

 そこまでしてしがみついてきた大好きな仕事なのに、手放したくない。このころはまだ、その思いの方が強かったのです。だから父に「私が帰ってきた方がええかね?」と恐る恐る聞いてみて、まだ「帰らんでもええ」という免罪符をもらえたことで、内心ホッとしていたのです。

 しかしこうやってホンネを書いてみると、本当に自分勝手な娘ですね……。我ながら嫌になります。


■「お母さん、元気でね」


 翌日、広島空港行きのバス停まで、母が送ると言ってくれました。

 バス停は実家から歩いて10分ほどのところです。このころはまだ、母もそのあたりまでは迷わず行けましたし、父も私も「お母さんはバス停から一人で帰れるんだろうか」という心配はしていませんでした。まだまだ症状は軽かったわけです。

 外は雨。母はバス停への道すがら、

「仕事が忙しいけん言うて頑張りすぎんのよ。人の仕事まで買うて出ることはないんよ」

 と私の体の心配ばかりしていました。

「東京に着いて雨が上がっとっても、傘を忘れんように持って帰りなさいよ」

 ときっちりした性格の母らしい、細かい注意も受けました。

 お母さん、傘より大切なことがあるじゃろう。昨日から認知症の薬が出とるんじゃけん、毎日忘れずに飲みなさいよ。私はそう言いたかったけれど、もう母に病気の話はしないことにしよう、と思いとどまりました。母とは普段通りに接しようと決めたじゃないか。普段通りのたわいない会話をして、普段通りに別れよう。

 バスがきて、母との別れの時がやってきました。

「お母さん、元気でね」

 私には、それしか言える言葉がありませんでした。次に帰ったときも、元気で、同じように私を迎えてね。

 手を振る母が、どんどん遠ざかってゆきます。

 私はバスの中からカメラを回していましたが、今見ると母が視界から消えた後、ものすごくカメラが揺れています。プロとしては失格なほどの画面の揺れ。

 これは私の心の揺れなんだなあ、と今になると思います。認知症と診断された母を、93歳の父に任せて、こうやって去って行って本当によかったのだろうか。やっぱり私は救いようのない親不孝なんじゃないか……。バスの中でも、東京への飛行機の中でも、恥ずかしいくらい泣いたのを覚えています。

 母が一人でバス停まで見送りに来てくれたのは、これが最後になりました。

 次の帰省からは、「お母さん見送りに来てや」と言っても、「膝が痛いけんねえ」とかいろいろな理由をつけて断られるようになったのです。

 おそらく、私を送った後一人で家まで帰れるかどうか、自信がなくなったのだと思います。

 そして私の、本格的に東京と呉を行ったり来たりの日々が始まりました。

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次回の更新予定日は2019年9月3日(火)です。

バックナンバーはデイリー新潮で公開中。
連載一覧はこちらhttps://www.dailyshincho.jp/spe/bokemasukara/から。

信友直子
1961年広島県呉市生まれ。東京大学文学部卒。森永製菓入社後、「グリコ森永事件」当時に広告部社員として取材を受けたことがきっかけで、映像制作に興味を持ち転職。1986年「テレパック」、1995年「フォーティーズ」を経て2010年フリーディレクターとして独立。主にフジテレビでドキュメンタリー番組を手がける。2005年子宮筋腫により子宮摘出手術、2006年インド旅行中に列車事故で重傷、2007年乳がんを発症など波乱の人生。乳がんの経験はセルフドキュメント「おっぱいと東京タワー」(フジテレビ、ザ・ノンフィクション)として放映。

(C)「ぼけますから、よろしくお願いします。」製作・配給委員会

2019年8月20日 掲載

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