勝新太郎が求めた“空気を聴き合える相手” 三船敏郎との「すれ違い」

勝新太郎が求めた“空気を聴き合える相手” 三船敏郎との「すれ違い」

勝新太郎

■湯浅学「役者の唄」――勝新太郎(7)


 勝新太郎は、名優であるとともに名音楽家であった。音楽評論家の湯浅学氏が、不世出の存在ゆえの“孤独”に迫る。


■勝新の孤独と原田美枝子の孤独


「オレはカメラのメカニックなことはよくわかんないから、シャッター押すのにも、三味線の間でもって押しちゃったりするんだよ。シャッターってのはパッと押そうが、スーッと押そうが、同じって聞いてもね、オレはスーって押しちゃうんだな。自然にそう体が動くわけよ」

 原田美枝子を勝新が撮った「写真集 勝VS美枝子」の中で勝新はこのようなことを語っていた。8泊10日のハワイでの撮影で勝新は原田を“人間の女”というよりも“ひとつの生物”として撮った。“こいつはいったい何なんだ”という好奇心はいつしか尊敬や広大な人間愛を超えていってしまったように思う。原田の肉体が自然の中に置かれたまま大気に溶けている。勝は原田だけを撮ったのではない。原田を生んだ星を写したのだ。

 勝新は芸を追求していたのでも、俳優道に深くわけ入っていったのでもなかった、と感じることがある。自身が監督した作品から特にそれを強く感じる。原田の写真集もひとつの映画作品のように作られている。水滴のアップや風景の中にポツンといる原田やマシンガンを構える原田、沼に入っていく原田などが、横たわる原田や裸の原田や原田の顔のアップとともに織り込まれている。原田を被写体として、勝が自分自身を表現しようとしているのではなく、原田美枝子をひとつの謎としてとらえ、その謎とは何か?何故生まれたのか?をカメラを通して考察した、そのドキュメンタリーがこの写真集なのではないか。

 勝新の孤独が原田美枝子という孤独と響き合う。そのためのカメラである。そのカメラを勝新は“三味線の間”で使った、というのである。勝新にとって、カメラもまた楽器だったのだ。

“間”は勝新にとって、芸道のみならずコミュニケーション、人間関係、演出において最も重要なものだった、と思う。おそらく生涯をかけて追求したものとは“間”だったのではないか、とさえ思う。しかもただ単にテンポがよいとかビートがなめらかとか、小気味いいとか、そういうものではなく、不気味な間、死と背中合わせの間、尻がむずがゆくなる間など、あえて気配の間とでもいうような、ぎこちない間を取ろうとすることもあった。間とは、人と人とのつながりの基本でもある。孤独である間とは、人とではなく自分と大気との関係のことである。

 勝新は、三味線の間でシャッターを切る。それは芸人として身についた所作は無意識の領域にある、ということだろう。つい三味線を軸にして万物に対していた、と考えることもできる。全身俳優である以前に勝新は全身音楽家だった、と思うのだ。

 映画界にあっては、むしろそれゆえに孤独だったのではないだろうか。


■世界のミフネとの擦れ違い


 俳優であれば誰もが孤独だ、という前提とはまた別の次元の孤立、ともいえる。だからこそ、「悪名」や「兵隊やくざ」のような、相棒や相方がいる作品ではなく、単独でいるのが常態である「座頭市」が勝新自身の中に強く残りつづけたのだ。

「座頭市」シリーズは作品ごとに敵対するやくざたちとは別に相手役となるライバル、剣豪が登場する。座頭市に挑むことになる彼らは、それだけに“ワケあり”ではあるが俳優によって、それぞれの間合いがあるため、座頭市と交流する(できる)者と、刃をまじえるのを主体としすぎるために交流しているようで結局擦れ違い続けただけで終わってしまう者とに分かれる。

「新座頭市 破れ!唐人剣」(1971)は、擦れ違いそのものがテーマになっている作品であるから例外だが、それがむしろ「座頭市」シリーズ全体のテーマが、孤独な交流にあることを明らかにした、と思う。

 ぎこちなく、対立と交流を繰り返したのが、「座頭市と用心棒」(1970)だ。“世界のミフネ”こと三船敏郎の間は勝新の間となかなか重ならない。それが持ち味とはいえ三船は終始勝新の“演奏”に聴く耳を持たなかった。顔を合わせて「けだもの!」「バケモノ!」とののしり合いはするものの、三船は自分勝手な解釈から勝新が、歩み寄ろうとする場面においても素通りしてしまう。利害関係はもともとないし、市(勝新)にとっては用心棒の欲望につきあう理由もストーリーの中から見出すことができない。ライバルのようでライバルになりえない。座頭市シリーズにおいても特殊な関係であった。そのため最終的に直接対決がなしくずしになってしまう。

 この作品では勝新は聴き手にまわる場面が多くなった。勝新が三船の伴奏者となる。これは対決は期待できないな、と見ているほうが途中で察するようになる。座頭市シリーズでは女性が市と剣豪あるいは敵との間に入って伴奏者またはストーリーの幹に重要な枝葉をつけることが多いが、「座頭市と用心棒」では、その役割を果たすはずの若尾文子が孤立してしまっている。若尾文子が三船に話しかけても、三船の身には入っていかない。それは空気に匂いがないことでわかる。この映画では市が風を読んでいるシーンがない。むしろ用心棒が市の前に壁を作っている印象が強い。映画における匂いは人と人との摩擦によって増減する。勝プロダクションと三船プロダクションの二つが並び立つとはこういうことか、と振り返って思う。どちらも50年前の映画界の支えになっていたことも考え合わせなければならない。

 監督の岡本喜八は、といえば、活劇シーンよりも後半は謎解きの方に気を配っていたのではなかろうか。市の立ち廻りにも鋭さがやや欠けている。そのかわりなのか、用心棒は30人以上を斬っている。市が9人しか斬っていないにもかかわらず。もうひとこと言っておくと、せっかくの岸田森の扱いが軽いのももったいない、と思う。

 大物プレーヤーが揃っているのに、と思うが、こういう場合、お互いがプレーを控えてしまう、ということが音楽の場合でも往々にしてあるものだ。マイルス・デイヴィスとジョン・コルトレーンとか、デューク・エリントンとカウント・ベイシーとか。「バグス・グルーヴ」のセロニアス・モンクとマイルス、という図も「座頭市と用心棒」で少し浮かんだ。

 ともに演奏を楽しめる相手とは、お互いの耳が対峙したときにお互いの所作の空気を聴き合える人間、ということだ。勝新は一生その“相手”、共演者というより合奏して気持ちのいい“好呼吸者”を探し求めていたのだ。

湯浅学(ゆあさまなぶ)
1957年神奈川県横浜生まれ。音楽評論家。「幻の名盤解放同盟」常務。バンド「湯浅湾」リーダー。著書に『音楽が降りてくる』『ボブ・ディラン――ロックの精霊』『大音海』『音山』『嗚呼、名盤』、監修に「スウィート・スウィートバック」など。

編集協力:平嶋洋一(キネマ旬報)/週刊新潮WEB取材班編集

2020年8月12日 掲載

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