7回忌を迎えた「高倉健」 「実妹」も「チーム高倉」も呼ばれない異様な密葬の光景
2020年11月09日 11時02分 デイリー新潮

在りし日の健さん
■慶応病院の特室での最期
映画俳優・高倉健が鬼籍に入ったのは2014年11月10日のことだった。早いもので今年は、亡くなって7回忌を迎える。そのプライベートは生前、厚いベールに覆われていたが、その秘密は年を追うごとに徐々に語られ始めている。不思議な面々が集った密葬の光景や「養女」の父親へのインタビューから名優を偲ぶ。
(週刊新潮2015年11月19日号に加筆・修正しました。肩書や年齢などは当時のものを採用しています)
<ちりて後おもかげにたつぼたん哉>(蕪村)
うしなってから折に触れ顔かたちが甦り、その存在の大きさに気づくというのは、残された者の宿命である。
「背中(せな)で泣いてる唐獅子牡丹」と劇中で口ずさんだ俳優・高倉健が悪性リンパ腫のため息を引き取ったのは、2014年11月10日のことである。時刻は午前3時49分を差していた。
享年83。場所は慶応病院3号館6階の「特室」。かつて安倍晋三首相が潰瘍性大腸炎で入院したこともあり、一泊10万円を下ることはない部屋だ。
そのちょうど1年前の13年11月、健さんが文化勲章を受けたときの会見で、「200何本という膨大な本数の映画をやらして頂きましたけど、ほとんどが前科者。そういう役が多かったが、こんな勲章を頂いて」と喜びを口にしたうえで、「これからの作品選び、章に恥じないものをやらなければいけないと思っている」
こんな風に“次”への意欲を燃やしていたものだ。
だが、それを打ち砕くように病魔はすでに身体を蝕んでいた。
■2013年5月1日に健さんと縁組をして養女に
事実、健さんと30年来の交遊がある気学の研究家・安部芳明氏は、体調の悪化を感じ取っていたようで、
「そのころ、高倉さんに珈琲を送ったことがありました。ご存じの通り、高倉さんは珈琲を非常に好まれていましたから、珍しいものが手に入ると送っていたんですよ。そうすると必ず直筆の礼状が来るのですが、そのときは代筆の手紙でした。そんなことは今まで一度もなかったので、筆が取れないほどに重篤なのかな、と思ったものです」
ちなみに安部氏は、自身が監修する手帳に健さんの運気の良い方角などを記して伝えたり、人生訓のようなものを毎月のように送り続けてきた。
ともあれ、没してのち1年を迎えるまでのあいだ、付き合いを率先して話す人、黙して語らない人、さまざまではあったが、みなが虚を衝かれたのは、「健さんに、かつて女優だった養女がいた」という告白ではなかったか。
今年で51歳になる彼女は2013年5月1日に健さんと養子縁組をした。結果、唯一の子として預貯金や不動産を相続したうえで、『永久保存版 高倉健 1956-2014に手記を発表し、18年に亘る献身や健さんとの最期の日々などを明らかにしている。
しかしながら、ものごとにはすべて表と裏があり、さらに言えば、「大事なことは語られない言葉の中にある」といった警句がないわけではない。
それでは、秘匿されてきた密葬の光景から述べることにしよう。
■5人の列席者
<故人の遺志に従い、すでに近親者にて密葬を執り行いました>
と所属事務所が公表したのは昨年11月18日のことだが、葬儀は12日、渋谷区内の代々幡斎場で営まれている。
<【密葬】身内の人たちだけで内うちに葬式を済ませること>(新明解国語辞典)
よく知られるように健さんは4人きょうだいの2番目で、兄と上の妹はすでに物故したが、一番下の妹である敏子さん(80)は九州在住。
そして彼女を含む健さん以外のきょうだいには、それぞれ2人ずつ子供がいる。すなわち、健さんから見れば甥や姪にあたる人たちだ。とはいえ、彼らに対してその時点では、健さんの死さえ伝えられていない。
その代わりに、密葬に列席を許された人物を明かせば、島谷能成・東宝社長、岡田裕介・東映会長、田中節夫・元警察庁長官、老川祥一・読売新聞最高顧問、そして降旗康男監督の5名。
煎じ詰めると、“身内”と呼べるのは血のつながらない養女ひとりだったのだ。
「みなさんは故人となった父の遺志で特別にお呼びしました。今後、父の供養をやっていくにあたって、バックアップをお願いしたいと思います」
彼らに対してこう語りかけた養女には、50歳に達してなお美貌の女優であった名残があり、ひときわ目立つ顔全体を覆うベールからもそれがうかがえた。
その一方で列席者に当日のことを問うと、押し並べて、「ノーコメント」(老川氏)などといった対応をするものの、
「彼らのなかには健さんに“娘”がいたことをそれまで知らなかった人もいたし、“なぜ自分が呼ばれたのだろうか”と戸惑いを隠せない者もあり、ある種、独特の空気が流れていました」(芸能関係者)
■健さんが弟分として可愛がった小林稔待さんが入っていない
これを聞いた映画関係者によると、
「そもそも監督以外は、健さんと縁が深いとは言えない方々。『近親者』と事務所が言うのなら、たとえば、健さんが弟分として可愛がった(小林)稔待さんが入っていないというのはなぜか。あるいは、岡田さんは健さんと絶縁状態だったんですから、そんな席に呼ばれるはずがありませんよ」
映画評論家の白井佳夫氏によると、岡田会長の父・茂氏の時代に話はさかのぼる。
「岡田茂は、“不良性感度の高い映画をつくる”としてヤクザ映画路線を推進した。ただ、70年代半ばを過ぎると世の中の波長と合わなくなっていく。それを肌で感じた高倉健は任侠路線から離れたいと主張して岡田茂と衝突、76年に東映を退社するに至ったのです」
健さんは99年の『鉄道員』で久々に東映映画へ“復帰”を果たしたが、
「あくまでも例外で、今の裕介会長の代になっても両者の確執が氷解することはなかった」(先の映画関係者)
さて、密葬列席でようやく和解できたという思いが募っていた岡田会長に、“見せ場”がやってくるのは火葬後のことだ。
「岡田さんが骨を口にしようとして、“アチチ”となったんですよ。健さんは母親が亡くなった際に『あ、うん』の撮影中で、葬儀に間に合わなかった。撮影終了後、遺骨と対面した健さんは骨をかじって“これで一緒にいられる”と言った。それを岡田さんは“再現”しようとこころみたわけです」
とは、事情を知る民放幹部。実際に健さんも、こんな内容を自著に綴っている。
「仏壇の骨箱を開け、母の骨を見ていた。急に無性に別れたくなくなって、骨をバリバリかじってしまった」
岡田会長の場合は、十分に骨が冷えていない“フライング”だったのか、はたまた異色の密葬を盛り上げようとピエロ役を買って出たのか、ともあれ会長に尋ねたところ、
「そのような事実はない」
と仰る。
■笠智衆に可愛がられた養女
その町には、時代から取り残された地域特有の暗い空気が漂っていた。
東京・板橋。都の住宅供給公社が1957年に造成した、背の低い長屋づくりの団地の壁はクリーム色の塗装が大分はげおちている。
「去年パジェロに乗ってやってきたけど、わたしの吸うタバコの煙を嫌がって、“もう来ない”とすぐに帰ってしまいました。珈琲セットとか果物を贈ってきたり、年賀状のやりとりはあったけど、最近はなくなりました」
と、“娘”についてポツポツ話し出したのは、他ならぬ養女の実父・久夫さん(80)である。
「で、高倉健ですか。養子になったというのは聞いてなかったです。そう言えば2年くらい前に来たときは、30万円が入った封筒を置いて行きました。何の仕事をしてるんだろうと心配したりもしたけど、わざわざ本人に聞いたりなんてしませんよ」
「妻、つまりあの子の生みの親とは30年くらい前に別れましたが、あちらと娘はウチよりも付き合いが深いようです。芸能界ですか。それは娘が千代田女学園という学校にいた18歳のときにスカウトされてね。でもわたしとしては、学校で『校長賞』も獲るほど勉強に打ち込んでいたから、てっきり学業を優先するかと思っていたんです」
もっとも娘の方は芸能界への思いを断ちがたく、進学した短大を中退して20歳でデビュー。最初の仕事は、民謡歌手のアシスタントとして全国を行脚するというもの。そのうち、橋田壽賀子さんや山田太一氏といった名脚本家のドラマで重要な役も回ってきた。
「俳優の笠智衆さんと共演してから、ずいぶん可愛がってもらったみたいです。特にあれだこれだって本をいろいろと勧められて家で読んでいました」
■健さんが、“家の仕事をしてくれる人を探している”と話していた
芸能界の仕事からは次第に遠のくのだが、
「26歳くらいのときに結婚しました。旦那は日仏ハーフで、その父親はWHOの事務方トップだったかな。赤坂の日枝神社での立派な式でしたよ。でも……」
と言葉を継いで、
「稼ぎをあてにするだけの夫に愛想を尽かして、1ヵ月くらいでウチへ戻ってきました。それから、ホテルについて書いたり話したりっていう仕事もやるようになった。笠智衆さんのアドバイスのお蔭だとわたしは思っていますよ」(同)
仕事は軌道に乗って3冊の著書を上梓、世界の一流ホテルを紹介する「THE HOTEL」(テレビ朝日系)という番組のプロデューサーも務めた。
他方で、
「2回目の結婚は、仕事で知り合ったNHKのプロデューサー。それも1年くらいでダメになっちゃった。相手の男もバツイチだったんですが、離婚相手への養育費や慰謝料ばかりにカネを使って自分に回さないのを不満に思ったみたい」(同)
どうやら良い縁には恵まれなかった養女が健さんと出会ったのは、19年ほど前のことである。
「健さんが、“家の仕事をしてくれる人を探している”と話していたのを記憶しています。で、あいだを取り持ったのは、両者と親しい鮨屋の大将だったかな。健さんに気に入られ、世田谷区瀬田の自宅に住みこむようになったんです」
とは、先の映画関係者。
「あの家には敷地内に2つの建物が別々に建っていたんですが、彼女が住むようになってしばらく経ち、棟同士をつなげる工事をして中で往来ができるようになりました」
たとえばその工事が物語るように、単なる身の回りの世話役からより重いものへと立場を変えながらも、彼女の存在は対外的には長らく伏せられた。
それは、健さんの24時間をサポートする「チーム高倉」に対しても、である。
このチームを構成するのは、1年365日、健さんの話し相手となる理髪師だったり、幾台ものクルマの管理をするメカニックだったりと、全てを健さんに捧げてきた男たちである。
結果的に、「チーム高倉」や長年可愛がられてきた小林稔待らは、先に触れた親族同様、密葬に列席することは叶わなかった。それだけ、養女との距離があったということなのだろう。
■鎌倉霊園に墓地を確保していた健さんだったが…
ところで、ここに来て持ち上がっているのが、遺骨と墓を巡る問題である。
健さんは生前、鎌倉霊園に墓地を確保していた。そこには、71年に離婚した江利チエミとのあいだの“水子”が眠り、命日に墓参する健さんの姿がしばしば目撃されている。
だから、没後はそこへ入ることを疑う者などいなかったのだが、事はそう単純ではないようだ。
「今年春のことですが、『チーム高倉』を中心とした有志が、供養塔のようなものをその墓地に作れないかと考えて、霊園側に相談を持ちかけました。健さんを追悼する場所がないというのは彼らのみならずファンにとっても、もどかしいことだと。でもそこで霊園側から“管理費が滞納されている”と伝えられたそうです」(同)
ちなみに鎌倉霊園の年間管理費は1uあたり約2400円。健さんの墓は27uなので6万円強となる。
チームの面々は、“聖地”を死守すべく、仮に墓地が解約されることになっても、これまで通り利用できるように霊園側へアプローチしていると言うのだが、そうするとしたら、名門霊園ゆえに1u100万円を越すカネが必要となってくる。そもそも養女が管理費の支払いを忘れただけのなのか、あるいは墓など不要ということなのか。
「実は」
と、先の民放幹部がこれを受けて、
「養女は密葬の席で、“みなさんにお骨もお持ち帰りいただきたい”と提案したようですが、一方で健さんの妹の敏子さんは正式に遺骨と対面できないでいる。だからといって決して不満を漏らすことはないのですが、初盆を迎えた今年夏ごろにふと“あたたかな言葉がひとつでもあれば……”とこぼしていたことがありました」
これを敏子さんに質すと、回答としてこんな句を寄せた。
<霧の花胸三寸に収めけり>
国民的俳優の遺志、養女と健さんの妹の意思。それらがひとつに結ばれる日が期して待たれるのである。
週刊新潮WEB取材班
2020年11月9日 掲載