有吉弘行や華原朋美も身体を張った、今なら炎上必至『電波少年』出演者が語る舞台裏

2021年1月から放送される『電波少年』(wowowホームページより)

 これまでになかった突撃企画で大人気だった、伝説のバラエティー番組『電波少年』シリーズ。無名状態から、一躍人気者になった出演者も多いもの。彼らに忘れられない、トラウマ級の思い出を語ってもらいました。あの衝撃&爆笑&感動が今、よみがえる!?

いまや文化人の仲間入り状態の芸人・矢部太郎も電波少年からブレイクした

■ 今年1月より、松村邦洋と松本明子が司会を務める『電波少年W〜あなたのテレビの記憶を集めた〜い!〜』(WOWOWプライム)の放送が突如としてスタートした。

「テレビの記憶を掘り起こす」がコンセプトの同番組には、元猿岩石の森脇和成やカラテカの矢部太郎など『電波少年』(日本テレビ系)出身者がゲスト出演することもあり、番組内で語られる当時のハチャメチャな秘話には今も驚かされる。

 そこで今回は『電波少年』の出演者たちから話を聞き、その衝撃度を振り返りたい!

■ガチすぎトラブル、番組存続の危機に

懸賞だけで生きていけるかを検証させられたなすび

 それまでほぼ無名だったタレントを無謀な企画に抜擢するのは同番組の十八番。「電波少年的東大一直線」で大学受験に挑んだ坂本ちゃんは、ロケが始まる前日まで一般視聴者とまったく同じ感覚だったという。

「■実は私の前に1人、別の芸人さんが同じ企画にチャレンジしていたんですけど、ギブアップして脱落したんです。そんなこととはつゆ知らず、『へ〜、東大を目指す企画が始まったんだ』と思って『電波少年』を見ていたら、翌日に私が番組の用意した部屋へ連れて行かれ、大学受験に向けた勉強が始まったんです。毎日ある小テストで合格点を出さないとごはんが食べられないルールなんですけど、正直、カメラの回ってないところで食べさせてくれるのかな? と思っていました。だけど、まったくくれない。■『電波少年ってここまでガチなんだ!』とは衝撃でしたね」(坂本ちゃん)

 この番組がガチということを最も身をもって知っているのは松村邦洋だろう。

「今、『世界の果てまでイッテQ! 』(日本テレビ系)でイモトアヤコちゃんがコモドドラゴンと競走しているけど、『電波少年』のほうは観光用ではなくガチの野生のコモドドラゴンと戦いに行きました。コモド島に行って2000メートルあるって言うので『2キロくらい歩くのは大丈夫ですよ』って言ったら、距離じゃなくて標高が2000メートルだからびっくりしました。■『近所の散歩の2000メートルと全然違うなあ』と思ってバテ始めると、スタッフさんから『早く行けよ!』と棒で突っつかれて犬以下でしたね(笑)。

 演出もメチャクチャで『コモドドラゴンがこう行ったら松村がこっちに行って、コモドドラゴンがこう行って〜』って、コモドドラゴンはそのとおりに動きませんから(笑)」(松村)

■ラクダも倒れるほどの暑さ

『電波少年』恒例のヒッチハイク旅では、多くの若者が世界の危険な地域に足を踏み入れた。

 朋友(パンヤオ)の伊藤高史がスーダンのバユダ砂漠で熱中症にかかり、白目をむいて気を失った事件は番組そのものの危機でもあった。

「■あの瞬間は気絶していたので記憶がないんですけど、僕が死んでたら番組は絶対終わってましたよね(笑)。あのとき、実は僕が倒れる前にラクダも倒れているんです。

■ そしたら、人が寄っていくから助けるのかなと思ったら、死んでいたからバッサリ切って干し肉にして、それを僕たちも食べました。ラクダが死ぬような環境なのによく死ななかったと自分でも思います(笑)」(伊藤)

■ピストルで撃たれ命の危機に……

 命を失いかけたのは伊藤だけではない。同じくヒッチハイク旅に挑戦したドロンズ石本がミネソタ州での危険な経験を語ってくれた。

「町はずれでヒッチハイクしていたら、2人組の男が『アジアへ帰れ!』みたいなことを言いながら近づいてきて、よく見たら右手にピストルを持ってるんです。すぐに崖沿いに飛び込むと、『パン、パン!』って銃声だけが聞こえてきて。

 僕も相方も弾が当たっていないことを確認し、近所の小屋に逃げ込んだら、そいつらは外でずっと僕たちのことを探しているんです。■小屋の中にたまたま斧があったから、それを握りしめて『来たらやるしかない』と入り口のところで待ち構えていました。15〜20分くらいじっとしていたんじゃないかな」(石本)

ロシナンテは現在、北海道・十勝の花畑牧場で余生を送っている

 ドロンズといえば、ロバのロシナンテと北海道〜鹿児島を歩いた日本縦断紀行も忘れられない。

「あのときはヒッチハイクより、ロシナンテが周りの人をケガさせないように防ぐことのほうが大変でした。旅も後半あたりになるとロシナンテ人気が高まり、東京に着いたら同行ディレクターが〆谷(浩斗)さんという有名な人に代わりました。

 あの人からは■『お前らじゃねえんだよ、ロシナンテが有名なんだよ。お前らがロシナンテを守れ』と言われて、相方(大島直也)がロシナンテの綱をちょっと緩めると『ロシナンテが子どもを襲ったらどうすんだ! 』とボコボコに殴られていました(笑)。

無名から司会者まで上り詰めたチューヤン

 〆谷さんからは『ロシナンテが誰かをケガさせたらお前らの責任だ』なんて言われたけど『いやいや、これをやらせてる番組のせいでしょ!』って言い返したら、さすがの〆谷さんも笑ってましたね(笑)。

 それまでは自分たちのための旅だったけど、ロシナンテとの旅は尽くす側だったので人間として成長できました」(石本)

 ■ちなみに、ロシナンテと朋友のチューヤンは一時期同じ芸能事務所に所属していたことが。ロシナンテのほうが先にテレビ出演をしていたため、チューヤンはロシナンテのことを「先輩」と呼んでいたという。

■無名の若者たちが番組を通じて成長

『電波少年』には危険な衝撃もあれば、ポジティブないい意味での衝撃もある。坂本ちゃんは番組を通じ、憧れのアーティストとの邂逅を果たした。

「小テストで100点を取るといろいろなものをもらうことができるルールで、あるときは昔から大好きな槇原敬之さんのCDアルバムをゲットできたんです。そこで、槇原さんの『遠く遠く』という曲を初めて聴いたんですね。

 久しぶりに耳にする音楽だったのもあって、曲が始まった途端、感動の衝撃で号泣してしまいました。それからは、番組で事あるごとに『マッキー、マッキー』と言うようになりましたね。『電波少年』の挑戦企画って、有名なミュージシャンが応援歌を作ってくれたじゃないですか。

 だから、アピールしていたら槇原さんが曲を作ってくれるかなあと思っていたんですけど、ずっと部屋の中にいたから槇原さんが(覚醒剤取締法違反で逮捕後に)謹慎中だったことを知らなくて。■でも、その後にコンサートに呼んでいただき、『レコード会社よりも僕のことを宣伝してくれてありがとうございます』とお礼を言われました。

 実は、勉強中に槇原さんが復帰アルバムを出されて、そこに収録された『Ordinary Days』という曲には『ちょうど蝉が鳴き始めた』『賢くなって自分を守れ』という歌詞があるんです。今でもあの曲は私に対しての応援ソングだと思っています」(坂本ちゃん)

 無名のタレントが一気にスターダムに上り詰める現象が『電波少年』ではよく起こった。つまり、ビッグな芸能人との接触が激増するということ。ヒッチハイク旅を終えて帰国した朋友の伊藤は、激変した環境の中である失敗を犯している。

■スターとの遭遇で混乱も……

朋友が世界をヒッチハイク中、電話で応援した中森明菜

「■ドラマの衣装合わせで日テレに行き、ひと通り終えて外に出たら中森明菜さんがニコニコしながら僕に『おはようございます』って挨拶をしてきたんです。でも、あまりに突然のことに僕は『あっ、どうも……』と言っただけで立ち去ってしまったんです。

 でも、後でよくよく思い返したら明菜さんが『電波少年』にゲストで出たとき、電話でお話ししているんですよ。それを明菜さんは覚えていて、僕を見かけたから衣装合わせが終わるのを待っていてくださったんです。

 でも、僕たちは必死で旅をしていたし、明菜さんとお話しさせていただいたのは旅が始まってまだ3〜4回目くらいの序盤だったから、そのことをすっかり忘れていて。『■あれ、なんで明菜さんが僕に挨拶してんの!?』と混乱してしまったんです。

 すごい失礼なことをしてしまったと、後で事務所を通じ謝罪の連絡を入れさせていただきました。明菜さんもいろんな仕事をされていて、いろんな人と会うわけじゃないですか。でも、僕と電話したことを覚えてくださっていた。

 改めて、明菜さんのことを尊敬しましたね。逆に感謝を忘れている自分がダメだなと思いましたけど(苦笑)。『芸能人はこうあるべきだ』とあのときに教わりました」(伊藤)

■うまくいくのは見たくない

 無名の若者たちは『電波少年』の企画を通じ、テレビを知っていった。ドロンズはヒッチハイク旅の中でバラエティーの何たるかを理解していく。

「旅の資金を稼ぐため、路上でコントや大道芸をやるようになったんですが、1回で1万5千円くらいが集まるんです。ホテルは2千円くらいで泊まれるので、結構な稼ぎになる。でも、稼ぎすぎて同行ディレクターからは『やめてくれ』とストップが入りました(笑)。

『ゴールまでずっと、お前らがコントばかりやって稼いでいるのを見て誰が楽しいの? 』と言われて、こっちは生きるために必死だから『そんなの知らないですよ』と言い返したんだけど、そこで初めて『テレビってそうなんだな』と理解し、それからはその国だから経験できる仕事をするようになりました」(石本)

■個性的なスタッフの元で成長

 初期に司会を務めた松村も番組を通じて成長したタレントのひとりだ。彼はこの番組のスタッフを“精鋭”と呼ぶ。

「■ほかのディレクターでは〆谷さんがやっていたような仕事なんて絶対にできません。ほかの番組にあんな人はいないです。僕はスタッフにずっと怒られていましたけど、それ以上にスタッフがいろんなところで怒られていたと思うんです。番組がすごいことになったのは、スタッフに個性的な人が集まっていたから」

 そもそも、『電波少年』はウッチャンナンチャンが映画を撮影するため、電波の前番組『ウッチャン・ナンチャン with SHA.LA.LA.』を休止する間の穴埋めとして7月に始まったという。

数々の出演者を恐怖に陥れた土屋敏男プロデューサー(当時)

「そつのないスタッフは4月の時点で、すでにほかの番組に関わっている。7月にやってくれそうなスタッフは『あの人は優秀かもしれないけど問題もあるよ』と陰で言われる人たちばかりなんです(笑)。

 だから、穴埋めに癖のある人たちが集まり、その人たちをプロデューサーの土屋(敏男)さんがまとめたのがよかったんじゃないですかね。

 ■もし『電波少年』がなかったら、僕は芸人としてものまねにもっと真剣に取り組んでいたと思います。それで2〜3年たってもダメで、山口に帰っていたかもしれない。『電波少年』のおかげでタレント生命は延びた気がします。

 芸歴33年、上島竜兵さんみたいに『33年、代表作なし!』というのもいいかもしれないけど、幸い『そうだ、俺には電波少年があったんだ』と思うことができる。そういう意味では、『電波少年』っていうのはありがたい番組だったなあと思います」(松村)

■初期『電波少年』のキーパーソンを直撃

松村邦洋

■〆谷ディレクターとの別れはあのかも……

『電波少年』のロケで「自分は犬以下だった」と語る松村。番組の方向性として「松村を甘やかすな」という基本線があったそうだ。

「途中からロケにADを連れて行かなくなったんですね。〆谷さんがADを怒るとそっちにエネルギーが行き、僕には普通に接するようになるから『これはいかん』と」

 そんな〆谷もドバイの砂漠で車が故障し、さまようことになったときは松村に優しかった。

「■妙に〆谷さんが優しいから『これは本当に危ないんだな』と実感しました。家がどこにあるかわからないような砂漠を歩きながら口から出まかせに『助かる、助かる。向こうにある家の瓦が1枚1枚見えるよ』なんて言うから、オスマン・サンコンさんみたいに遠くが見える人なのかなと。

■ さすがに僕も助からないと確信し、『もう偉そうに呼び捨てにされるのも嫌だな』と思って反発したのを覚えています。『どうせ助かんねえんだよ』とか悪態をついていたら、救助が来て奇跡的に助かったという(笑)。

 うれしくなって思わず駆け寄って行ったら砂で足の裏が熱くて『アチャチャチャチャ! 』ってなったんですけど、カメラで撮れていなかったから『もう1回やれ! 』と言われ、『アチチチチ! 』って何回も必死にやりました。

■ 実は、それが〆谷さんとの最後のロケで、次から別のディレクターに変わったんです。もしかしたら、あのときに反抗的な態度をとったのが理由かもしれませんね。いや、わかんないですけど、ひょっとしたら」

松村邦洋(まつむら・くにひろ)●1967年、山口県出身。大学在学中に片岡鶴太郎に見いだされて芸人の道へ。高田文夫のものまね「バウバウ」やビートたけしのものまね、『進め! 電波少年』出演で大ブレイク。幅広いレパートリーのものまねで活躍中。

■伝説の番組『電波少年』シリーズおもな出来事

■▼1992年
・■『進め! 電波少年』放送開始。
・■松村邦洋のアポなし、突撃取材が話題になる。「村山富市の長い眉毛を切りたい」「羽生善治と将棋をしたい」「渋谷のチーマーを更生させたい」「牛のゲップを吸い切りたい」など。

■▼1993年
・番組のマスコットとして、アイドル「電波子」がデビュー。その後妹分としてオーディションにより電波子2〜28号も登場。

■▼1996年
・■「猿岩石」(有吉弘行、森脇和成)による「ユーラシア大陸横断ヒッチハイク」がスタート。
・■ドロンズ(ドロンズ石本、大島直也)による「南北アメリカ大陸縦断ヒッチハイク」がスタート。

■▼1998年
・『進め! 電波少年』をリニューアルする形で『進ぬ! 電波少年』がスタート。松村がレギュラーからはずれ、松本明子の単独司会に。
・「朋友(伊藤高史、チューヤン)」による「アフリカ・ヨーロッパ大陸縦断ヒッチハイク」がスタート。
・「電波少年的懸賞生活」がスタート。「人は懸賞だけで生きていけるか? 」をテーマに芸人のなすびが目標金額を目指した。
・4月、兄弟番組『雷波少年』が日曜朝の枠でスタート。
・■「ドロンズのドンキホーテ! 日本を行く!」が『雷波少年』でスタート。ドロンズがロバの「ロシナンテ」とともに日本列島をヒッチハイクしながら進む企画。
・「電波少年的無人島脱出」が『電波少年』でスタート。Rまにあ(しゅく、中島ゆたか)が自力で筏を作って無人島を脱出するという内容。これは後に「スワンの旅」(スワンボートに乗って旅をする企画)へつながっていく。
・「雷波少年系ラストチャンス」スタート。「オリコン初登場20位以内に入らなければ即解散および音楽業界から足を洗う」というルールの企画にSomething Elseが挑戦。

■▼1999年
・■1月、『電波少年』の司会をチューヤンに託して松本が一時司会を降板するも4月に復帰し、松本とチューヤンの2人で進行するように。
・当初は司会者のいなかった『雷波少年』の司会を4月よりチューヤンが『電波少年』と兼任することに。
・チューヤンが『電波少年』の企画「80日間世界一周」に参加するため、ロシナンテが10月より代理として進行役を担当。
・「雷波少年系ラストツアー」スタート。半年でロシアを横断する間に運命の1曲を作って日本武道館で公演を行い、1万人の観客動員がなければ解散して音楽業界から足を洗うという企画にBluem of Youthが挑戦。

■▼2000年
・■華原朋美が全米でCDデビューすることをゼロから目指すという「電波少年的全米デビューへの道」がスタート。この企画で作られた曲『Never Say Never』は15万枚のヒットに。
・「電波少年的東大一直線」がスタート。坂本ちゃんが東大出身の家庭教師ケイコ先生とともに東京大学合格を目指す企画。
・矢部太郎が挑戦した企画「電波少年的○○人を笑わしに行こう」がスタート。さまざまな国の言葉を習得してその国の人を笑わせるというもの。応援歌はTM NETWORKが制作。

■▼2001年
・■15人の女性がいきなり無人島に連れて行かれる「電波少年的15少女漂流記」がスタート。当時まだ無名の森三中・黒沢かずこや、いとうあさこが参加。

■▼2002年
・『電波少年に毛が生えた 最後の聖戦』が土曜夜の1時間枠でスタート。「1クール平均視聴率が13%に達しなければ終了する」という公約をクリアできず、終了。

■▼2021年
・『電波少年W 〜あなたのテレビの記憶を集めた〜い!〜』(WOWOWプライム)がスタート。

電波少年 ドロンズ石本

■ドロンズ石本
 1973年、広島県生まれ。1996年に大島直也とのコンビ「ドロンズ」で『進め! 電波少年』のヒッチハイク企画に挑戦して人気者に。2007年より東京・恵比寿で「馬肉屋たけし」を経営。実業家としても活躍している。

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電波少年 伊藤高史

■伊藤高史
 1976年、宮城県生まれ。『進ぬ! 電波少年』ヒッチハイク企画に朋友として挑戦。「劇団ウルトラマンション」を主宰。現在は俳優・脚本家として活躍中。TOブックス『リタイヤした人形師のMMO機巧叙事詩@COMIC』ストーリー協力。

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電波少年 坂本ちゃん

■坂本ちゃん
 1966年、山梨県生まれ。2000年に出演した『進ぬ! 電波少年』の企画「東大一直線」でブレイクし、日本大学文理学部など8校に合格して日本大学に入学。芸能活動の傍ら、個展を開催するなど精力的に活動中。

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(取材・文/寺西ジャジューカ)

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