本田圭佑の「世界一」をはばむ “アジアの渡り鳥”・伊藤壇の波乱なサッカー人生

'04年、香港プレミアリーグ『傑志(キッチーSC)』でプレーする伊藤。傑志は香港屈指の名門で、'18年にはワールドカップ得点王・ディエゴ・フォルラン(ウルグアイ)も所属

「世界で、1部リーグでプレーした数、プレーした数だけじゃなく、プレーしてゴールを決めた数、これの世界一って、それはそれで世界一じゃないかって」

 9月に、旧ソビエト圏のバルト三国の1つ、リトアニア1部リーグのクラブへの加入を発表したサッカー元日本代表の本田圭佑(35)。■“世界一を目指す”と公言してはばからなかった彼のここ数年のキャリアは、ポルトガル(選手登録が認められず出場はナシ)、アゼルバイジャン(7試合出場、2得点)、そしてリトアニアと、サッカーという“世界”では、第一線級とは言い難い。

 多弁で自信家として知られる本田。しかし、ワールドカップで3大会連続ゴールし、世界的に見ても数人しか成し遂げていない記録を達成するなど、批判の声を結果で黙らせてきた。だからこそ「世界一になる」と言い続けてきた。

 '18年大会で代表を引退し、ワールドカップで優勝して世界一の選手になることを諦めた彼が、現在目指している“世界一”が冒頭の移籍発表時の発言。移籍後最初の試合でさっそくゴールを決めた本田は試合後にインスタグラムを更新。以下のコメントを添えた。

■《A goal in the ninth country Who scored the most leagues all over the world? I want to try the record》(9か国目のゴール。何ヶ国ゴールが世界最多? 記録に挑戦してみたい)

 日本、シンガポール、オーストラリア、ベトナム、香港、タイ、マレーシア、ブルネイ、モルディブ、マカオ、インド、ミャンマー、ネパール、カンボジア、フィリピン、モンゴル、ラオス、ブータン、スリランカ、東ティモール、グアム、サイパン。計22の国と地域。これはアジア圏の何かの連合などではない。1人のサッカー選手がプレーした国の数。それも日本人だ。

■本田の2倍の国でゴールを決めた日本人

 ■伊藤壇(45)という元プロサッカー選手がいる。「アジアの渡り鳥」と呼ばれ、上記のように多くの国でプレーした彼のことは、コアなサッカーファンはご存知だろう。しかし、一般的にはほとんど知られていないのではないだろうか。■実は、彼がゴールを決めた国の数は18か国。そのトップ(1部)リーグだ。現時点で本田の2倍の国でゴールを記録している。

 北海道札幌市出身。高校サッカー選手権に出場。大学を経て、'98年にブランメル仙台(現・ベガルタ仙台)に入団し、プロとしてのキャリアをスタートさせた。

「仙台でも1年目の開幕戦からずっと試合に出ていて、一応プロ選手としては順調な方だったと思います」

 そう話すのは、“アジアの渡り鳥”伊藤壇本人。転機は2年目に訪れる。

■「2年目は怪我で出遅れたんですけど、夏の時点で10試合くらいは出ていて、その年も順調だった。でも、ある試合の当日に寝坊して遅刻してしまって……(苦笑)。そこから人生が狂ってというか」(伊藤、以下同)

 その年、伊藤はチームから戦力外通告を受ける。一般社会で言うクビ、解雇である。

「当時は今のようにJリーグもチーム数が多いわけではなかったし、合同トライアウト(編集部注・シーズン終了後に行われる、その年に戦力外通告を受けるなど移籍先を探す選手たちが参加する入団テスト。各チームのスカウトが参加する)とかもなかった。

■ また、試合に出ていたとはいえ、やっぱり替えの選手がたくさんいるようなレベルだったので、引き取ってくれるチームはどこもありませんでした」

 ここで視線が海外に移る。

「国内で移籍先が見つからない状況。たまたま読んだサッカー雑誌で“シンガポールリーグで外国人選手を探しています”という記事を見つけました。

 日本で(移籍希望の選手を集めての)セレクションがあると。大学のときにシンガポール旅行をしたことがあって、それでシンガポールという国自体にすごくいいイメージを持っていたので、日本で移籍できるチームがなかったこともあり、海外に行ってみようというところからスタートしました」

■「良い選手=活躍できる」ではない

 シンガポールから、18年に渡るサッカー“海外組”生活がスタートした。本田以上に海外チームでプレーした伊藤が思う、“海外でプレーし続けることの難しさ”とは?

「国によってサッカーのスタイルはもちろん違うし、文化も違う。長年同じ国にいると、その国のこともわかるし、周りも自分の性格やプレースタイルなどもわかってくれてプレーしやすいと思うのですが、■僕のようにしょっちゅう移籍していた人間というのは、ある程度築き上げてきたものを、一度捨ててまた新たな環境に飛び込んでいるので、やはりすごく適応能力が求められる。

 プレーはもちろんなんですが、(試合や練習ではない)ピッチの外での振る舞いの部分を海外の人は大事にしていて、見ている部分。例えばチームメイトに食事に誘われたら、めんどくさいと思っても、一緒に行ってバカ騒ぎするだけで、やっぱりチームメイトは仲間として受け入れてくれる」

 プレーした各国では、あまり現地の言葉はしゃべれなかったという。

「ニコニコして親指立ててるだけで、“あいつは溶け込もうとしている”と仲間に入れてくれて、それがピッチにも反映されて、ボールが回ってきたりする。

'04年は、マレーシアスーパーリーグ『ペナンFC』でもプレー

 それは逆も然りで、別の外国人でいい選手がいたとしても、孤立したり、助っ人外国人だからといって上から目線で接しているような選手はあまり快く思われていなくて、チームの結果が出ていないときは、真っ先にそういう選手が(批判の)矛先になってしまう。

 ■だから一概に良い選手だから活躍できるというわけではないですよね。いろいろな部分で適応能力が求められるのだと思います」

 22もの国。特に大変だったのは……。

「インドはちょっと大変でしたね。給料も良かったし、観客も入ってるし、レベル的にも低くはなくて問題ないんですが、日本と生活スタイルが180度違うというか。試合の直前にもカレーが出てくるし、とにかく毎日カレーを食べて。“これちょっと食えないな”とも言えないし(笑)。

 僕のポリシーとして現地に行ったら現地のものを食べる。現地のものが8、和食が2くらいの割合で食べていたんですけど、それまで試合直前にカレー食べてサッカーするというのが人生になかったので……。僕もカレーは好きなんですけど、毎日1日3食カレーで。試合直前に食べるもんじゃないというか(笑)。でも“そんなの食べられない”って言ったら、やっぱりなかなかチームに溶け込むことができない」

 現在、サッカーにおいて移籍する際は、本人が交渉するのではなく代理人を立てて、チームを探してもらったり、契約交渉をすることが主流だ。本田ももちろんそう。しかし、伊藤はそのすべてを自身でおこなってきたという。

「海外でプレーし出したころは今の時代と違って、インターネットなどの環境がそれほど整っていませんでした。■電子辞書もなく、分厚い辞書を持って行き、Googleマップとかもなかったので、宝探しのように地図を広げて練習場まで行ったりしていました。

■ 今はチームがSNSをやっていて、そこから直接売り込んだりできますが、当時はそれもない。国際電話をかけるとこっちは向こうの声が聞こえるけど、向こうは僕の声が聞こえなかったりとか通信状況が悪いことも。いくらFAXを送っても、読んでるのかわからない、返事もない。毎回埒が明かなくて、参っちゃいそうだった。

 でも、1か月くらいの有効期限の飛行機のチケットを買って、(生活費などに使う)10万円をポケットに入れて行く。■契約がまとまる前に10万円が無くなるか飛行機の有効期限が切れたらサッカーをやめると自分にプレッシャーをかけて現地に乗り込んで、ストリートサッカーに混じったり、『笑っていいとも』みたいにいろんな人を紹介してもらったりして、それでなんとかチームの人とつながって、練習に参加して契約みたいな。

 昔ながらの原始的なやり方でした。いつか本にしたりとか講演会とかで話したいなという思いもありました」

 時代が進み、キャリアの終盤はチームのSNSやホームページなどを通してメッセージのやり取りをして移籍交渉に入っていったという。

「給料の交渉までFacebookのメッセンジャーでやったりとか、時代はすごく変わってきたなって思いますね。移籍の際は、サッカー界で『CV』(編集部注・ラテン語の『Curriculum Vitae』の略語で履歴書の意味)というんですけど、身長・体重や何年にどのチームにいてといったことを書いて、それと自分のプレーやテレビで特集されたときの動画を送ったりとか。

 興味を示してくれたら、向こうから折返し連絡があるというシステムですね。チームも年間に何百何千と売り込みがあるので、まずなかなか目に止まらない。CVも写真を付けて目立つようにしたり、動画も長すぎても見てくれないと思うので、5分くらいのインパクトのある動画を見てもらったり、そこらへんは工夫していました」

■本田は“同じ考えを持った選手”

 長い海外経験、そして18もの国で得点を上げてきた伊藤は、今回の本田の挑戦はどのように映ったのか。

本田圭佑('17年)

「率直に嬉しいですね。■僕は記録だけで言ったら、本田選手の倍以上の国に行っているし、点も取っています。

■ ただやっぱり知名度が全然違うので、あのような発信力のある人が僕と同じようなことをしてくれると、僕自身も今までやってきたことが間違いじゃなかったと感じられる。今こういったインタビューを受けているように本田選手のおかげで、引退しましたけど、また僕の名前が上がってきたりするし、そういう意味で嬉しいです」

 '21年現在は、高校卒業後にプロになれなくても、そこからいきなり海外の大学やチームに飛び込み、プレーする少年は少なくない。

「僕もそうだったんですけど、サッカーは日本だけじゃない。昔だったらJリーグがダメだったらサッカーをやめるだけだった。日本のレベルも上がって、Jリーグに入れなくても、良い選手ってたくさんいると思います。そういう選手も視野を広げたら、ヨーロッパもそうだし、アジアにもたくさん受け皿はある。

 ■僕もそうですし、本田選手もたぶんそうだと思うんですけど、そういう選手が活躍することによって、日本人の現地での評価を高めて、後々若い選手が同じような道をたどってくれたら嬉しいですね」

 22か国目で引退。夢を語る本田は、今まさに夢の途中だが。今後について伊藤はどのように考えているのか。

「サッカー選手としては、もう思い残すことがないくらいやってきました。ただなんとなくやってきたわけではなく、セカンドキャリアにつなげようと思っていました。今、クラーク記念国際高校サッカー部の監督をやっていますが、子どもたちにこういう経験を伝えて、グローバルな生徒を育てていきたいですね」

 本田も常々“グローバルな視点を持つこと”の大事さをSNSなどで発信している。

「似ているところというか、十何年も前に僕が言ったことを本田選手が言っていたりしたので、本当に嬉しいというか、同じ考えを持った選手なんだと思います。自分がやってきたことは間違いじゃなかったと再認識しています」

 本田はまだまだプレーを続けそうだ。伊藤が引退を決意したのはいつのことなのだろうか。

「決してモチベーションが下がったわけではないのですが、やはり需要は年齢とともに減っていきます。43歳までやっていたので、若いときと違ってプレーで無理が効かなくなっていた部分もある。

 ■最終的にどこかで区切り、線は引かなきゃダメだと思っていて、いいタイミングを探していたら、ちょうど平成が終わるときだった。平成とともにサッカー選手としてのキャリアを終えようと思いました」

 本田は先日のゴールで9か国目。伊藤の18か国を超えることはできるか。

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