『月曜日のたわわ』日経新聞広告論争 必要なのは規制ではなく批評

『月曜日のたわわ』1巻の表紙(Amazonより)

 日経新聞に掲載されたコミックの全面広告『■月曜日のたわわ』については、SNSを中心に多くの批判的意見が出され、またその批判に対する反論という形でも多くの投稿がなされています。

『月曜日のたわわ』について繰り広げられる論争

 直接的な裸体表現はないものの、未成年を含む女性に対して間接的に性的な視線を向けるという作品のコンセプトをめぐってのもので、ここ数年のSNSの論争で繰り返されてきたテーマのひとつと言っていいかもしれません。

 フィクション表現に対して、プロの批評家だけではなく、アマチュアを含めた多くの人が自分の意見を述べられるようになったことは、社会にとって良いことだと思います。

 フィクション表現は多くの場合、書き手と読者の欲望を含んでいます。その欲望に対して、「その欲望は自分のものではない」「その欲望は自分を傷つける」と表明することがある意味では他者からの批評、批判になります。

 しかしそれは、もともとの表現に対して事前に基準を設け、人々の目に見えなくさせる規制や禁止とはまた違います。

 もちろん現在も社会にはゾーニングが存在し、新聞広告に対しても基準があります。

 しかし今回の日経新聞に掲載された『月曜日のたわわ』に関してはその基準をクリアした上で掲載されています。批判の中にはあくまで純然たる批判であり、掲載の停止は求めないという意見もあるでしょう。

 しかし一部は、「さらなる厳しい『価値観のアップデートされた』基準を設け、こうした作品の広告は今後掲載しないようにしよう」という意見もあるように思えます。

 しかしそうした、「新しい厳格な基準」には、未成年の性について描いた多くの作品が該当してしまうかもしれません。

 今回の広告については、掲載される広告の絵そのものには問題が少なく、作品の内容そのものに問題があるとする声が多く聞かれます。

 しかし、フィクション作品の広告に対して、作品の内容にまで踏み込んだ厳しい基準を適用した場合には、例えば『■新世紀エヴァンゲリオン』の旧劇場版のいくつかのシーンや、高校生と教師の恋愛をテーマにした過去の無数の作品が該当してしまい、新聞広告が打てないということが起きかねません。

 あるいは、法律的には完全に逸脱した不良少年たちをヒロイックに描いた古今東西の作品たちの広告が掲載不可になるかもしれません。

 昔からフィクションにしばしば登場する日本人好みの「優しく人情があり、頼りになるヤクザ」もまた、「暴力団への厳しい対応が必要だ」という理由で『アップデートされた、新しく厳しい基準』に該当するかもしれません。

 そうした名作たちとは作品の内容レベルが違うのだ、という声もあるでしょう。しかし「内容を吟味して広告の掲載可否を判断する」となった場合、「その作品が名作であるかどうか、文脈によって描かれた作品であるか」を新聞社がすべてチェックした上で判断することになります。

 外部の審査機関を設けるにせよ、どれほど優れた人材を登用しても、それは極めて少数の読み手による「判断」が、作品の広告という社会全体に及ぶ影響に決定権を握ることになります。

 仮にそこに利権や権力の介入がなかったとしても、少数の判断に無数の表現の門番を委ねることが良い効果をもたらすとはあまり思えません。歪(ゆが)みを監視する人間の目が歪んでいないとは限らない、あるいは歪んでいない目を持つ人間などいないかもしれないからです。

 ■歪んだ表現、歪んだ価値観で描かれた作品に対して必要なことは「この作品は歪んでいる」という批評であり、「このような形で歪んだ作品は人々の目に触れさせない」という事前の規制、禁止ではないように思えます。

 表現し、そして他者から批評されることでしか、人間は自分の目の歪みに気がつくことができないからです。

 そして、批判されることの多い少年雑誌の性描写のあるコミックの中にも、無意識のうちにそうした他者の価値観は影響を与えます。

『■鬼滅の刃』の映画が公開され、歴史を塗り替えるヒットになる前、作品に登場する女性キャラクター、甘露寺蜜璃の扱いが性的でひどい、胸を強調されているという批判がツイッターで多く共有されたことがありました。

 映画がヒットするにつれてそうした批判の声は小さくなり、『鬼滅の刃』のフェミニズム的側面に言及する声が大きくなりました。前者が間違っていて、後者が正しいのではありません。ヒットしたから意見を変えたのだろう、という揶揄(やゆ)でもありません。

『鬼滅の刃』に対する否定も肯定もそれぞれの個人の感情の必然に根ざした人間の声であり、フィクションとはその否定と肯定が出会い、対話する開かれた場所であるべきなのです。

 ■良い作品と悪い作品があらかじめ存在するのではなく、作品は良い面と悪い面を持つ多面体であり、それらを丸ごと広告規制することは、良いとされる作品の悪い面、悪いとされる作品の良い面に出会う機会を狭める結果になり得るからです。

■ 欲望は誰のどのような欲望であれ、欲望の持ち主を「元気にする」面と、別の誰かを「傷つける」暗い面を持っています。必要なのはそうした欲望に対する開かれた議論であるように思います。

 映画『■ダークナイト ライジング』が公開された時、コロラド州の映画館では銃の乱射事件が発生し、多くの死傷者が出ました。事件と、前作『ダークナイト』も含めた映画との関係は不明です。

 しかし、その後もアメリカのヒーロー映画は悪の描写を自主規制するのではなく、社会から孤立した悪の問題に向き合い続けているように思えます。

 村上春樹の小説『■1Q84』では、ふかえりと呼ばれる17歳の少女が登場し、主人公の幻想の中で性的なシーンが描かれます。

 世界の村上春樹が書いて各国の書店でも売られているのだからいいのだ、ということではなく、そうした村上春樹の少女幻想に対する厳しい批評も含めて、社会はフィクション作品に広く開かれているべきであり、新聞にはその広告が掲載され、そして掲載された作品には多くの視点からの自由な批判がされるべきであると考えます。

 歪んだ欲望に必要なことは広く開かれた場所で他者の視線と声に出会うことであり、禁止と規制で欲望を暗く狭い場所に押し込めることは、歪んだ欲望をさらに歪めるからです。

PROFILE●CDB(シー・ディービー)●Twitterを中心に好きな映画や人物について書いている。『文春オンライン』『Real Sound』『FRIDAYデジタル』などで芸能時評を執筆。著書『線上に架ける橋 CDBのオンライン芸能時評 2019-2021』(論創社)

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