元Jリーガー京谷和幸を変えた下半身不随、車いすバスケで目指す「メダル」の意味とは?

元Jリーガー京谷和幸を変えた下半身不随、車いすバスケで目指す「メダル」の意味とは?

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元Jリーガーで、現在は車いすバスケットボール男子日本代表アシスタントコーチとして活躍している京谷和幸が、10月26日に放送されるサッカー番組『FOOT×BRAIN』(テレビ東京系、毎週土曜24:20〜)にゲスト出演。事故によりサッカー選手としての未来を奪われた京谷を救った妻・陽子さんとのエピソードや、来年開催される東京パラリンピックへの思いを語った。

高校時代にはバルセロナオリンピックのサッカー日本代表候補に名を連ね、Jリーグが開幕した1993年にはジェフ市原の選手としてプロデビュー。将来を有望視されていた京谷だったが、事故で下半身不随となり、サッカー選手としての未来が閉ざされた。だが、京谷は車いすバスケットボールと出会ったことで再起。車いすバスケットボールの日本代表になり、パラリンピックには2000年のシドニー大会から4大会連続で出場し、現役引退後はコーチとして育成に励んでいる。

京谷の運命を変える事故に遭ったのは自宅に帰る途中。意識を取り戻したのは手術後の集中治療室のベッドの上だった。手術から数日経っても足の感覚は戻らず、その2週間後、思いもよらない形で自身の体について知ることになる。妻・陽子さんが病室に置き忘れた日記を何気なく読むと、誰が見舞いに来てくれたなどのメモのほかに「脊髄神経がダメになっている」ということが書かれていた。京谷は「脊髄神経ダメ=下半身不随」とすぐに勘付き、「サッカーができないなら死んだ方がマシ」と一瞬考えるほどにショックを受けたという。

人生のどん底に突き落とされた京谷だったが、それでも這い上がることができたのは陽子さんの存在だった。実は、事故にあった日は、2カ月後に控える結婚式の衣装合わせを予定していた。事故により結婚式は延期したが、数日後、陽子さんは「入籍しよう」と言い、京谷は「なぜ今なのか?」と疑問に思ったが、いつもと違う彼女の姿を見て入籍を決意。事故から11日後に病院のベッドの上で婚姻届けにサインをしたという。

そこから車いすバスケットボールと出会ったのは、リハビリ生活に励んでいたある日。陽子さんが障害者手帳の交付手続きに行き、それを受付けしてくれたのが、車いすバスケットボールチーム「千葉ホークス」の選手だった。陽子さんに聞き、早速見学に行くと、目の前に飛び込んできたのは、車いすをまるで自分の足のように操りコートを縦横無尽に駆け回る選手たち。その姿に惹かれた京谷は、この世界で戦うことを決意。第2のアスリート人生をスタートさせた。

しかし、車いすを自在に動かせるようになるのはもちろん、これまで足で扱っていたボールを手で扱うことになったので順応するのは簡単ではなかった。ただ、車いすバスケットとサッカーの共通点を見つけたことで視界は開けたという。例えば、サッカーでサイドを上がっていく選手へのパスは、進行方向の前に出すようにするが、バスケットも同じで、車いすを漕いでいる時は手を使えないので、進行方向の前に出さなくてはボールを取れない。また、サッカーのトレーニングは11対11でやることは少なく、3対3や5対5など局面のトレーニングが多い。バスケも2対2、3対3などの局面が重要になってくることに気づいたのだ。

新たな居場所を見つけた京谷は、車いすバスケにのめりこんでいった。地元の室蘭で行われた結婚式では「サッカーをやっていない京谷は終わった」という空気感に苛立ち、その場で「パラリンピックを目指す!」と宣言。その時は大口を叩いただけに思われたかもしれないが、事故から7年後、アスリートならではのプライドと妻や娘の存在を糧に悲願を達成。シドニーパラリンピックの車いすバスケットボール日本代表として出場を果たした。この時、「やっとここまで辿り着いた。サッカーで試合に出た時の観客の声援などをこの舞台でも味わえるとわかり、この代表という舞台は誰にも渡したくない」と強く感じたという。その後は国内でも目覚ましい活躍を続け、2005年にはMVP、ベスト5賞にも6度選出。2008年の北京パラリンピックでは、日本選手団主将を務め、41歳で迎えた2012年のロンドン大会までプレーした。

事故で人生が一変して絶望を味わった京谷だが、その経験をしたからこそ今言えることがある。それは「人は一人では生きていけない」ということ。「俺は最高だ」と思って生きてきた京谷だったが、それがなくなった時に、人々の助けや支えなど、それまで見えなかったものが見えてきた。「もう自分だけじゃない」そう気づいた京谷は、「事故を起こしてどん底でしたが、今思えば良かったのかなと思えるようになった」と語り、「自分のためだけではなくて、支えてくれる人や応援してくれる日のために何ができるかを考えられるようになった」と心境の変化に自分でも驚いていると話した。

2012年に現役を引退し、現在は男子日本代表のアシスタントコーチやU-23の代表ヘッドコーチを務める京谷。2017年にはヘッドコーチとして率いたU-23日本代表が世界選手権で4位に輝いた。現在の日本代表は、そのチームの若手が融合し、東京パラリンピックに挑む。指導者としては「いろんな局面でも自分で打開できる選手になるため、練習から考え、判断させることを心掛けている」と語り、東京パラリンピックでは「メダルを目指す」と力強く宣言。「それだけのトレーニングはしてきたし、これからもしていく。何よりも選手たちに力がついてきた。自国開催である東京で目指さなくてはいけない。皆さんの応援がメダルに導いてくれると思う」とメッセージを送った。さらにもう一つ「サッカー指導者になる」という夢を告白。「高校サッカーで育っているので、高校年代を指導していきながら、その育てた選手がJリーガーや日本代表になったら。どうなるかはまだわからないですが、自分にしかできないことだと思い幸せに感じている」と未来を見つめていた。

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