「女版手塚治虫」!? 伝説の少女漫画家・水野英子が語るトキワ荘の思い出

手塚治虫に才能を見出された女性漫画家のレジェンド水野英子さん。トキワ荘で唯一生活した女性漫画家に、故・石ノ森章太郎、故・赤塚不二夫と過ごした10代の思い出を語ってもらいました。

■手塚治虫に見初められスカウト

――18歳で上京してトキワ荘に入居。もちろん紅一点です。どういった経緯だったのでしょうか?

「当時、私はまだ下関に住んでいて、カットの仕事やコマ漫画の仕事をいただいていました。1956年、16歳のときに『赤っ毛小馬(ポニー)』でデビューはしていましたが、そのときも下関です。そんな折りに編集者の丸山昭さんの提案で、石森(後の石ノ森章太郎)さんと赤塚(不二夫)さんとの合作の提案を受けたのです。そこで結成されたのがU-MIA。3人の頭文字を取った「MIA」に、ドイツ語っぽい「U」をつけているんですが、“ウーマイア”ってダジャレを込めただけです(笑)」

▲少女漫画のレジェンド・水野英子氏 ?文藝春秋

――いいですね(笑)。

「そこで生まれたのが『赤い火と黒かみ』。ただね、東京と山口で原稿を送ったり、また描いて送り返すという作業が大変手間がかかったんです。なんやかんやと、やりとりをしながら描かなきゃいけなかったのです。

それで、2作目の『星はかなしく』の製作が決まった際に、丸山さんから上京してくれとお知らせがありました。ちょうど、石森さんの真向かいの部屋が空いていたので、私の部屋として用意してくださったんです。

▲故・石ノ森章太郎氏 ?文藝春秋

あの頃はまだ『少女マンガ』という言葉がなくて、『少女もの』『少年もの』というふうに呼ばれていた時代です。少年誌のほうは、活劇やなんかでだいぶ盛り上がってはいたんですけれど、少女誌は、発展途上中でした。

ところが、描き手は男性ばかりで圧倒的に足りなかった時代なんですよ。出版社は出版社で少女誌の描き手を多くつくりたい意向もあり、トキワ荘にも話がいったわけです。石森・赤塚さんの2人で合作の『いずみあすか』という名前で、もう何本かお仕事してらしたんですよ」

――初めて知りました。

「そこに私を加えたのがU・MIA。新しいことが大好きなおふたりなんで、それがいいということで、すぐ話がまとまって、私が入ることになったわけです。

石森さんがネーム構成、画面構成をやってくれて、そのあとは、少女ものだったこともあり、主人公の男女を私が描いて、石森さんがスペクタクルの場面とか、個性のある人物とか、そういうものを担当し、赤塚さんは背景や総まとめを役を果たしていました。

まさか、憧れのおふたりと一緒に仕事ができるなんて、本当に夢のような話。1958年の3月、トキワ荘での生活が始まったのです」

▲1981年、解体される直前のトキワ荘の廊下 ?むかいさすけ

――当時から、合作という手法はよくあったのですか?

「いえ、あまりないことでしたね。絵を3人一緒にしても不自然じゃない人を選ばなければいけなかったわけで、もちろん気も合わなきゃいけないでしょうし。ただ、私たちは同じような趣味だったので、気が合ったのが幸いでした。

私が上京した3日目に、歓迎の意味だったと思うんですけれど、銀座のピカデリー劇場というロードショー劇場に連れてってくれたんですよ。石森さんのおごりだったと思います。赤塚さん、石森さん、私と3人で。『十戒』という、例の海が割れる大スペクタクルなモーゼの話。大変な大作でした」

――当時の映画といえば、娯楽の王道だと聞いたことがあります。

「ロードショー劇場というのは、“違う世界”へ連れて行くというような感じの場だったんですよ。床には赤いじゅうたん、天井にはシャンデリア、椅子はビロード張りみたいに、非常にゴージャス。田舎から出てきて3日目に大感激の一日でした。

私にとって映画は、お楽しみと同時に、仕事にも非常に参考になったんですよ。写真と違ってあらゆるものを全方向から見ることができる。写真だと一番かっこいい部分しか写していませんのでね。もちろんストーリーの組み立て方にも参考になりました。3人でしょっちゅう映画に行きました。

石森さんは音楽が好きで、当時は、なかなかなかった大きな2スピーカーのステレオを持ってらした。クラシックからポピュラー、映画音楽まで、いい音楽だったらなんでも聴くというような人でしたから、音楽をかけながら仕事するのがとっても楽しかったです」

■食事も銭湯も石ノ森&赤塚と一緒

▲1981年のトキワ荘の玄関 ?むかいさすけ

――今年の2月に発売された書籍『少女漫画家「家」の履歴書』(文藝春秋)では、トキワ荘の部屋割りや、当時の親交についても触れられています。また、トキワ荘の部屋には陽がよく入って、快適だったそうですね。

「ええ。明るくて気持ちがいいアパートでした。狭いですが、窓が大きくて、非常に開放的でして。私は3カ月くらい、1本の仕事をしたら帰る予定で入ったんですけれど、あまりにも楽しかったので、ずるずると居座りまして、10月までおりました(笑)。

編集さんも、みんなの面倒を一緒に見れるわけですから、大変助かるという利点もあったそうです。3人が、石森さんの部屋に詰めて、ずっと続けたので、絵にしても内容にしても、密度がものすごく濃くなりました。ひたすら原稿を描きました」

――画力にも影響が?

「影響は強烈でしたよ。私は、手塚先生の『漫画大學』だけを頼りに、完全に独学で描いてきましたから。使い方がわからない道具もいろいろあったんですけど、皆さんがどういうふうに描いてるかを見たら、あ、そうか、これはこういうふうに描くんだと。日々勉強しながら、一緒に仕事していました。

それこそ朝9時ぐらいから、夜中2時くらいまで描いていましたね。お昼は外食か、コッペパンと牛乳。外食の場合は『松葉』というラーメン店に行ったりね。おいしかったですよ。これもまた3人一緒です」

▲故・赤塚不二夫氏 ?文藝春秋

――本当に仲がいい3人だったのですね。

「そうですね。ぶらっと行ける距離に『エデン』という、フランス風のモダンでおしゃれな喫茶店もありました。白塗りの小さなお店ですけどね、店主の方がすごくセンスのある方だった。窓には白いレースのカーテン、テーブルは四角のと丸いのとがあったんですけど、これもまた椅子にしても、とっても素敵だったんですよ。しかも、クーラーがあるのがよかった。

仕事の打ち合わせをという名目で行くんですが、だいたいは、映画の話だ、音楽の話だ、雑談で終わっちゃって、仕事までいかないんですよ(笑)。気晴らしは、エデンにコーヒー飲みに行くぐらいのものでしたね。あとは、レコードを聴く、買いに行くくらい」

――10代の青春ですね。

「そうですねぇ。食べるのも、遊ぶのも3人一緒でしたね、ずーっと。もういや応なしに、3人で行動してましたから。銭湯に行くのも3人一緒(笑)。皆さん、優しかったですね。私は、男の子か、女の子かわからないような子だったんで。女の子扱いはしてもらえませんでしたけど」

――恋心は芽生えたりはしなかったのですか?

「恋心? いや(笑)。女の子扱いしてもらえないのだから全くない。みんな、いい友達ですよ。でも、それのほうが良かったと思います。そういうものが入ってくるとね、生臭くなっちゃうし、仲間割れしますよ(笑)。恋人は漫画だったんです。皆さんそうだったと思います。

入居してる人たちと、漫画を描く人たち、漫画マニアの人たちがもうひっきりなしに一日中出入りして、にぎやかでしたよ。トキワ荘に行けば誰かに会えるという。みんないい友だちでした。すごく楽しかったです」

まるで漫画家の修学旅行? 伝説の少女漫画家・水野英子が語る“太陽館の大缶詰め” | WANI BOOKS NewsCrunch(ニュースクランチ)( https://wanibooks-newscrunch.com/articles/-/2956 )

■プロフィール

水野 英子(みずの・ひでこ)

1939 (昭和14)年、下関市生まれ。1955年、15 歳のとき「少女クラプ」誌上の一コマ漫画、目次カットでデビュー。トキワ荘出身唯一の女性漫画家として知られ、男性ばかりだった漫画業界に変革をもたらした。代表作は『白いトロイカ』『星のたてごと』『ファイヤー!」等。2010年日本漫画家協会賞文部科学大臣賞を受賞。

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