修羅場をかいくぐり還暦を迎えた小沢仁志「50歳まで生きると思わなかった」
2023年01月04日 17時00分WANI BOOKS NewsCrunch
”Vシネマの帝王”として知られる小沢仁志が昨年、6月19日に還暦を迎えた。
「長生きしようと思ってやってきてないから、あんまり年齢の自覚はないね。スタントを使わないでここまで来たんで、相当、無理やったよ。しかも全部独学。練習なんてしたことがない。ずっとギリギリ。50歳まで生きると思わなかった(笑)」
「いろんな修羅場を超えてきた」と語る小沢。その一つ一つが強烈で伝説だ。

▲生ける伝説、小沢仁志 撮影 : 浦田大作
■俺に何が起ころうともカメラは止めるな!
「例えば、ビルから落ちる場面で踏み込むときなんて、飛び降りる先のエアマットって、かなりでっかいものでも、上から見るとちっちゃく見える。その真ん中に落ちなくちゃならない。だけど、上からだとよく見えないんだ。
飛ぶ際、ちょっとでも躊躇があると、どんなに練習を積んでいるスタントマンでさえ、100%の力を使っているつもりが、90%ぐらいになってしまう。そのせいで思ったより手前に落下して、ビルに激突して、亡くなるスタントマンもいる。
でも、そのときに『死んでやる!』と思いきって飛ぶと、マットどころかカメラまでも超えてしまう。当然、マットじゃなくて、コンクリートの上に落ちるんだけど、骨折ぐらいで済む。“どっちにする?”って話(笑)」。
笑えないエピソードを笑いながらする小沢に「怖くないんですか?」と聞いてみると、「ない」と即答。
「いざ本番ってときに一瞬、本人にしかわからない静寂の間がある。そのとき、ビビるのよ。そこで“死んでやる!”って、自分を解放するのが俺の手段。そうすると体が動く。ビビっていると動かない。俺の場合、やりながら覚えたね。“これ、やばいかも”と思っても、やり切ってみると、まだ生きてる。“さあ、次は何をやってやろうか”ってなるんだよ」

▲独学のスタントで果敢に挑む
『海賊仁義』(2005年)のフィリピン・ロケでは、戦車や一個小隊と戦った。
「あいつら、火薬の量とかアバウトなんだよ。一応、こっちも『大丈夫?』って聞いてみるけど、『ノープロブレム! OK!』って。ガソリンを飛ばして、火薬に火をつけるナパームってやつを使うんだけど、飛び散ったガソリンが衣裳について、うしろから思った以上にでっかい火が来るから、衣裳が燃え盛るわけ。
飛んで、転がっていると、毛布を持ったスタッフたちが抱きついてきて消しにかかる。ナパームやって、トラポリンで飛んで、崖落ちして、最後は爆発。どんなスタントマンだって、そんなの練習できないよ。映画で見ると、普通に燃え盛っている上を飛んで通過しているみたいに見えるかもしれないけど、実は映像には映っていない熱風が爆発より先にくる。
一瞬、音が聞こえなくなって、無音になるわけ。そのときにサッと目を閉じないと目が焼けてしまう。それは本能的にわかる。でも、俺、空中で目をつぶっているから、落ちる先のマットが見えてないわけ。で、体が空中から落ちて、熱風を超えるとブワッと音が戻るのよ。そのときに目を開けると、“マット、そっちかよ!”みたいな(笑)」
繰り返すが、笑ってする話ではない。それでもスタントマンを使わないのが小沢流。あのトム・クルーズがスタントマンを使わない理由は「アクションが楽しいから。好きだから」。でも、小沢は違う。
「自分がやりたいことがあって、“こういうアクションを見せたい”と思ったとして、それをスタントマンに頼んで、その人が万が一事故に遭ったら、すごく悔やむよね。でも俺だったら、俺がやりたくってやったんだから、事故に遭ってもしょうがないって割り切れる。俺らにはハリウッド映画みたいな予算があるわけじゃない。
でも、近づきたいし勝負したい。バジェットや映像のことではなく、見る人をどれだけ、ハラハラさせられるかでね。それは常に考えてる。屋上で銃撃戦やって、手榴弾投げて、爆発して、俺がふっ飛んで、柵を超えて、カメラがグッと覗き込んだら、手すりに俺が腕一本でぶら下がっているっていう動きをワンカットでやったら、見てる人、きっとゾッとするよね?
そういうのに賭けてる。俺が危ないだけで、お金はかかってない。マジで(笑)。あと、『俺に何が起ころうと、カメラの録画を止めて、俺を助けようとするなよ』とは言ってある。映像に残るのが全てだから。俺が大怪我して二度とできないのに、録画されてなくてシーンが使えないなんてありえないよ」

▲アクションは見る人をどれだけハラハラさせられるかだ
■小学3年生で見たチャップリンから映画漬けの日々
彼をここまで駆り立てるものはなんなのか。「映画愛ですか」と聞いたら、「愛するってなんだ? 『映画愛にあふれた作品』とか言われたら、俺、気持ち悪いね」と一笑に付された。
「映画は好き。好きな映画の仕事をしてる。映画を公開して、上映後に舞台挨拶に出ていったとき、お客さんが拍手してくれる。あれが一番の至福の瞬間。どんなに苦しんでも、あのために俺は働いているんだと思う」
「愛」なんて小っ恥ずかしい言葉は必要ない。男らしく、きっぱり「好き」と言おう。小学3年生のときにチャールズ・チャップリンの『黄金狂時代』を見て、映画の世界に引きずり込まれた。半世紀以上、映画漬けの日々だ。
「チャップリンの映画って、俺はアクションだと思っているから。ヒューマンドラマで泣けるし、笑わせるけど、あの笑わし方には結構、命がかかってるよ。何度も階段落ちしたり、独特な転び方にみんな笑うけど、あれは絶対に痛い。
あの時代、CGはないからね。ロバート・ダウニー・Jrが『チャーリー』っていう伝記映画で、転び方を見事に再現していたけど、2回骨折したらしいから。それぐらい、笑いに命をかけている。相当すごいことをやってるんだ。チャップリン、『燃えよドラゴン』のブルース・リー、それから、こんな美しい女性が世の中にいるのかと思った『エマニエル夫人』のシルヴィア・クリステル。これが小学生の頃から、俺を突き動かしている三賢人だね」

上映後、舞台挨拶でお客さんからいただく拍手が一番至福のひととき
■初プロデュース・主演した映画『SCORE』で悔しい経験
楽しそうに映画の話をしていたかと思えば、表情が一変。「映画が好きで、この仕事になっちゃったけど仕事だから。好きなことが職業になることってすごくつらい。やっぱり、そこに利害関係が生まれるから」と漏らした。胸中には初めてプロデュースも兼ねて主演した映画『SCORE』(1995)のことがあるのだろう。努力は報われるとは限らないという現実を思い知らされた作品だ。
「監督の室賀(厚)が当時、話題になっていたクェンティン・タランティーノの映画『レザボア・ドッグス』が5000万円で作られたことに対抗意識を燃やして、突然、『ハリウッドが5000万円なら、俺らは500万でやろう』って言い出してね。その頃、Vシネでもまだ3000万円ぐらいの予算があったのに、『なんで?』と思ったけど、『作りたいものを作りたい』という。
それが『SCORE』の前身。それにコメントをもらおうと奥山(和由)さんに見せたら、『コメントを出すのはやぶさかじゃないけど、明日、監督を連れてこい。3000万円出してやるから、お前らの作りたい映画を作れ』と言われた。それでできたのが『SCORE』」
派手なガンアクションで見せる、強盗4人組の死闘。まさしく日本版『レザボア・ドッグス』である。
「撮影がまあ鬼のように長くてね。フィリピン・ロケで撮りきれず、日本でも追加撮影。監督が編集しながら、『ここが足りない。小沢さん、明日、何やってます?』ってまだまだ撮影したがるわけ。こっちは髪の毛がどんどん伸びるし、正月なんて、みんな里帰りして東京にいないのに、俺は実家が東京だからいるのよ。
正月から井の頭公園で撮影して、9ヶ月かかってやっと完成。奥山さんのところに持っていったら大喜びで、『ムーブメントを作って、お前らを売り出してやる。宣伝費は2億円出す』って言ってくれて。“(同じ出すなら宣伝費じゃなく)制作費でくれたらいいのに”とは思ったけどね(笑)」

▲予算がいくらであろうとも全力で臨む
■作品を見てもらおうと泊まり込みで宣伝するも・・・
見てもらえれば、面白さがわかるはず。最初に小沢たちがしたのは、社内試写が行われる松竹本社でのチラシ配りだった。
「松竹の社員の人すら、俺らの映画のことをまるで知らなかった。相手にもされてない。出勤前の入り口で社員に『試写をやってるから、見に来てください』って声をかけて1週間。社員は誰も見に来なかったけど、お掃除のおばちゃんが来てくれてね。“もっと頑張らなきゃ”って、寅さんのポスターにチラシを貼ったら、松竹の社長にひどく怒られてさ(笑)」
そこから始まったキャンペーンは、さらに9ヶ月を要した。宣伝バスで全国を回り、青森ではバスが雪の中でスタックして、みんなで押して動かした。懸命のプロモーションにテレビの取材も入り、誰もがこの映画は当たるだろうと大船に乗った気持ちでいた。

▲見てもらえば面白さは伝わると地道に全国で宣伝活動に励んだ
「最初の特別興行は800円で1週間、上映回数48回。それには割と入ったんだよ。劇場にほぼ寝泊まりして、毎回、舞台挨拶をやった。挨拶が終わったら、外でチラシを配って、上映が終わる頃に今度は入り口に立って、見てくれたお客さんみんなと握手する。上映期間中、ずっと繰り返した。朝の上映中に200枚のポスターを、新宿駅の東口から(劇場館である)新宿ピカデリーまでの道のりに貼ってね。
サブナードの地下は第三セクターの管理下だったから、『勝手なことするな。昼までに剥がせ』って呼び出されて、怒られてね。ちょうど奥山さんから『差し入れは何がいい?』って電話がかかってきたから、『ポスターを剥がすヘラを20本ほどお願いします』って言ったら、あの人、真面目だから東急ハンズでちゃんと買ってきてくれて(笑)。みんなで懸命に剥がしたよ」
ちなみに、ちゃんと事情を話し、第三セクターの偉い人と和解。後々、映画監督デビュー作『殺し屋&嘘つき娘』(1997)のポスターを貼らせてもらったそうである。
「『SCORE』は特別興行が終わると、昼間の回なんて10人も客が入ってないときがあって、キャストが道行く人に声をかけては劇場に人を入れたりして、それは大変だった(笑)。その時期、『コンゴ』っていうハリウッド映画がかかってたんだけど、モギリのおばちゃんが『そっちより面白い映画がありますよ』って、俺らのチケットを売ってくれたり。
忙しそうだからって手伝ったポップコーン売場のお姉さんが、仕事終わりに自腹で見に来てくれたりね。そういう努力をしたのは俺らの思いで、あれは間違ってなかった。だけど、興行的には負けた。あの悔しさがずっとある」
話題になった。業界では評価され、賞も獲った。でも、興行成績は振るわなかった。以来、Vシネはやろうとも、劇場用映画では主演映画は撮っていない。

▲『SCORE』での経験は今でも鮮明に記憶している
5年ごとに“俺は向いているのか、やれるのか?”と自問しながら続けてきた | 俺のクランチ | WANI BOOKS NewsCrunch(ニュースクランチ)( https://wanibooks-newscrunch.com/articles/-/3839 )
■プロフィール
小沢 仁志(おざわ・ひとし)
全ての写真をみる(https://wanibooks-newscrunch.com/articles/photo/3838)
〈髙山 亜紀〉
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