有村昆が初めて経験した土壇場「笑いものになるのは仕方ない」

映画コメンテーターの有村昆。軽妙な語り口での映画解説、夫婦でもバラエティ番組に出演するなど、タレントとして順風満帆な人生を歩んでいた、あのスキャンダルがあるまでは……。2021年の5月に雑誌『FRIDAY』にスキャンダルが掲載され、活動を自粛。レギュラー番組はすべて降板となり、離婚も経験した。

自分がまいた種とは言え、わかりやすく“土壇場”を経験した有村に、土壇場に陥ったときの心境、そしてそれをどのように乗り越え、今またイチから活動をしようとしているのか、話を聞いてみた。

▲俺のクランチ 第21回-有村昆-

■『バック・トゥ・ザ・フューチャー』との出会い

有村昆は1976年にマレーシアのクアラルンプールに生まれた。

「父が海外のホテルビジネスをやっていた関係で、僕が生まれたのはマレーシアだったんですが、とにかくホームパーティーをよくやるんです。週に1回は必ずですね。大使館関係の方がいらっしゃるんですが、あるときにデヴィ夫人がいたのでびっくりしました。僕らの家族以外には一人も日本人がいない環境が当たり前でした」

家では日本語を使うが、使用人にはマレーシア語、そして学校では英語と使い分けていた。

「スタートがかなりインターナショナルでしたね。6歳の頃に日本に戻ったんですが、こう言うと“日本に馴染めました?”“その孤独から映画を好きになったんですか?”って聞かれるんですけど、全然そんなことなくて、すぐに日本の学校にも馴染みました。今もそうですけど、社交的な子どもだったので、いつも周りには友だちがいたんです、ラッキーなことに」

▲幼少期からインターナショナルで社交的だった

彼を象徴する映画と出会ったのも、この頃だった。

「最初は『バック・トゥ・ザ・フューチャー』ですね。2が公開されるタイミングで1がテレビでやってたんです。これはすごい!って、すぐに映画館に2を見に行って、3を見て。その頃はスティーブン・スピルバーグの全盛期だったのと、あとレンタルビデオが普及し始めた頃でもあった。とにかくいろいろなSF映画をレンタルビデオで借りて見ましたね」

これまで見た映画のなかで、ベストムービーを1本を選んでもらうと……。

「やはり一番最初に、バック・トゥ・ザ・フューチャーと出会ったのが大きいですね。わかると思うんですけど、テイストが僕に合っているんです。底抜けにご機嫌で、暗い要素がひとつもない。厳密に言うと、未来が悪役であるビフの世界になってたり、暗い要素もあるんですけど、そういう描写もポップですし」

個人的に、有村昆のパブリックなイメージは「陽キャ」であろう。スキャンダルがあるまでは特にそのイメージが強かった。

「うん、そうですね。自分でも陽の人間だなと思います、ああいうことを起こすまでは、、、」

■"あいつ薄いよな"とか言われても事実だから気にしない

映画の話になると、より饒舌になる有村。そんな彼が映画から学んだことはなんだろうか。

「これを話し出すと、それだけで2時間くらいかかっちゃいますけど…(笑)。でも僕は特にSF映画が好きなんです。それはif、もしもの世界を見せてくれるから。『2001年宇宙の旅』は、もしも人類が月に行ったら、という話。そういうぶっ飛んだ世界のifを見せてくれる映画っていうのは、現実世界の日々の日常を少し忘れさせてくれる。

と言っても、他方で、SFと同じくらい好きなのがドキュメンタリー。『ゆきゆきて進軍』という原一男監督が奥崎謙三を撮ったドキュメンタリー映画。これを初めて見たときは“僕は見ちゃいけないものを見てるんじゃないか”“こんなの出す人がいるんだ”と思って、衝撃でした」

有村にとって、映画とはいろいろな世界を教えてくれるものだという。

「この前も、佐久間宣行さんのYouTubeで『アクト・オブ・キリング』という映画を紹介したのですが、人間のキワキワのところまで映す、事実を掘り起こして徹底的にリサーチして、真実をあぶり出すところが好きです。映画というのは本当、分厚い本を一冊読んだような知識が得られて、人生を知ることができる。総合芸術を吸収するには、非常にいいメディアだなと思います」

正直、有村はメジャー映画だけが好きな陽気な人、という印象だったので、『ゆきゆきて、神軍』や『アクト・オブ・キリング』など、知る人ぞ知る映画の話が出て驚いた。

「10人中、7~8人はそういう印象でしょうね。でもね、僕はそれが得意なんです。あえてマニアックな映画評論にならないようにしています。マニアック自体は良いんですが、僕は割とポップで分かりやすい解説を求められてきたので。とっきつきやすいから、イジられやすい(笑)。そういう自己分析なんです」

そんな有村が、今あえて攻めている土壌があるという。

「TikTokですね。【1分でわかる、泣ける映画3選】とか、映画を知らない人に“へー”って思ってもらえる間口の広さ、ポップさがある。もちろんマニアックな映画も好きだし、ひとつの映画を深掘りするのも好きです。でも、ここが僕の主戦場だなって。映画に詳しい人に“あいつ薄いよな”とか言われても、おおいに結構です。むしろ、そうじゃない人をターゲットにしているので」

もしかすると、御託を並べる高尚な映画好きより、有村のほうが真の映画好きかもしれない……そう感じた思いを伝えると、大きく首を振った。

「それは良く言いすぎです(笑)。でも、僕が相手にしているお客様は年間200本以上見ている、いわゆるシネフィルと言われる方や、『映画秘宝』を熟読しているような方ではなくて、映画を年間1~2本しか見てない方なんです。そういう方に向けているのは、ずっと揺るがないです」

■学生から始めたコミュニティーFMまわり

幼少期から映画が好きだった有村は、その頃どんな将来を夢を見ていたのか。

「時代劇の俳優さんに一時、憧れてましたね。武田信玄とか独眼竜正宗など、NHKの大河ドラマを見て夢中になって。高校時代になると、音楽にも興味を持って、自分で曲を作ってました。デスクトップミュージックを200曲以上。その頃は、ちょっと上の世代でTMネットワークとか、同世代でaccessとか。スコアブックを買ってきて、ベースライン、ドラム、ストリングス、ピアノ、全部完コピしてやってましたね」

高校まではミュージシャンを志していた有村。大学では演劇をやっていた。

「結局、表に出たいという気持ちがずっと強いんですよね。シンガーソングライターも目指してたし、進学した玉川大学では芸術学科で演劇を専攻してました。ただその頃は、わりと思想が強めというか、仮想敵を作ってそこに向かって、みたいな芝居が僕の周りでは主流だったんです。僕としては劇団四季とか、ああいうザ・エンタメ! みたいなお芝居がやりたかったし、メッセージを伝えるなら、誰かの言葉じゃなくて、自分の言葉で伝えたかったから、ちょっと違うなって」

その頃、有村の友人がやっていることが目に止まった。

「『かつしかFM』で友達がラジオDJやってて、すごく楽しそうで。“え! どうやればなれるの?”って言ったら、“簡単だよ、すぐなれるよ、でもギャラなんて出ればいいほうで、出ても雀の涙だけどね”って。たしかに、ほぼノーギャラに近かったけど、すごく楽しくて。大学出てからも、ずっとコミュニティーFM荒らしみたいな感じで、かつしかFM、むさしのFM、中央エフエム、FM調布、大学卒業した頃は4局でレギュラーを持たせてもらいました。自分でプロフィールを作って、手当たり次第に撒きまくりましたね」

ラジオは映画に特化したものではなく、いわゆるラジオDJ。自分でメールテーマを決めたり、曲紹介をしたり、いわゆるお昼のラジオパーソナリティーを想像してほしい、と有村は言う。

「“映画コメンテーター有村昆”って肩書、僕はすごくうれしいんですけど、それよりも僕の中では、パーソナリティー有村昆である、という思いが強いです。ラジオの軽いトークが好きで、でもそれだけだとテレビに出られないから、何か武器を作らないと!ってところで“映画を語れる”って武器を見つけたので」

▲パーソナリティー有村昆でありたい

「だから土壇場と言っても、本当あのスキャンダルしか思い浮かばないんですよね……」と有村は苦笑する。

「僕は自分のことを回遊魚だと思ってるんです、同じところも含めて、いろいろなところをゆらゆら泳ぐ回遊魚。たまたま家が裕福だったので、おぼっちゃんキャラでテレビも出たし、夫婦でもテレビに出させてもらいました​。このあと、浮気、離婚でイメージが地に落ちてしまうんですが…​。

ラジオDJって、プライベートで起きたことは全て話さないといけないし、イジられることを許容しないといけない。20年くらいの芸能生活ですけど、それがタレントなのかって思い始めてますね、最近」

取材で伺ったとき、有村が颯爽とスパイダーマン柄のテスラで登場して、笑ってしまった。こんなにわかりやすく目立ちたい、そしてともすれば“反省していない”と言われそうなことを、どうして進んでするのか。

「あとで、あのテスラの前で写真撮りましょうか?(笑) というのも、日々ネタ探しで、日常に面白いことが転がっていると思ってるんです。あのテスラもそう、僕が好きな車と映画をカスタムしたものです。前はデロリアンを買いました。反省はしてるんですがね、笑いものになるのは仕方ない。​楽しいですよ、趣味を仕事に変えていけるのは」

■フライデーの件でレギュラー番組を降板し活動自粛

個人的に、有村を初めて知ったのは、テレビ朝日の『お願い!ランキング』だった。ひとつの映画に対して、3人の映画関係者が批評するコーナー。そのなかの1人が有村昆だった。

「たしかに、あの番組が大きな転機になりましたね。あの番組に出るきっかけを作ってくださったのは、鈴木おさむさんなんです。おさむさんが当時やられていた、TOKYO FMの番組にゲストで呼ばれ、そこで気に入ってもらえて。

プライベートでも良くしていただいたんですが、お願いランキングで、川越シェフが商品を辛口ジャッジする人気コーナーがあって、あの映画版をやりたいって呼ばれたんです。そのあとも『SMAP×SMAP』に呼んでもらったりとか、テレビに出始めた頃は、おさむさんの番組にお世話になりました」

やはり、ここまで伺っても、土壇場というのとは無縁の人生のように思える。

「僕、あのスキャンダルが起こるまで、アルバイトもしたことなかったんです。家も裕福だったし、仕事が仕事を生んでいくやり方でずっとやってきていました。順風満帆ですよね、外から見ても、中から見ても。じゃあ、なんで順風満帆だったか。

これはたぶんですけど、他の方だったら、断ったりするような小さな仕事も、基本は全部受けてました。決してイヤイヤじゃなく、細かい仕事が好きなんです。そして、そういう細かい仕事って80点くらいでこなしがち、僕は絶対120点出すように心がけてました。仕事はずっと途切れなかったし、自信がありましたね、過信もあったかもしれない(笑)」

一度、まだ彼が活動を自粛する少し前にある芸人が「有村昆さんと合コンをした」と言って、若干ボヤっぽくなったことはあったが、これはまだ笑って済ませられるくらいだったのかもしれない。そして、有村昆をあのフライデー事件が襲った。

「その芸人さんのことを、僕はあいつって言いますけど(笑)、でも、そこで気づくべきだったんですよね、本当は。いや、どうかな……結局は痛い目をみないと変わらないですよね。笑って済ませられるところを超えてしまったんです」

おぼっちゃん、仕事は途切れない、有名人と結婚、まさに順風満帆な人生を歩んでいた有村昆を襲った、最初にして最大の土壇場だ。身から出た錆とはいえ、途方もない日々が彼を待ち受けていた。

▲人生最初にして最大の土壇場を経験

「まず、活動自粛になって、5本あったレギュラーを降板。目の前が真っ暗ですよね。子どもを保育園に迎えに行くじゃないですか、昨日までにこやかに話してくれたお母さんがサーッと逃げていくんですよ、モーゼの十戒みたいに。お父さんだけ、ササッと近寄ってきて“気持ち、わかりますよ”って言ってくれるけど、また、サッといなくなる(笑)。直接的な“死ね”みたいな攻撃はヤフーコメントだけでしたけど、でも、まず誰が敵か味方かわからなくなるんですよ」

交友関係が広かった有村には、多くの心配のLINEが届いた。しかし、フライデーの件は、どこかで誰かが罠を仕掛けないと辻褄が合わない、外部では知る由もない事実がたくさん書かれていたので、疑心暗鬼になってしまった。

「全部が身から出た錆ですよ。でも心配するLINEをいただいて、そこで僕が相手を心配させないように“全然大丈夫ですよ~”みたいな返事を送ったとして、そのスクショをその人がどこかに売るか、そして全然反省してない!ってなるかも、とか考えたら迂闊に返事もできないですよね」

有村昆がスキャンダルでの活動自粛中に“人生ほぼ初バイト”で得たこと | 俺のクランチ | WANI BOOKS NewsCrunch(ニュースクランチ)( https://wanibooks-newscrunch.com/articles/-/4047 )

■プロフィール

有村 昆(ありむら・こん)

生年月日:1976年7月2日
出身地:マレーシア生まれ、東京育ち
血液型:O型
趣味:DVD鑑賞&収集&紹介。歴史(戦国時代、三国志) 。ゲーム(オールジャンル、ファミコンならお任せ)
Twitter: @arimura_kon 、Instagram: @kon_arimura 、TikTok: @kon_arimura 、YouTube: 有村昆のアリコンch

関連記事(外部サイト)

  • 記事にコメントを書いてみませんか?