力士からタレントへと転身した豊ノ島「怪我で幕を引きたくはなかった」
2023年03月19日 17時00分WANI BOOKS NewsCrunch
今年1月、日本相撲協会を退職し、芸能界へ転身することを発表した豊ノ島大樹氏。タレントとして活動を開始してから、その愛らしい表情がテレビ画面に映し出され、大相撲時代のエピソードなどを交えたトークがラジオから聞こえてくる。
力士時代は相撲巧者の呼び声も高く、最高位は東関脇まで登りつめた。現在もさまざまな現場で自身の持ち味を発揮し、活躍の場はさらに広まりつつある。新たな一歩を踏み出したばかりの豊ノ島に、18年にわたり戦い続けてきた力士人生や乗り越えてきた「土壇場」を振り返ってもらい、今後のビジョンも聞いてみた。

▲俺のクランチ 第22回-豊ノ島大樹-
■幼少時に見た大一番が力士を目指すきっかけ
「もともとサッカー少年だったんです。小学1年生でサッカーを、少し遅れて相撲も始めました。その頃からテレビでも見るようになって、当時、テレビ画面の中で活躍していたのが貴花田(後の貴乃花)。特に千代の富士関を倒した相撲が強く印象に残ったんです」
1991年夏場所初日、当時19歳の貴花田が横綱・千代の富士を破り、場所中に大横綱は現役引退を発表。全国の相撲ファンに世代交代を印象付け、大相撲が新時代へと向かう歴史的なターニングポイントなった大一番が、梶原大樹少年、現豊ノ島にも大きな影響を及ぼすことになった。
「まだ小さかったんで、両力士や相撲界の背景とかはわかっていなかったのですが、とにかく強烈な衝撃を受けました。今まで強かった千代の富士が若い力士に敗れ、直後に引退した。そのときに目標ができたんです。じゃあ、今度は僕が貴花田に勝ちたい。貴花田を倒して引退させるんだ、と」
「僕はお調子者なんで」と照れながら、力士を志したきっかけをそう語った。親に目標を伝えると、励まされ、背中を押す言葉を投げかけられたそうで、ここから将来への道がつながっていくことに。その後は、身長が思うように伸びないなどの悩みとも向き合いながら、成長を遂げていく。
「中学校では全国大会で優勝することができ、高校まで相撲を続けていったなかで、最高峰である大相撲の世界で“自分の力を試したい”っていう思いが強くなりましたね。横綱になりたいとか、番付の位置など、具体的な目標は特になかったのですが、どこまでやれるのかという気持ちが強かったです。
それに、ずっと力士になると言い続けていたこともあり、プロにならなきゃいけないと自分の言葉が重圧にもなっていたことも正直なところです。それで“行くからにはやってやろう”とも思いました」
2002年1月、時津風部屋に入門。晴れて大相撲の世界に身を投じることとなった豊ノ島だが、いきなり洗礼を浴びる。
「入門して一番最初に、ある幕下上位の人と稽古したんです。立ち合いでバーンと当たった瞬間、一気に羽目板(稽古場の壁)まで吹っ飛ばされました。自分も一応、自信があってこの世界に入ったんですけど、それまで相撲をとってきたなかではそんな経験したことがなかったので“なんだコレ!?”と思いました。
そして、それ以上に、その人が関取ではないことに衝撃を受けたんです。十両や幕内ではもっと強い力士がいる、これはとんでもないとこに入ったなと痛感しました」
それでも、少年時代から相撲に打ち込み築いてきた自信が揺らぐことはあっても、打ち砕かれることはなかった。豊ノ島はその経験を機に、日々の稽古での明確な目標と自らの実力の指標を定める。
「この人に勝たないと上に行けることはないんだと心に決め、その力士に勝つことを目指しました。それからしばらくは勝てない日が続いたんですけど、少しずつですが勝てるようになり、半年、1年後にはさらに勝つ回数が増え、勝敗数が並ぶようになりました。そのあとも僕の負けが減っていきながら、2年過ぎる頃には僕のほうが良くなっていったんです」

▲とんでもないとこに入ったなと痛感しました
■現役時代に最も負けたくなかったライバル
入門直後、まるで歯が立たなかった先輩力士を稽古で上回るようになった頃、豊ノ島は念願の十両昇進を果たす。十両でも2場所連続で勝ち越すなど、順調に番付を上げていき、入門から4年が過ぎると幕の内に定着、その実力がさらに磨かれることとなった。
「小さい力士は小さいなりの戦い方がある」。今回のインタビューではそんな言葉も聞かれた。身長は170㎝に満たないながらも、関取として存在感を示し続けることができた自身の武器がなんであったかを問うと、技巧派と称された元力士からは意外な答えが返ってきた。
「技術と言うよりも相撲勘でしょうか……。相撲の取り組みのなかで、とっさに出る動きの質が他の力士よりも長けているんじゃないかと思っていました。また、自分の技術などを他の人に伝えても、理解してもらえないことが多かったですね。自分では結構、あっさりできちゃう技、動きなどを他の力士に教えても“それ、難しいよ”って」
また、豊ノ島が重視したのは技術を突き詰めることではなく、自身の気持ちを高め、維持していくことだったと語る。
「そこまで研究熱心でもなかったですね。他の人たちのように、例えば自分の癖や立ち合いなどを細かく修正したり、そのために負けたときのビデオを擦り切れるほど見るとかはほとんどしなかったです。自分の勝ったときの相撲しか見ませんでした。“いい相撲だな、明日もこの調子で頑張ろう”という感じで」
根っからの天才肌の才能は、より開花していく。2007年初場所では12勝を挙げ、幕内で初めての2桁勝利を記録。優勝争いにも加わり敢闘賞、技能賞を初めて受賞した。その後も勝ち越しや2桁白星の成績も増えていくと、2010年九州場所では力士生活で最高の成績を収めることとなり、その場所最後の取り組みは最も印象に残る一番だと振り返っている。本割を14勝1敗で終え、迎えた横綱・白鵬との優勝決定戦だ。
「白鵬関との優勝決定戦。負けはしたものの、あの一番が最も思い出に残る相撲ですね。あそこまで行けたのがうれしかったです。相撲界では三賞はありますけど、準優勝という記録はないですよね。やっぱり優勝しか結果として残らないじゃないですか。それでも、あの場所の成績はいわゆる“優勝に準ずる成績”であり、いまだにいろんな人が覚えていてくれています。記録よりも記憶に残る一番と言えますね。敗れた相撲ではあるけど、印象に残っています」
さらに、現役時代に最も負けたくなかった相手の名前を聞くと、学生時より鎬(しのぎ)を削ってきたという力士の名前が挙がった。
「琴奨菊ですね。中学から知っていますし、プロに入ってからも小さなことから競い合っていましたね。入門後、スタートは僕のほうが調子がよかった。その後、琴奨菊がグッと伸びてきて。だけど十両は僕のほうが先で、幕内に上がってから先に大関戦やったのは向こう。それでも、金星や三賞を取ったのは僕が先だった。どれもちょっとのこと、細かいことだったけど、先に結果を残されるのが悔しかった。それくらい、負けたくない相手でした」
同学年、角界入り同期の盟友とは優勝争いも演じた。2016年初場所、琴奨菊が幕の内最高優勝を成し遂げる。日本出身力士が久しぶりに賜杯を手にすることとなり、豊ノ島も終盤まで優勝を狙える位置につけていたこの場所での、興味深いエピソードを披露してくれた。
「琴奨菊は14勝1敗で優勝したんですけど、その1敗は僕が13日目につけたんです。番付上、本来なら対戦は組まれないはずだったんですけど。そしてたまたま、その取り組みの日が僕の親父を国技館に呼んでいた日。親父は今も健在なんですけど体調を崩していて、その日の相撲を最後に現地での観戦はしていないんです。
相撲人生で僕の最初の指導者は親父であり、最大の理解者なんです。琴奨菊のことも昔からよく知っているので、彼との取り組みを見ることができて本当に喜んでいましたよ」
「琴奨菊の優勝が決まったときには“おめでとう”と祝福しました」と笑顔を浮かべ振り返る豊ノ島。最高峰の舞台で、最高のライバルを相手に競い合うなど、まさに力士として脂が乗り切っていた。
しかしこの年、力士人生での「土壇場」が突然、訪れる。

▲あの怪我がこれまでで一番大きな土壇場でした
■相撲人生を一変させた大怪我
2016年、7月場所を前にした稽古の最中、左足のアキレス腱断裂の重傷を負う。3場所前には優勝争いにも加わり、その翌場所には関脇の地位にもついていた。30歳を過ぎても体力、気力も充実していた豊ノ島だったが、この大怪我に直面し、当時は力士人生を終えることも考えたと声を絞り出す。
「やっぱり、あの怪我がこれまでで一番大きな土壇場でした。相撲の世界では昔は20代での引退が普通だったし、現在はちょっと延びたんですけど30歳くらいでの引退も当たり前。自分がアキレス腱を切ったのが32歳のときだったんですよ。なので、もうダメかなっていうふうに思ったんですけど」
力士だけでなく、どの世界のアスリートでも致命傷となりかねない大怪我に見舞われた豊ノ島は、それから2場所を休場することになる。そして、土俵復帰した場所の番付は幕下まで下がっていた。年齢を考えても、現役続行の意志がどのタイミングで途切れてもおかしくはなかった。
それでも、一人の先輩力士の姿が豊ノ島を奮い立たせる。
「“まだまだ頑張らな”と思ったのは、安美錦関の存在が大きかったですね。安美錦関は僕が怪我する前の場所でアキレス腱切ったんです。あのとき37歳くらいかな? そこから復帰しようとしている姿を見ていましたので、それが自分にとって刺激になりました。僕のほうが年下なのに、同じ怪我で、こんなことで挫けてはならないと強く感じました」
同じ大怪我と戦うベテラン力士から勇気を得ると、再び這い上がることを決意する。もちろん、幕下でも負傷にも悩まされ負け越す場所もあるなど、苦闘は続いた。それでも豊ノ島には大きな支えがあった。
「やっぱり家族ですね。家族がいたから頑張ることができました。一人だったら“まあいっか”“ここまで頑張ってきただろう”という気持ちにもなったと思うんですけど、やっぱり家族からの応援、励ましは大きかったですね。それで、もうちょっと頑張ろうと」
さらに、復帰への強い決意の土台にはこんな思いもあった。
「怪我で終わりたくない、という考えを持っていました。当時、引退までのいわゆるエリート的な引退というのは、徐々に力が落ちていって、勝てなくなり番付も下がってきて、体力の限界を感じてやり切って終わるということをイメージしていたんです。それまで、選手生命に関わる怪我がなかったこともあり、自分もエリート的なやめ方、そういう力士人生の晩年を迎えると勝手に思っていました。だからこそ、怪我で幕を引きたくはなかったんです」
大怪我による休場、幕下で12場所を務めたあと、2018年の九州場所で関取に復帰。さらに翌年には再入幕も果たす。不屈の精神で再び幕内に返り咲いたのだ。土壇場を乗り越えた当時を改めて振り返る。
「幕下で取り続けているあいだも、相撲をやめることが頭をよぎることもありました。しんどくて、うまくいかなくて、相撲が嫌いになりそうなときもあったんですけど。それでも続けてきたのは、いろんな人の支え、あとは“相撲が大好き”という思いが変わることもなかったからですね」
■浜田さんの一言が芸能界入りを後押ししてくれた
2020年4月、現役を引退し、親方として後進の指導に務める。そして、今年1月、日本相撲協会を退職し、芸能界への転身を発表する。相撲界のみならず、世間からも驚きの声が上がった。
「現役時代、10年前くらいはよくテレビに出させてもらっていました。当時からそれなりにしゃべることができていたし、楽しさも感じていました。各方面からありがたい評価をいただいていたこともあり、芸能界に興味を示していたことも間違いありません。今年40歳ということもあって思い切りました」
長く身を置いていた相撲界から新たなフィールドへ。多くの人に相談をしたうえで導き出した答えだった。そして、芸能界で長く活躍するある人物から、決断につながる大きな後押しがあったと語る。
「いろんな方にも相談してきたんですが、ダウンタウンの浜田(雅功)さんからの言葉が自信を得る大きなきっかけになりました。番組収録とは別の機会などで“ジブンやったら、こっちの世界でやっていけるで”と、そういった声をかけていただいたことがあって。浜田さんからしてみれば何気ない一言だったかもしれませんが、やっぱりあの方からそう言われると自信になりますよね」

▲ダウンタウンの浜田さんからの言葉が自信を得る大きなきっかけに
芸能界では、転身直後より精力的に活動を続けており、このインタビュー当日も事前にラジオの生放送にゲストとして出演している。タレントという肩書がついてまだ一ヶ月余りのタイミングではあるが、芸能活動での手応えについて聞いてみた。
「力士の頃はテレビに呼ばれてしゃべって、大勢の方に喜んでもらっていましたけど、そこでの結果は別に求められてはいなかったと思うんです。あくまでも本業は力士だったので。
だけど、今はテレビ、ラジオなどに出させてもらうことが仕事なので、しっかりとした結果が必要です。この一ヶ月くらいのあいだでも“今日はしゃべれてなかったな”とか、うまくいかなかったと感じるときもありました。でも、そういう経験もしっかりと次に活かして行く、次はもっと頑張ろうと考えながら、取り組ませてもらっています」
慣れないことが多いなかでも、豊ノ島の言葉からは前向きな気持ち、そして誠実さが伝わる。さらに、それぞれの仕事では確かな充実感も感じているという。
「今日もラジオのゲストとして呼んでいただいて、一生懸命しゃべってきたつもりです。終わったあとは、やっぱり楽しかったなって実感しました。これからも仕事として、そんなに簡単なことばかりではなく、いろいろと勉強しなければならないことも多いですが、楽しみながらやろうと思えています」
■芸能界にいても相撲を盛り上げることが僕の役割
力士時代同様、芸能界でもさまざまな経験を糧としながら、少しずつ前へと進んでいくことを誓う豊ノ島。現在、目の前のことに全力を注ぎ、なおかつ、先をまっすぐに見据えながら目指すべき道を進む。その姿勢は、少年時代に贈られた言葉によって培われてきた。その座右の銘を教えてくれた。
「小学校の頃の監督の言葉なんですけど『三年先の稽古』。小学生でしたから、なんのこっちゃって初めは全然わかっていませんでした(笑)。だけど大人になるにつれ、その意味は身に染みてわかるようになったんです。入門するときも、その先生から“お前は三年先の稽古だぞ”と言葉をかけてくれたんです。他の力士や、目の前の白星だけを意識せず、もっと先にある目標のための今日、なんだと」
相撲界から離れた現在も、目先の結果に一喜一憂することなく、その言葉を体現していきたい、そう言葉を続ける。また今後、実現していきたい目標も聞くと、柔らかい表情を変えないまま、胸の内を明かしてくれた。
「いずれは、自分が中心となった企画や冠番組なんかをできたらいいなと思っています。今の自分が言うのもおこがましいですけど(笑)。例えば、地元でラジオ番組なんかもできたらうれしいですし、なんでもいいんで僕がメインとなった仕事を定期的にやれたらいいなと考えています。
あとはやっぱり、相撲関係の仕事ですね。芸能界にいても、その活動のなかで相撲界を盛り上げる、それがこれからもずっと自分の役割だと思うんで。相撲関係の仕事もどんどんやっていきたいです」
また、今年2月には自身が手掛ける、地元高知県宿毛市での少年相撲大会「豊ノ島杯」が3年振りに行われ、今大会で10回目を迎えた。2011年に初めて開催されたこの大会は、相撲人口の減少を少しでも止めることができればと続けてきた。しかし豊ノ島は、競技の裾野という観点とは別の考えも持っていると言葉に力を込める。
「最近は子どもたちの相撲離れが顕著なんですよね。大会を始めた頃、相撲を取ったことのない子が本当に多かったんです。僕が子どもの頃はみんな、遊びのなかでも相撲を取っていたじゃないですか。もちろん、大会を通じて相撲人口が増えることも目指していますが、一人でも多くの子どもに相撲を経験してもらいたい。
そして将来、その子たちが大人になったときに“昔ね、相撲を取ったことがあるんだよ”と話してもらえるようになってくれたら。そのためにも、大会を途切れさせないようにしていきたいですね」

▲一人でも多くの子どもに相撲を経験してもらいたい
子どもたちが相撲を取る、昔は当たり前だった光景を日常によみがえらせたい。元力士ならではの言葉には、未来を担う子どもたちや、自身を育ててくれた相撲に対する深い愛情が込められていた。
始まったばかりであり、これから長く続いていく芸能活動のなかで、豊ノ島の相撲への思いがどんな形で表現されていくのか。さまざまな場面で目にするであろう、その大きな背中を今後もさらに追いかけていきたい。
■プロフィール
豊ノ島 大樹(とよのしま・だいき)
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