楠木建の偏愛「それだけ定食」――スパゲティ「バジリコだけ定食」を愛する理由

楠木建の偏愛「それだけ定食」――スパゲティ「バジリコだけ定食」を愛する理由

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■「美味しいものを少しずつ」の不思議

 あくまでも個人的な好き嫌いの話として聞いていただきたい。

 ド中年ともなると「いろいろな美味しいものを少しずつ食べるのがイイですな……」とか言う人が多くなる。ま、わかるような気がしないでもないのだが、本当のところはよくわからない。

 温泉宿に泊まってちょっとずついろいろな料理が出てくるのをゆっくりと食べる。上等上質な料理店でフルコースを食べる。こういうのはたまに経験する分には確かによろしいが、あくまでも非日常。そういう経験の総体というか文脈が楽しかったり嬉しかったりするわけで、僕の場合、「美味しいものを少しずつ」は食そのものに対する欲求にはなり得ない。

 美味しいものであればそれだけを大量に食べたい。ほとんど小学生のようではあるが、これが僕の日常生活の食に対する基本姿勢である。

 食通の人ほど「美味しいものを少しずつ」路線に走る。これが僕には不思議である。本当に美味しくてスキな食べ物であれば、それだけでお腹一杯になるまで、スキなだけ、心ゆくまで、気が済むまで食べたい、と思うのがむしろ普通というか人情なのではないか。

 例外は吉田健一。この人の本を読んでいると、美味しいパンとバターがあれば、他のものには目もくれず、それだけをお腹一杯になるまで食べる、というようなことが書いてあって嬉しくなる。これだけでイイ人であるような気がする。

■「それだけ定食」の悦び

 もとより僕は吉田健一のような食通ではない。美味しいものは確かに美味しいと思うが、微細な違いはよく分からない。僕の持ち合わせている美味しさの評価基準はごく大雑把なもので、「松竹梅」で十分に事足りる。すなわち「美味しい」「普通」「不味い」の3段階しかない。

 ラーメンやお鮨といった専門化の程度が高いカテゴリーでは、ごく微細な味の違いを追い求めていろいろな名店を彷徨するマニアがいる。「どこどこと比べるとこの点で若干レベルが落ちる」というような評論を目にするが、僕にとってはそういうお店で食べるものはどれも単純に「松」であり、「とても美味しかった、以上」としか言いようがない。

 日常の食生活で僕が重視しているのは、そのものの美味しさそれ自体よりも、スキなものそれだけをスキなだけがーっと食べてお腹一杯!というスタイルにある。ポイントは3つ。「それだけ」という単品性、「スキなだけ」という量的満腹感、「がーっと」というスピードである。

 理想的な食事の時間は5分以内。せっかちということもあるが、それ以上に無心にわしわしと食べ続けるという動物的行為が僕の本能を直撃するのだと思う。

 普段の食事をつくるのは家人に任せているが、この歳になると年老いた親の介護やら何やら忙しく、「夜は勝手に食べておいて……」ということも多い。前回話したことだが、僕は仕事場を出て帰宅するのがやたらに早いので、外で食べるということになると、夕方いったん帰宅してからもう一度外出しなければならない。それも面倒なので、家で一人で作って食べるということになる。

 料理それ自体が好きなわけではない。むしろ嫌いである。僕にとって、自分で食事を作るメリットは、食べたいものだけ食べたい量をスキなだけ作れるということ(だけ)にある。こうして食べる一人の食事メニューを私的専門用語で「それだけ定食」と呼ぶ。

■王者スパゲティ

 それだけ定食の東の正横綱はこの数十年スパゲティ。女優のカトリーヌ・ドヌーブは「イタリアの男はふたつのことしか考えていないわ。ふたつのうちのひとつはスパゲティのことね……」と、実に巧いことを言った(らしい←未確認伝聞情報)。僕はイタリアの男ではないけれども、一人で作って食べるとなるとまず頭に浮かぶのはスパゲティのことである。

 駆け出しの若いころ、ミラノにあるボッコーニ大学のビジネススクールで教えていたときがある。さすがに本場、その辺のフツーの店で食べるスパゲティがヒジョーに美味しい。パスタ料理はどれも美味しいのだが、とくにスパゲティ、とりわけ細めのスパゲティーニやさらに細いフェデリーニよりも太めの2ミリ径ぐらいのスパゲティ(正確にはスパゲトーニ)が、当時の日本の水準と比較して明らかに別物といっていいぐらい美味しかった。

 日本に戻ってきて自分なりにいろいろと工夫をして「ミラノのフツーの店のフツーのスパゲティ」の水準に近づけようと努力してみたのだが、彼我の差はなかなか解消されない。だいたい同じような素材を同じような工程で料理しているのに、なんでこんなに味に違いがあるのか。それが不思議で、ボッコーニ時代の同僚で先輩だったコラード・モルテニ氏に「なぜだと思う?」と尋ねたところ、「うーん、それはやっぱりパスタを茹でる水の違いなんじゃないの……」という答え。そうかもしれないが、どうも合点がいかない。どこかにカギがあると思うのだが、その正体がわからない。

 ま、考えてみれば、それが「本場」ということなのだろう。ミラノやロンドンやパリやLAやNYといった外国の都市で食べるラーメンやカレー、これは日本人にとってはしばしばヒジョーに不味い。それと同じ図式なのかもしれない。伝統恐るべし。

■白の衝撃

 話をそれだけ定食に戻す。王道のナポリタンはもちろん(ところで、モルテニ氏は日本でナポリタンを食べて、「どこが『ナポリ』なのか意味不明だけど、あれ、美味しいよね! 代表的な日本食といってもよい」と高く評価をしていた)、ミートソース、トマトソースのアマトリチャーナやアラビアータ、心と時間にゆとりのあるときはアサリを買ってきてボンゴレ・ビアンコ、といろいろ作るが、圧倒的に登板回数が多いのはオイルベースのスパゲティ・バジリコである。

 僕の両親はいずれも戦前生まれだが、若いころはミッド昭和の東京中心部でわりとヒップな生活をしていた。僕が子供のころたまに家族で出かける外食のご馳走は飯倉の「キャンティ」だった。ここでのスパゲティ・バジリコとの衝撃の出会いは今も忘れられない。家で食べるスパゲティといえば、当時はナポリタン(しかも、お子様ランチのハンバーグの横についているようなスパゲティをケチャップで和えただけのやつ)か、ミートソースの2種限定。いずれにせよ僕の中ではスパゲティというのはあくまでも「赤い食べ物」だった。

 ところがキャンティで出てきたバジリコは基本色が白。これだけで十分に驚くに値したが、食べてみてさらにびっくり。こんなに美味しい食べ物が世の中にあるのか! と、陶然とした記憶がある。

 いまでもときどきキャンティ(もしくはその派生としての「アッピア」)に行く。目当てはスパゲティ・バジリコ(他のお料理も美味しいですよ。念のため)。当然ですけど。通常の1人前では物足りない。当たり前ですけど。試行錯誤の結果、僕は2人前つくってもらうようにしている。普通の大盛り=1.5人前だとまだ足りない。本当は3人前ぐらい注文したいのだが、それはあまりにちょっとアレなので、大人ぶって2人前で我慢している。武士は食わねど高楊枝(ちょっと違うかな?)。

 それだけ大量に食べるともちろんメインディッシュはお腹一杯でもう食べられない。でも、それでイイ。バジリコでお腹一杯! のほうが、僕にとってはよほど喜びが大きい(ただし、デザートはきっちり大量に食べる)。

■「バジリコだけ定食」

 話が外食に逸れてしまった。家で作る「バジリコだけ定食」に話を戻す。使うパスタは、本家キャンティのスパゲティーニよりも太め。いろいろと銘柄を試してみたが、僕の味覚性能だとどれも大差ないことが判明。そこで、このところずっと鷺沼(自宅のある町)のスーパーでフツーに売っている「ディ・チェコ」のスパゲティ(1.9ミリ径)を使っている。量は200グラム。かつては250グラムだったが、加齢に応じて調整し、現在は200グラムに落ち着いている。

 標準茹で時間表示は12分なのだが、9分で引き上げて、ギリギリのアルデンテを追求。鷹の爪を細かく輪切りにしたものと、にんにく(ナマのにんにくではなく、刻んだにんにくをオイルにつけてある「ビバ・ガーリック」という、ビバ! としか言いようがない瓶詰め食材があるのでそれを使用)、それに加えて僕が異様にスキな食材であるところのマッシュルームの薄切りを大量に投入し(←ここがポイント。スキな食材を誰にも気兼ねなくスキなだけぶっこめるのが自作の醍醐味)、オリーブオイルで炒める。そこに引き上げたスパゲティを入れ、バジル(もしくは大葉)の刻んだのを大量投入(←ポイント)、バターも少々加えて、パスタに絡めて出来上がり。

 で、即座に食べる。何も考えずにガツガツ食べる。ひたすら食べる。独りで食べる。黙って食べる。食事時間5分。これが理想のそれだけ定食。後片づけも3分で終わる。

 10代の後半に親と離れた生活を始めて以来(僕が家を出たわけではなく、両親が仕事のために海外に出てしまい、弟と犬と僕が日本に残った)、僕のそれだけ定食歴は30有余年に及ぶ。今回は一例としてスパゲティを取り上げたが、この他にもさまざまなそれだけ定食の定番メニューがある。それについてはまた次回。乞うご期待(誰も期待していないかな?)。

(楠木 建)

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