港区芝で100年ぶりに再興された蔵――4階建てビルのユニークな酒造り

港区芝で100年ぶりに再興された蔵――4階建てビルのユニークな酒造り

港区芝で100年ぶりに再興された蔵――4階建てビルのユニークな酒造りの画像

「蔵見学」発祥の地から、港区に立つビルの谷間の蔵まで――。
 方々の酒場を呑み歩く加藤ジャンプ氏が、東京という“地元”で勝負する酒蔵を訪れます。首都は案外、酒どころ?

※ 「東京の地酒」が活路を見出した「観光蔵」というコンセプト の続きです。

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■福生まぼろしの酒

 ここまで3つの蔵元を見てきたが、一度ここで日本酒全体の現状について眺めておきたい。

 近年、日本酒は和食がユネスコの無形文化遺産に登録されたこともあり、世界的に注目“は”集めている。あえて“は”としたのは、注目されているものの、消費量はひたすら減り続けているからである。

 確かに輸出量は、年々増えている。2016年には輸出額が前年比10パーセント増の155億円にのぼった。しかし、たとえばフランスワインの輸出額はその100倍とも言われており、それに比べれば日本酒の輸出額など、まるきり迫力に欠ける数字である。そして、国内での消費量は70年代半ばをピークに下がる一方である。2000年には焼酎の消費量が日本酒を上回った。正直なところ、日本酒を取り巻く状況は、かなり煮詰まっているのである。

 だからこそ、なのだろう。意識的に“地元ファースト”な酒造りをつづける酒蔵が東京にもある。

 JR青梅線の福生駅で、横田基地とは逆側に出る。メインストリートには居酒屋や焼き鳥屋などが何軒か立ち並ぶが、大概の店には、

「まぼろしの酒 嘉泉」

 と染め抜かれた幕が飾られている。藍染で格好いい幕なのだが、酒蔵を目指す道すがら、この幕をたくさん見かけるので、徐々に“まぼろしの酒”という感じは薄れていく。「嘉泉って有名だよね」と思い始める頃、「うわあ」と声をあげてしまうほどの立派な屋敷が現れた。それが、まぼろしの酒を造っている田村酒造場である。レンガ造りの煙突に立派な屋敷。これぞ名士、という感じがする。

「酒蔵は、もとは庄屋さんなり、その土地の地主さんなりが多い。そういう意味でも酒蔵は、まず地域に愛されないといけません」

 と田村酒造場の蔵元・田村半十郎さんは言う。この酒蔵は、まさに地域の顔役といった雰囲気が漂う。実際、嘉泉が消費されるのは多摩地域が多いそうだ。とはいえ、ここもやはり「東京の酒」であることは意識しており、これを商機と見ている。

「世界の人から見れば、東京は何より日本を代表する場所なんです。ミシュランにのっているレストランがたくさんあって、ファッションやアニメのようなサブカルチャーの中心地である。世界の一流のものが集まる街が東京であり、『その街の日本酒もまた一流』という目で注目してくれる」

 2015年、田村さんは、嘉泉のラインナップに『東京和醸』という酒をくわえた。合せる料理を選ばない、それでいてちゃんと後味には日本酒らしさがある。そして、ラベルには桜。東京の街並みのシルエットも描いてある。ぐいぐい東京を押し出す雰囲気である。

「和食がこれだけ注目される今、食との相性のいい酒が、これからの日本酒のありかただと思うんです。酒離れが続いていくなかで、この東京和醸のような食中酒が活路を見出していくと思う」

 JR五日市線の秋川駅近くにある中村酒造もまた、多摩地区で愛される酒蔵である。中村家は慶長以前から同地に暮らしている、超がつく地元の名士である。酒蔵自体も200年以上の歴史を数え、『千代鶴』という酒を造り続けてきた。この純米吟醸は、とにかく爽やかで抜けがよくて旨い。

 そんな中村酒造の蔵元・中村八郎右衛門さんに、日本酒離れが進むなか、どのような対策をとっていくのかを尋ねた。

「急にのびるものは急にしぼむんです」

 禅問答のようで、少々戸惑っていたら、こう、付け加えてくれた。

「珍しい、新しいものを作ると最初は効果があっても、結局は続かない。長年のファンが、一番その蔵元の造る酒の味をわかっているし、その人たちにさらに愛されるように酒造りをしてきたのが、この酒蔵が続いた理由なんです。酒屋でその年の評判を聞く。それを翌年の酒造りに活かす。地道なものです」

「東京の地酒」の姿勢を徹底しているんですね、と聞くと、ちょっと照れくさそうに、こう答えた。

「いやあ、東京というよりは、この地域の地酒です。なにしろ、このあたりは、都心に行くときは『東京へ行く』と言って出かけてたくらい、東京の中心部とは離れていますから、やっぱり多摩の地元で呑まれないとだめなんですよ」

■50代で杜氏デビュー

 おそらく東京で、最も地域に根ざしているのが野ア酒造である。明治17年創業だから、酒蔵としては比較的新しい。といっても軽く100年の歴史がある。

 JR五日市線の武蔵五日市駅が最寄駅だが、徒歩ではちょっときつい距離だ。立派な門構えの酒蔵である。併設の売店でこの酒蔵の造る清酒『喜正』は買えるものの、残念ながら蔵の見学はできない。この『喜正』は、なんと地元で9割が消費されているという。

 蔵元の野ア三永さんは24歳の時、父の急逝にともない5代目として、ここを引き継いだ。今年で30年になる。

「それまでは岩手の杜氏さんに来てもらっていたんですが、高齢になられるし、だからといって新しい人を一から育てることは時間的にも資金的にもできない。それで、7年前、47歳の時に醸造試験所の短期醸造講習を受けたんです」

 50代にして杜氏デビューを果たした野アさんは、2016年、初めて東京国税局の鑑評会に入賞した。

「ほっとしました。ようやく平均に達したなと」

 野アさんは謙遜するが、実際に呑むと喜正は、多摩地区だけにとどめておくのは実にもったいない。純米酒は非常に香り高く、ちょっと目のさめる味である。だが、野アさんは“東京の酒”であることに対して、驚くほど淡白だ。

「ここは西多摩ですから東京という感じはない。それに酒造りは、やっぱり地方が牽引してると思う」

 なぜそう思うのかと聞くと、やや意外な答えが返ってきた。

「酒造りだけでしか食べていけない、という覚悟が違いますよ。地方の消費は頭打ちだから、東京の市場へ出てくる。でも、地元を離れれば離れるほど、頭を下げて悪い条件で卸さなければならないこともあるんです。東京の酒蔵はその点、最大の市場の中にあるんだから、恵まれてますよ」

 そしてこう続けた。

「いま子供たちには、あと10年は頑張るから、やりたい仕事を見つけなさい、と言ってあります」

 あくまでクールな野アさん。だが、「それが逆に、あっさりしていて東京らしい」と言ったら笑って首を横にふった。やっぱり都会的なのである。

 野アさんは後継者についてはあまり考えないそぶりを見せていた。しかし、蔵元にとっては、ほかの伝統産業同様、後継者選びは最大の問題のひとつだ。酒の需要が減りつづけるいまはなおさらである。それは東京とて例外ではない。

 だが、僅かではあるが、変化の兆しも見えてきている。

 20年ほど前、東京に現れたある女性蔵元が全国でも注目を集めた。東京都狛江市の明治6年創業の土屋酒造の5代目、土屋桜子さんだ。

「酒造りは男性中心の社会ですから、女性というだけで珍しかったんです。たしかに、あの頃は、よくメディアにも取り上げられました」

 土屋さんは、兄が急死したことから、まったく想定外に蔵元になった。それまで大学院で人工知能などについて研究していた土屋さんは、酒造りについては完全に素人だった。お酒もほとんど飲んだことがなかったという。家業を継ぐことを決意してからは一念発起して醸造研究所に入り、酒造りを一から学んだ。

「当時人気だった漫画にあやかって、リアル『夏子の酒』なんて呼ばれたりして。ちょっと自分でもわけがわからない状況でしたね。でも、1998年に『夢吟醸 桜子』が全国新酒鑑評会で金賞をとったときは、本当にうれしかった」

 2000年代半ばから、土屋酒造は諸事情で休業しているが、土屋さん自身は、日本酒の普及活動にはこれまで以上に精力的だ。酒サムライという集いを結成し、日本酒文化に貢献している人々を叙任してイベントを行なうなど、日本酒好きの裾野を広げる活動で多忙な日々を過ごしている。土屋さんに限らず、酒造りに携わる女性は増えつつある。

 土屋さんは、東京の酒蔵をどう見ているのか。

「どこか、のんびりしてるんですよ。本当は商売敵なんでしょうが、決してそうはならない。酒蔵同士、血縁関係にあるところもあったりするし、全体に大らかなんです。日本酒の消費量は縮小傾向。でもあんまり動じてない。古くからやっているせいか、ずっと先を見据えて事業をしているんですよね」

■雑貨店から蔵元に

 2016年、都内に新たに清酒を造る蔵が現れた。港区芝にある東京港醸造である。完全な大都会。ビルの谷間。いかにも東京らしい、ひょろっと細いビルが建っているのだが、それが酒蔵なのである。

「うちは文化9年から明治42年まで、ここで酒造りをしていたんですが、その後は雑貨店をやっていたんです。それが15年ほど前、商店会の副会長になって商店街の活性化のために地方を視察してまわったら、元気な町には大概、地酒があることに気づいてしまったんです」

 そう振り返るのは港醸造の蔵元、齊藤俊一さんだ。

「でもねえ、この町の商店街にも地酒を置くとしたら、ウチがやればいいと思ったけど、実際には土地も狭いし、こんなところじゃあ、まあ、無理だなあ、と」

 と、当時の齊藤さんは酒造りについて現実味をもって考えることはなかった。ところが、その数年後、京都の大手メーカーの杜氏だった寺澤善実さんと運命的な出会いを果たす。実は寺澤さん、その頃、お台場の複合施設の中にあった大手メーカー直営のミニ醸造所に勤務していた。この醸造所、京都から水を運び、台場で日本酒を造っていた。コスト度外視の、すさまじく酔狂な醸造所だ。寺澤さんはここで、

「狭い、限定された空間で、徹底的に合理的に旨い酒を造るノウハウを一から研究していました」

 あまりに費用対効果に問題があったのか、この醸造所はその後間もなく廃業した。それを機に、寺澤さんは会社を辞めて、齊藤さんとともに、酒造業の再興に乗り出したのである。といっても、すぐに酒造りなどできるわけもない。

 まず酒造免許がなければ酒造りはできない。しかし今時そんなものを税務署に新規で申請する人などほぼ皆無なのである。齊藤さんは笑う。

「申請される税務署の係の人だって前例がないからわからないんです。最初は、『なに考えてんだ?』と、けんもほろろの対応だったし、提出する書類の書式だって、係の人ごとに要件が微妙にちがう。でも、日参してると、段々と係の人の態度も軟化してきて、2011年にようやく酒造免許を取得できました」

 といってもその酒造免許で製造が許されたのはリキュールとその他の醸造酒類のみ。清酒を造るには別に清酒製造免許がなくてはいけない。

 だが、清酒製造免許は、基本的に新規発行はない。大資本が突然参入して中小の蔵を圧迫させないことが目的だが、小さな蔵であっても、この日本酒不況のなかで新規参入する会社はない。齊藤さんは再び税務署に通い詰めた。

「免許がとれたらすぐに酒が造れるように設備は全部揃えていた。だから借金は膨らむし、もうハラハラ」

 脂汗を流しつつ待った2人。念願の清酒製造免許を取得したとき、酒造免許取得から5年が過ぎていた。

 狭いビル内での酒造りはすべてがユニークだ。はじめに原料の酒米をウィンチで最上階へ持ち上げる。そこから4階建のビルの上から製造工程を追うごとに一つ下の階に降りていく構造になっている。つまり普通の酒蔵なら水平方向の動線が、ここでは垂直方向なのである。さらに驚くのが、

「仕込み水は水道水です。水質を調査したら伏見で使っていた仕込み水とよく似ていた」(寺澤さん)

 そうして2016年、清酒『江戸開城』を発表し、翌年の鑑評会で純米燗酒部門で優等賞を獲得した。この酒の仕込み水が水道水と聞くと一瞬「え?」となるかもしれないが、バランスのよい日本酒らしい酒である。寺澤さんは、

「この方法をつきつめたら宇宙でも日本酒が造れるかもしれない」

 と冗談めかして言ったが、その目は本気だった。

 ビルの谷間での酒造りだからこそ、宇宙が見えてくる。東京でなくてはおこりえない発想だろう。かつて全国に4000以上の酒蔵があった。現在は約1600ヶ所に激減している。そんな中、東京の酒蔵は賢く、逞しく、美味い酒を造り続けている。東京は面白い。東京の酒蔵は、やっぱり面白い。

(加藤 ジャンプ)

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