あなたの好意が、他人の「ストレス」になるとき

あなたの好意が、他人の「ストレス」になるとき

人に親切にしても見返りがないと、つい「〜してやったのに」と思って無念さがつのりませんか? これは、あなたの心に“渇いた欲望”がある証拠です。それはどんな心理なのでしょう?


■「〜してあげたのに」とつい思ってしまいませんか?
人に好意をかけたのに、自分が期待したほどには感謝されない経験は、誰にでもありますよね。そんなとき、つい心に浮かんでしまうのがこんな言葉。

「せっかくやってあげたのにお礼もないなんて、礼儀知らずな人だ」

そう。好意をかける側は、無意識のうちに相手に「見返り」を求めてしまうものなのです。受ける側はその気持ちを察知すると、「別に頼んだわけじゃないのに」と、相手がしてくれたことを負担に感じてしまいます。


■反応を期待すると自分も他人も苦しくなる
仏教には、人間の一生は苦しみの連続であり、心の苦しみを引き起こすものに「渇愛(かつあい)」がある、という教えがあります。渇愛とは、あくなき欲望のこと。人間関係においては、「私をもっと好きになって!」「私をもっと認めて!」と求めてやまないのが「渇愛」です。

こうした気持ちに縛られるのは、私たちの心は生まれながらに「無明」(無知であること)だからなのだそうです。たとえば、あなたが誰かに好意をかけるとき、心の底ではこう思っていないでしょうか?

「これだけしてあげたんだから、感謝しているに違いない。すごいと思ってるに違いない」

少しでも、上のような気持ちがあれば、その心に「渇愛」がある証拠です。「渇愛」は本人には自覚しにくく、他人の方が敏感に感じとります。だから「渇愛」が潜む行為を、他人は負担に感じるのです。


■人に何かをするだけで単純に「幸せ」と思えるか?
「渇愛」には際限がありません。

「こんなに素敵なおもてなしをした私、すごいでしょ?」
「誰よりも気の利くプレゼントをした俺を、もっと尊敬してよ」

このように、愛されたい、認められたいという気持ちは、どんどんエスカレートしていきます。

そして、好意をかけた分だけ、感謝されなかったときの無念さは強くなります。渇愛の強い人は、見た目にも優しさや余裕が感じられなくなりますが、それを「知らぬは自分ばかり」なのです。

「渇愛」によってかけられた好意は、いわばニセモノの好意。受け手にとっては、これは「押し付け」に他なりません。

では、ホンモノの好意とは、どんなものでしょう? それは「慈悲」の心によるものです。慈悲とは、見返りを期待しないで与える心のこと。感謝されなくても、尊敬されなくてもいい。ただ、相手のためを思い、愛情をかけることです。


■ホンモノの好意を実践しよう!
渇愛から卒業するには、どんなことを心がけたらいいのでしょうか? それには、以下の3つのポイントを覚えておくといいでしょう。

●好意は「美意識」としてかける
人に何かをしてあげるときは、相手の反応や感謝を期待せず、自分の心の「美意識」として行うことが大事です。

●損得で考えない
「これだけの好意をかけたら、困ったときに助けてくれるだろう」と思うこと自体、もう渇愛です。損得を考えずに相手のことを思って何かをすれば、自然に他人は感謝します。そして、自分が苦しいときには、手を差し伸べてくれます。

●人が喜べばそれでOK
「喜んでくれれば、それだけでうれしい」。純粋にそういう気持ちになれれば、慈悲に近づいている証拠です。

このように、自分の心の奥にある渇愛に気づき、少しでも慈悲の心で接する気持ちを持つことです。すると、以前より確実に人間関係もよくなっていくでしょう。
(文:大美賀 直子(精神保健福祉士・産業カウンセラー))

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