もはや理想主義者による自己満足の結晶!? 異論噴出の【日弁連・死刑廃止宣言】の現実離れ度

もはや理想主義者による自己満足の結晶!? 異論噴出の【日弁連・死刑廃止宣言】の現実離れ度

もはや理想主義者による自己満足の結晶!? 異論噴出の【日弁連・死刑廃止宣言】の現実離れ度の画像

 日本弁護士連合会が福井市で開いた「人権擁護大会」で、死刑廃止を含む刑罰制度の改革を求める宣言を採択した。犯罪被害者を支援する弁護士などから反対の声も少なくなく、採択後も賛否双方の声が挙がっている。

●独善的な「正義」に根ざした理念

 死刑廃止の問題ばかりがクローズアップされているが、宣言は(1)刑罰制度全般についての改革、(2)死刑制度廃止、(3)受刑者の再犯防止・社会復帰のための法整備――の3部構成になり、そこで取り上げられている問題は多岐に渡る。

 宣言主文と提案理由を一読して感じたのは、努力をすれば人々の合意を得て改善が可能に思われる現実的課題と、「理念」が先走って現実的とは言い難い事柄がごった煮状態であること。これでは政策提言からはほど遠く、現実を動かす力にならないのではないか。しかも、その「理念」はかなり独善的な「正義」に根ざしており、これでは運動方針としてもどうなのか、という気がする。

 たとえば全般的な改革案の中で同宣言は、刑務所で強制的に労働を行わせる懲役刑を廃し、希望した受刑者のみに労働の機会を与え、労働の対価としての賃金を支払うよう求めている。

 現在の日本の拘禁刑には、刑務作業を課す懲役刑と作業を義務付けない禁固刑がある。刑務作業には縫製や木工、自動車整備などの生産活動のほか、刑務所内の調理場や洗濯工場で働く自営作業、職業訓練などがある。

 こうした作業を行っても、労働の対価としての「賃金」は支払われず、服役態度や作業の熟練度などに応じて「作業報奨金」が与えられる。ただ、その金額はあまりに安い。法務省によれば、昨年度予算における1人1カ月あたりの作業報奨金は、平均約5317円。時給に換算すれば、1日8時間、月に20日間作業に従事したとして33円である。これを財政状況が許す限りアップし、まじめに働けば月に数万円程度は稼げるようにすることには、異論は少ないのではないか。それによって、出所時の生活再建費用が準備できれば再犯防止の対策になるし、被害者がいる犯罪では賠償に充てることも可能だろう。

 ただ、懲役刑そのものを廃し、労働を受刑者の「義務」ではなく、「権利」と位置づけることは、どうだろうか。これは、今の行刑制度に、抜本的な変革を求めるものだ。現在の刑務所は、受刑者が作業する「工場」を数少ない刑務官が監督するのが基本となっている。労働の権利を行使する受刑者とそうでない者が混在する状況になれば、現態勢で所内の秩序や受刑者の安全が保たれるのか、という現実的な問題も考えなければならない。その他、これに伴うさまざまな問題を、日弁連は検討したのだろうか。

 宣言の提案理由の中には、刑罰のあり方についての理念が述べられているが、そこにはこんな記述がある。ヨーロッパのいくつかの国の刑務所では、配偶者や恋人との性交渉可能な面会も「人権」として認められていることなどを挙げ、日本の刑罰も「このような取扱いこそ目指すべき方向ではないか」と。身柄を刑務所に収容しておく以外、あらゆる権利や自由を保障するのが、刑罰の理想だと提案者は考えているようだ。

 私自身は、受刑者が社会から断絶されている日本の行刑のあり方に疑問を感じ、また、福祉の分野から刑務所へのアプローチがなされ始めた昨今の変化を好ましく思い、それが一層進むことを願っている。基本的人権の制約は少ない方が望ましく、とりわけ選挙権については、判決で剥奪が宣告されない限り、受刑者も行使できるようにするなど、改善すべき点が多々あると考えている。

 それでも、恋人との性的交渉まで「人権」とする価値観には、にわかに共感しがたい。行刑に日頃あまり関心のない人たちは、なおさらではないか。そのような理念を、こうした宣言の議論に持ち込むところに、一般国民の感覚とは乖離した日弁連執行部の特異なセンスを感じてならない。

●内部からも批判・疑問の声

 死刑の問題では、さらに社会が「目指すべき方向」が打ち出されている。

 宣言では、4年後の2020年までの死刑廃止を目指すとした。冤罪の危険性と死刑廃止が国際社会の潮流となっていることを挙げたうえで、死刑廃止を求める理由として、次の2点を挙げている。

〈死刑は国家による重大な人権侵害である〉
〈私たちが目指すべき社会は、罪を犯した人も最終的には受け入れる寛容な社会であり、全ての人が尊厳をもって共生できる社会である〉

 確かに、日本の社会は「前科者」に対して厳し過ぎ、排除的傾向が強いと私も思う。罪を犯した人でも、受刑を終えて責任を果たした後には、社会の中で居場所が必要だ。しかし、どんな罪でもか、と問われれば、ためらう。たとえば、オウム真理教の教組が再び社会に戻ってくるという事態は、想像するだけでも耐え難い。

 日弁連執行部が説く「目指すべき社会」とは、おそらくノルウェーのような国をイメージしているのだろう。この国では、77人が殺害されたテロ事件が起きた時にも、人々は「憎しみより愛」を訴え、犯人に対する裁判所の判決は懲役21年にとどまり、刑務所では寝室や運動室など3部屋を与えるほか、テレビやゲーム機も使えるような快適な環境を提供している。それでも、このテロ実行犯は、他の受刑者と隔離して収容されていることなどを不服として、裁判に訴え、勝訴した。これには、さすがに怒りを表明している被害者もいるようだ。

 こういう社会を日本も目指すべきであり、だから死刑を廃止せよと言われて、どれほどの人が共感するだろうか。そもそも、「目指すべき社会」は人によって必ずしも一様ではない。犯罪被害者からすれば、「犯罪者を受け入れる社会の前に、死刑が必要な凶悪犯罪のない社会を、まずは目指すべき」ということになろう。

 個々の事件の判断に「民意」を持ち込むのは慎むべきだが、刑罰全般のあり方を決めるには、少なくとも国民の納得や了解というものが必要だと思う。

 宣言では、死刑の代替刑として、「仮釈放の可能性がない終身刑」もしくは、仮釈放の開始時期を現行法の「10年」から20年、25年などに伸ばす「重無期刑制度」を導入するとしている。ただし、「仮釈放の可能性がない終身刑」は非人道的刑罰であるので、更生が進んだところで「無期刑への減刑」を求めている。

 確かに、刑法上は服役10年で仮釈放は可能だが、最近、そのような短期で釈放された者はいない。2004年の刑法改正で懲役刑の最長が30年となり、09年以降に仮釈放された無期懲役受刑者の平均服役期間は30年を超えている。新たに導入するまでもなく、「重無期刑」化している。無期懲役受刑者は、仮釈放される者より、所内で死亡する者の方がずっと多く、50年以上の服役をしている者もいる。事実上の終身刑は、すでに行われている。日弁連の提案は、ほとんど何の意味もない。

 結局のところ、日弁連が目指しているのは、ただ死刑制度を廃止して、それ以外の現状はそのまま、というのとあまり変わらないのではないか。

 死刑制度を廃止するということは、どんな凶悪な犯罪で、どれほど多くの犠牲が出ても――たとえば数百人が殺害されるテロ事件が起きても――その犯人に死刑は適用しない、ということである。現に人々の心胆を寒からしめる犯罪が起きており、テロの心配も語られる中、死刑は存置すべき、もしくは死刑廃止は時期尚早と考える国民の8割以上に対して、日弁連が説く理想はどれほど説得力を持つだろうか。

 それどころか、日弁連内部でも意見が割れている。

 日弁連は、弁護士として活動するためには会員登録しなければならない強制加入団体で、このような宣言採択に反対だから脱会する、というわけにはいかない。犯罪被害者支援を行っている弁護士たちからは、「一方の立場から宣言を採択することは、個々の弁護士の思想・良心の自由に対する侵害である」という批判が出ている。

 また、人権大会は総会と異なり、委任状による議決権の代理行使を認めておらず、出席者しか意思表示はできない。福井市の会場に足を運んだ弁護士は、全国約37,000人のうち786人。そのうち賛成者は546人。これで日弁連としての方針を決めてしまうことへの疑問も提起された。

●現実を踏まえた議論を

 日弁連は2011年に高松市で行われた人権大会において、「死刑制度についての全社会的議論を呼びかける宣言」を行い、執行の基準や手続などの情報公開、裁判員裁判における死刑判決の全員一致制や死刑囚の待遇改善などを求めた。だが、それは未だ成果を上げず、死刑についての全社会的議論がなされているとも言い難い。この現状を、「死刑廃止」という極論を打ち出せば打破できるとでも、考えたのだろうか。だとしたら、愚かなことである。

 自分たちの正義と理想だけを高らかにうたい上げ、それに基づいた革命的変革を迫る「宣言」など、現実を動かす力になるとは思えないからだ。

 私自身は、死刑囚の待遇、絞首刑という執行方法の是非、冤罪を防ぐための対策、その他、当面は死刑を前提にしながらも、それに伴う問題を少しでも改善していくための、現実を踏まえた議論が必要だと思っている。たとえば、裁判員の負担軽減や慎重審理、刑の公平性などを考え、一審の裁判員裁判が死刑判決だった場合には、職業裁判官による控訴審を経なければ死刑を確定できないようにする。あるいは、死刑制度に執行猶予を導入し、反省や更生などの状況によって、無期刑に減刑する道を開く。こういったことを、もっと議論していくべきだと考えている。

 けれども、「4年後の死刑廃止」を打ち出した日弁連には、そうした議論は期待できない。

 日弁連は、取り調べの可視化を実現し、刑事司法の制度を改革していくうえで、大きな役割を果たした。その際、多くの弁護士が実務者としての経験から、実際の事件を通して国民の前に問題を提起し、理解を求め、それを地道に積み重ねたことが大きな力になった。さらに、可視化を主導した弁護士たちは、理念を異にする学者や警察・法務官僚などとも、具体的な議論を積み重ね、現実を変えるための努力を重ねた。

 一方、提案者の「理念」や「正義」が先行する今回の宣言は、実務者として現実を変えるための提言ではなく、思想家としての作品に見える。しかも、イデオローグとしての説得力にも乏しい。もはや、死刑廃止論者の自己満足の結晶とでも言うしかないのではないのか。

 刑罰のあり方に関して、現実的な政策提言を行い、現実を少しでも改善していくロビイストの座から、日弁連は降りた、ということなのだろう。あるいは、ハナからそんな役割は考えていなかったのだろうか。

 極めて残念である。
(文=江川紹子/ジャーナリスト)

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