ボブ・ディラン「でも」受賞できたノーベル賞、私たち素人でも受賞できる方法があった?

ボブ・ディラン「でも」受賞できたノーベル賞、私たち素人でも受賞できる方法があった?

ノーベル賞のメダル(「Wikipedia」より)

 米国のシンガーソングライター、ボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞した。私もそうだが、世界中の多くの人々は「やったー」という気持ちだろう。

 一方で、ごく一部の人はディランの受賞を苦々しく思っているらしい。

「ディランの名はここ数年頻繁に取り沙汰されてはいたが、私たちは冗談だと思っていた」
「私もディランは好きだ。だが作品はどこにある?」

 ディランの受賞に批判的な反応を示した、海外の巨匠の言葉である。

 世界的な文壇では、ノーベル賞待ちの行列に並んでいる巨匠たちが何人もいる。ホルヘ・ルイス・ボルヘスのように行列に並んだまま時間がたって死んでしまった文豪も何人もいる。ノーベル賞が贈られるのは存命中の人物だけ。ノーベル賞を待っているのは、村上春樹だけではないのだ。

 物理学賞などのように最高3人までが受賞できる賞ではない分だけ、文学賞を心待ちにしている世界中の巨匠たちにとっては、本音では「枠がひとつ無駄に減ってしまった」という怒りのほうが大きいのだろう。

●ノーベル文学賞の歴史

 しかし、ノーベル文学賞はむしろ文学の枠を未来に向けて広げようとしているようにみられる。

 実はノーベル文学賞は設立から当初の50年間は、現在のような文学作品以外で哲学者にも与えられてきた。ところが、1953年にイギリスのチャーチル元首相が回顧録でノーベル文学賞を受賞した際に議論が起きて、それ以降、文学作品としての業績にしか賞は与えられないようになった。

 ところが近年、ノーベル文学賞を選定するアカデミー会員の若返りにともない、文学の概念が拡大しているのでは、といわれ始めている。今年のディランだけでなく、昨年のアレクシエービッチもどちらかといえば職業はジャーナリストだ。

 以前の基準では、日本人でノーベル文学賞を受賞できるのは芥川賞のような純文学系列の人のみと思われていたのだが、ひょっとするとこれから先、戦場ジャーナリストから直木賞受賞者や音楽アーティストまで、これまでの門外漢とされてきた人々にも受賞範囲は広がるかもしれない。

 ただノーベル文学賞にはもうひとつ、不文律のような受賞基準がある。それは作品の中身が重いことだ。反権力や理不尽、圧政や病理など、とにかく何か重いものが対象としてあって、そこでどうしようもない怒りをどのようなかたちで表現できるかが、近年のノーベル文学賞受賞のためには重要な要素だった。

 だから音楽分野では今回のディラン、そして生きていればジョン・レノンあたりまでは対象になりうるのだが、ポール・マッカートニーやミック・ジャガーはそもそもいくら文学的な詩だったとしても、「怒りが足りない」という理由からノミネートはされないだろう。

●一般人にも狙えるノーベル賞?

 さて、われわれ一般人にも狙えるノーベル賞はなんだろう? 

 又吉直樹やいきものがたりのような文才があって、村上春樹のようにアメリカで積極的に作品を売ってくれるエージェントが見つかれば、あとは作品に「重さ」を加えていくことで今後のノーベル文学賞はいけるかもしれないが、ほとんどの人には遠い世界だろう。

 また物理学賞、化学賞、生理学・医学賞は一般人にはたぶん無理だろう。電気の実験中に偶然、反重力装置や放射能除去装置を発明したら一般人にも可能性があるとは思うが、たぶん発明できないだろうから、この3つの賞は仕方がない。

 一般人で一番可能性があるのは平和賞だ。政府に反対してどこかに座り込んで、いつの間にかその騒動の中心人物になってしまい、それがノルウェーのノーベル委員会の目にとまるというパターンは人生の中で起きてもおかしくはない。

 ただその場合、反対する政府がラスボスぶりを発揮できていないとなかなか受賞をめぐる競争には勝ち残れないだろう。ナチスに反対したオシエツキー、反ソ科学者のサハロフ、ミャンマーのアウンサンスーチーやポーランドのワレサのように、反対する相手がハンパない存在であるほうが受賞には近い。

 その意味で、ノーベル平和賞を受賞したい一般人は、日本ではちょっと難しい。だから、圧政の国へと亡命するのがいいだろう。

 そこまで骨がない、そして文才もない一般人の場合、ノーベル平和賞も「重さ」が重視されるノーベル文学賞も難しいかもしれない。

●ちょっと異質なノーベル経済学賞

 しかし、唯一の希望があるのはノーベル経済学賞だ。

 経済学者の場合は、アメリカやイギリスのブランド力が高い大学の序列内で輝かしい業績を持っていない人には、受賞は難しい。しかし、その一方でノーベル経済学賞は実はノーベル6賞の中で比較的、門外漢に門戸が広い。経済以外の分野での意外な発見がノーベル経済学賞につながることがある。

 たとえば、エスカレーターに乗る時、東京では自然と左側に、大阪では自然と右側に立った人が並び、空いている側を歩く人が使うようになる。

「そうなると便利な場合には、ルールがなくても自然と便利なルールができる」。この現象を「ナッシュ均衡」というが、これを発見した数学者のナッシュは、1994年にノーベル経済学賞を受賞している。

 別の例を挙げよう。スーパーの店頭に冷たいコーラの自動販売機がある。そこではコーラ一本が150円だが、スーパーの店内には98円で同じコーラが売られている。中まで入ってレジの列に並べば52円も安く買えるのにもかかわらず、結構多くの人が店頭の自動販売機でコーラを買う。

 この現象は「取引コスト」と呼ばれる現象だ。それ以前の経済学では、アダム・スミスが提唱したように神の手が働いて一物一価に値段が決まるとされていたが、実際の人間はちょっとした手間が面倒だと考えるので、スーパーの店頭と店内という10メートル程度の距離しか離れていない場所でも、「取引コスト」に応じて価格が違うものが売れる。

 このことを発見したロナルド・コース。彼は経済学者なのだが、とにかくこの業績で91年のノーベル経済学賞を受賞した。

 心理学者として人間の脳がいかに不完全かをわかりやすく解き明かしてくれるダニエル・カーネマン。たとえばアメリカ人の学生に「ミシガン州で一年に起きる殺人事件は何件か?」という質問をした場合よりも、「デトロイト(全米屈指の犯罪都市だ)で一年に起きる殺人事件は何件か?」という質問をした場合のほうが、平均して返ってくる予想件数は多い。デトロイトはミシガン州の一部だとアメリカの学生なら誰もが知っているにもかかわらずだ。彼もこういった心理学的な事柄がいかに行動経済学に変な影響をおよぼしているのかを解き明かした業績で、2002年のノーベル経済学賞を受賞している。

 いかがだろうか。彼らになら続ける気がしないだろうか。

 普段、何か買い物をしたり、街で行動していて、何か不思議な行動をしてしまった際にでも、その理由を考えてみるといい。そこには門外漢でも受賞可能なノーベル賞級の発見があるかもしれないぞ。
(文=鈴木貴博/百年コンサルティング代表取締役)

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