ブラシ洗浄不要の「汚れない便器」、40年の壮絶な開発の「糞尿譚」…尿の飛散防止も

ブラシ洗浄不要の「汚れない便器」、40年の壮絶な開発の「糞尿譚」…尿の飛散防止も

パナソニック・新型アラウーノ(「パナソニック HP」より)

 トイレ革命がひそかに進行中だ。それを支えるのは、日本のモノづくり技術である。ものがトイレだけに、それは涙ぐましいまでの“糞尿譚”の様相を呈した――。

 便器といえば、陶器製が常識。ところが、パナソニックはその常識を打ち破り、新素材採用の新しい便器を開発した。松下電工(現パナソニック)のトイレ事業のスタートは、1963年にさかのぼる。当初は、松下の保有する樹脂の成形技術を強みに、汲み取り式トイレの便槽(便所の下のタンク)をつくっていたにすぎない。便器をつくり始めたのは、73年からである。

「当時、トイレをつくっていたのは、トイレ専業メーカーだけでした。そこに新規参入したわけで、技術的に高いハードルがありました。陶器の材料技術をもち合わせていなかったので、陶器は窒業メーカーから購入していました。しかし、そのことが逆に、これまでにない便器を生み出すきっかけになったんですね」
 
 そう語るのは、“トイレ一筋20年”のパナソニック・エコソリューションズ社ハウジングシステム事業部主幹の酒井武之氏である。1996年に松下電工に入社、以来、水回りの商品企画に携わってきた“トイレの強兵”だ。

 そもそも便器はなぜ陶器製なのかといえば、尿にアンモニアなど腐食の要因となる物質が含まれているので、素材には耐久性の高い陶器が適しているとされてきたのだ。

「加えて、水たまり面の後ろにあるトラップが一体化した形状は、陶器でなければできなかったんですね」
 
 こう酒井氏は語る。

 陶器の材料技術を持ち合わせていなかった松下電工は、後発メーカーとして陶器の便器製造に参入したものの、極めて高いハードルにぶちあたった。成形工程の歩留まりが安定しなかったのだ。陶器製便器は、1000度を超える温度で約24時間の焼成が必要とされる。高温で焼き上げる過程で収縮が起き、同じサイズの便器をつくるのはきわめてむずかしい。その点、長年の蓄積をもつトップメーカーの東洋陶器(現TOTO)やINAX(現LIXIL)などは、歩留まりを安定させる技術をもっていた。

「なんとかして、歩留まりをよくしたい。せめて陶器メーカーさんと肩を並べるくらいになりたい」

 開発部門のトップは、生産技術研究所の所長にこう相談をもちかけた。所長からは、歩留まりの改善策とはまったく違う答えが返ってきた。「いまさら陶器はないでしょう」と、所長は言った。

 後発の松下が同じ陶器で勝負していては、ライバルの陶器メーカーに勝てない。陶器製の便器で勝負に臨むことは、「レッド・オーシャン」すなわち競争の激しい領域に飛び込むことを意味する。そうではなく、陶器では到達できない未開拓領域、「ブルー・オーシャン」を切り開くべきだという指南である。  

 しかし、「トイレといえば陶器」という常識を否定し、新境地に到達することはできるのだろうか。陶器以外の材料で便器をつくることは、果たして可能性なのだろうか。

「樹脂を使えば、他社ができない便器をつくれるんじゃないか。これは、松下の便器が新たな土俵に乗るチャンスだよ」

 所長はこともなげにいった。そうはいっても、樹脂製便器が完成するまでには、10年有余の長い年月を要した。
 
●欠点を克服する新素材の開発

 陶器製便器には、弱点があった。

「陶器は、土を固めたうえに釉薬を塗って釜で焼きますが、釉薬のなかにケイ素という成分が含まれていて、乾燥すると水アカの成分と化学結合して、便器の表面に水アカが固着してしまうんですね。ブラシでこすると、きれいになったように見えるんですが、じつは、表面がボコボコになったままのため、すぐまた汚れがついてしまうんです」(酒井氏)

 つまり、水アカがつきやすく、黒ずみや汚れもつきやすいのだ。こうした陶器製の難点を克服する手段として、樹脂を活用できれば、ビジネスチャンスが生まれる。

 技術者たちは、便器の新素材としてアクリル樹脂に目をつけた。樹脂はケイ素を含まないため、化学結合が起こらず、表面の平滑性が保たれる。また、アクリル樹脂の撥水性により、汚れがつきにくいという特徴もある。
 
 樹脂製便器の第一号の製品化に成功したのは、1980年だ。ただ、材料に使用した汎用樹脂ABSは変色しやすく、熱に弱く、傷も避けられず、結局失敗に終わった。

 本格的な樹脂製便器の開発は、その後、04年まで待たなければならなかった。「樹脂トイレプロジェクト」のスタートがそれである。汎用樹脂を使って失敗した第一号の反省のもとに、今度は材料にまでさかのぼって研究が進められた。カギは分子にあった。
 
 主成分のアクリル樹脂は、分子と分子の結合からつくられる。だから、特定の分子を追加することにより、アクリル樹脂はその性質を強化することが可能だ。技術者たちは、素材のブレンド研究に取り組んだ。樹脂に特性をもたせるため、材料の配合を徹底的に研究した。

「例えば、クラック(ひび)が起きるといった課題を、ある混ぜ物の配合でクリアすることができるんですね」(同)

 約1年半の研究の末に誕生したのが、有機ガラス系の新素材である。業界初となる有機ガラス系新素材による便器の開発に「GO」サインが出たのは、それからさらに1年後である。

●「本物を超えた“本物”」で実験

 材料開発にメドがつくと、次はいよいよ樹脂製便器の開発である。技術陣は、「汚れにくい便器」ではなく「汚れない便器」を目標に掲げた。というのは、慣れ親しんだ陶器の便器を樹脂製便器に買い替えてもらうには、消費者に「あっ」と言わせるサプライズがなければいけないからだ。「あ、それほしい」と思わせる強い動機がなければいけない。

「陶器製便器では、到達できない高い目標に、思い切ってチャレンジしたんです。単に進化した便器では、お客さんに振り向いてはもらえませんからね」(酒井氏)

 樹脂製便器は陶器の便器に比べて、汚れの原因となる水アカがつきにくい。これは、樹脂製便器の最大の利点だ。しかしながら、樹脂は陶器に比べて、ブラシで掃除をすると傷がつきやすいイメージがある。

 有機ガラス系素材はブラシで傷はつかないのだが、樹脂の傷つくイメージが避けられないとすれば、思い切ってブラシ掃除が不要なトイレをつくればいいのではないかと発想した。つまり、「汚れない便器」である。研究の道筋は定まったが、その実現に向けて技術者たちは苦闘する。

 なにしろ、研究対象は便器である。研究は自ずと“糞尿譚”にならざるを得ない。まず、人糞の研究から始めたのである。大きさ、比重、粘性、排出量など異なる条件を設けて便器に落とし、どれぐらい汚れるかを確認する必要がある。それに、汚物の便器への付着具合なども観察しなければいけない。技術者たちは、5種類の“人工便”をつくった。

「まさか、実験に本物を使うわけにはいきません。そこで、人糞に近い“人工便”をつくることにしたんですね。それは、簡単ではありませんでした。試行錯誤の末、柔らかさの異なる5種類の実験用の便をつくったんですね」
 
 こう“トイレの強兵”は語る。

「どんな材料で“人工便”をこしらえたんですか」と聞くと、「材料は秘密です。色もついており、赤色が残ったら油汚れ、青色が残ったら水アカ汚れというように、便器に残った様子を可視化できるんです」としたうえで、「人工便の開発者は、『俺は本物を超えた』って胸を張っていますよ」と“強兵”は笑うのだ。

 さらに、人が排便するのと同じ状況を再現するため、なんと“人口肛門”すなわち袋状の“排便マシン”まで製作した。5種類の人工便と排便マシンを使って、実験が重ねられた。

 また、泡の研究も行われた。水を流す際に泡を発生させて、汚れを落とそうというのである。汚れを落とすには、どんな泡が適しているか、さまざまな条件のもとで実験が行われ、データが蓄積された。

「その際、便器についた人工便を水で流すシーンを高速度カメラで映し出して、落ち具合を徹底的に研究したんですね」(酒井氏)

 結果、5ミリ大の大きな泡がもっとも効果的に汚れを落とすことがわかった。ただし、大きな泡だけでは、小さな汚れは落ちない。そこで、中性洗剤を使って直径60ミクロンの小さな泡を発生させることにした。

「はじめに大きな泡、あとから小さな泡が汚れを落とす仕組みです」(同)

 さらに、上からグルリと旋回させ、勢いよく流しきる「3Dツイスター水流」が開発された。それによって、洗浄力と節水の両立が図られた。
 
 技術者たちは、小便の汚れにも挑戦した。意外に知られていないことだが、男性が立小便をすると、便座のフチや床、その周囲にびっくりするくらい尿が飛び散る。トイレをきれいに保つには、尿の“ハネ、タレ、モレ”の3つを防ぐ必要がある。

 まずは、“ハネ”である。小便の落下の反動で尿が飛び散って周囲を汚すのであれば、泡のクッションで尿を受け止めればいいのではないか。技術者たちは、泡で飛び散りをおさえ、床や壁などへの汚れを抑制する“ハネガード”を開発した。ボタン操作などで便座を上げると自動で水位が下がり、水面全体に泡が出てくる仕組みだ。

 加えて、便器の外側に高さ3ミリのフチを設け、尿がフチに当たって垂れるのを防ぐ“タレガード”を開発した。また、男性が座って小便をしても、便さと便器の隙間から尿が漏れだすのを抑える「モレガード」を開発した。
 
●一体成形によるつなぎ目のないトイレ

 樹脂製便器の開発過程では、設計、生産のプロセスにおいても、技術革新がもたらされた。モノづくりは、お家芸である。本領発揮といっていい。 
 
 生産の技術革新のポイントは、「インジェクション成形機」を用いた射出成形にあった。樹脂を加熱して溶かし、金型に送り込んだあと、冷やして成形する。複雑な形状の製品を連続して大量に製造するにあたっては、当初、歩留まりが大きな課題だったが、創意工夫を重ねることにより、それも次第に改善された。

 現在、「アラウーノ」(パナソニックの樹脂製便器の商品名)は、愛知県の幸田工場で生産されている。「インジェクション成形機」によって、側面のスカートと呼ばれる部分、水がたまるボールの部分、便座が乗るリムの3つを自動で一体成形し、つなぎ目のない便器がつくられている。この一体成形には、パナソニックの高い樹脂技術が活用されており、簡単に他社はマネできないと、酒井氏は自慢する。

 このほか、樹脂化によるメリットは、重量が半減したことだ。約40キロだった陶器製便器に比べて、有機ガラス系新素材の「アラウーノ」の重さは、約20キロになった。結果、組み立ての現場における負荷軽減がもたらされた。

 温水洗浄機能やリモコン、ターントラップ部分など、各パーツの組み立ては、セル生産方式で行われている。工程を担当するのは、多くが女性従業員だ。

「工場で組み立てを担当する従業員は、ほとんど女性なんですね。軽いということは、大変なメリットです。それから、物流費も安く抑えることができました」(酒井氏)

 さらに、強調すべき点は、材料に樹脂を使うことにより、成形がしやすく、思った通りのデザインを表現できるようになったことだ。初代「アラウーノ」のデザインは、プロダクトデザイナーの深澤直人氏である。

「横から見ると、便器とフタがピタッと直線になっています。見た目がシャープなんですね。陶器では、こうはいきません。焼き上がりで収縮するため、プラスマイナス10ミリくらい、許容しなければならないからです」(同)
 
●海外に渡る日本発の樹脂製便器

 業界初の樹脂製便器「アラウーノ」は現在、既存商品を置き換え、着実に売り上げを伸ばしている。便器の市場規模は、年間約300万台といわれている。そのうち、高級市場とされるタンクレス型が年間40万台から50万台。パナソニックは、高級便器市場でナンバー1の座にある。

「住宅のリフォームの際、ご自分で便器を選ばれる方が買ってくださっています」(酒井氏)

 ただし、少子高齢化により国内の住宅関連事業は、縮小が見込まれる。実際、国内の新築住宅着工戸数は以前ほど多くはなく、今後も改善する見通しはもちにくい。となると、期待がかかるのは海外市場だ。

 パナソニックは、すでに中国と台湾で温水洗浄便座の販売強化に乗りだしている。現在、中国での普及率は1%に過ぎないが、今後の生活水準の向上にともなって、需要拡大が見込まれている。

「厳しい日本の市場で鍛えられていますから、海外市場にも十分に通用すると考えています」(同)

 考えてみれば、創業者の松下幸之助は、家庭内に電気の供給口がひとつしかなかった時代に、電灯と電化製品を同時に使用できるアタッチメントプラグ(二股ソケット)を考案した。考案したのはいいが、幸之助は肝心のソケット材料の配合を知らなかった。よその工場に聞いてまわったが、どこも秘密にして教えてくれなかった。そこで、配合の秘密を探ろうと、捨てられている原料のかけらを拾いにいったところ、大目玉をくらったというエピソードが残っている。

 一役かったのは、幸之助夫人のむめのさんである。むめのさんは、工場の周辺から、かけらを拾い集めてきた。そんな努力の末、幸之助はソケット材料がカーボンと石綿などの練り物であること、そして、その最適な配合を探し当てた。

 幸之助の研究成果を発端とする松下の樹脂技術は、その後、家電製品や雨どいなど、さまざまな分野に使用され、家電王国の建国に少なからず寄与してきた。

 つまり、幸之助以来のモノづくりの伝統は、樹脂製便器に至るまで脈々と受け継がれているといっても過言ではない。もっとも、二股ソケットがトイレ革命を引き起こす原動力になるとは、幸之助も想像だにしていなかっただろう。
(文=片山修/経済ジャーナリスト、経営評論家)

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