築地市場の意外な歴史…移転が「人権問題」にまで発展、業者に自腹移転強要で大反発の過去

築地市場の意外な歴史…移転が「人権問題」にまで発展、業者に自腹移転強要で大反発の過去

東京都の小池百合子知事(中央)(写真:つのだよしお/アフロ)

 7月2日に投開票を迎える、東京都議会議員選挙。争点のひとつとされているのが、築地市場の移転問題だ。

 中央区の東京都中央卸売市場(築地市場)を江東区の豊洲市場に移転するというものだが、すったもんだの末に、小池百合子・東京都知事は「築地は守る・豊洲を活かす」という両立案を示した。

 そもそも、移転計画自体は過去にも幾度かあった。昭和47年(1972)、現在の大田市場に移転するという話を皮切りに、何度も持ち上がっては、その都度さまざまな理由で拒否されてきたのだ。それでも、平成26年(2014)の新市場建設協議会において、ようやく豊洲市場への移転が決定、同28年(2016)11月には開場される運びとなった。

 さりながら、再びさまざまな問題が提起され、現在に至っても、いまだ実現の日を迎えられずにいることは、ご存じの通りだ。

●日本橋の魚市場が移転して開設された築地市場

 さて、この築地市場が現在のかたちで正式に開設されたのは昭和10年(1935)のことで、80年以上前のこととなる。日本橋界隈にあった魚市場が移転してきたもので、それは現在の室町1丁目から本町1丁目のあたり(日本銀行や三越本店近く)であった。

 明治22年(1889)に日本橋魚会所が編集した『日本橋魚市場沿革紀要』によれば、この魚市場ができたのは、江戸開府間もない慶長6年(1601)のことである。徳川家康の依頼によって摂津佃村より移住した名主・森孫右衛門の長男、九右衛門が当時の日本橋小田原町に店を出したのを嚆矢とするという。以後、江戸の発展と共に幕府の保護下で多くの魚商が集い、組合を形成して商売を続けていた。

 しかし、明治維新に伴って江戸が東京へと移り変わるなかで、日本橋界隈にも西洋建築が立ち並ぶようになると、魚市場は非衛生的として問題視され始めた。明治22年(1889)、東京市は都市計画たる「東京市区改正設計」を発表、そのなかで魚鳥獣肉市場を箱崎・芝・深川の3カ所と指定し、それらを扱う既存の業者は10年以内に移転するべき旨を告示した。築地市場に至る「移転問題」の始まりである。

 当然、日本橋の魚市場の人々は反発した。移転費用は自弁とされたので、なおさらである。抵抗の一環として、明治35年(1902)には『日本橋魚市場非移転趣意書』なる冊子が日本橋魚市場組合によって制作されている。

 同書の沿革の部分では、魚河岸の「始祖」と擬せられている森孫右衛門の活躍が書かれている。関ヶ原の戦いで徳川家康を地雷火から救った、大坂の陣において隠密を務めた、などがイキイキとした筆致で語られており、読み物としても大変おもしろい。

●人権問題?過去にもモメまくった築地市場移転

 興味深いのは、これを「人権問題」としているところである。「政府の権力無限にして個人の権利は羽毛より軽き」旧幕府時代ですら魚市場は保護されていたのに、「人権貴く法律制度を完備したる」明治の世においてなんらの保護や賠償の方法なくして移転を命ぜられることを不当としているのである。

 また、都市の中心部に魚市場があるのを非とするのは道理ではない、むしろ魚市場はそこにあるべきものなのだ、とパリやロンドンの魚市場を引き合いに出して反論している。

 さらに、魚くずの出す臭気についても、香港の魚市場のようにコンクリートで舗装すれば水で流して臭気は生じない、としている。また、海軍軍医総監を務めて医学博士号を持つ「麦飯男爵」こと高木兼寛による「総べてものは臭きが故に衛生に害ありと云ふことを得ず、余は未だ臭気に依り衛生を害し、病気を惹起したるものを見たることなし」との言を引用するなどして、批判に対する論駁としている。

 このような言論闘争と共に、期限の年を迎えるごとに延期が出願され、移転は先送りされ続けたのである。また、そのなかで日本橋と江戸川の間に桟橋を設けてその上に市場を設置する案や、日本橋中洲や芝浦への移転案なども模索されたが、いずれも実らなかった。

 さらに、魚市場のなかでも非移転派・中洲派・芝浦派などへと分派して、互いに批判し合うなど、まとまりを欠くようになっていった。かくして、多くの人々の思惑が複雑にからみ合うようになり、移転問題は完全に暗礁に乗り上げてしまったのである。

●震災後の仮住まいにすぎなかった築地市場

 皮肉にも、この移転問題に解決の糸口を与えたのは震災であった。

 大正12年(1923)に発生した関東大震災によって、日本橋魚市場が壊滅してしまったのである。当初は、元の場所に急造の店舗を建てて営業を再開しようしたが、東京市はこれを禁止して移転を求めた。同時に、海軍省から築地の海軍造兵廠跡地の借用許可を取り付け、そこに臨時市場を設けることになったのである。

 日本橋の魚商たちも、仕方なくそこへ移り、とにもかくにも営業を再開した。そして、この震災による市場の臨時移転を恒久的なものとするべく、帝都復興案のなかに中央卸売市場の建設が盛り込まれた。

 それから11年の歳月をかけて、昭和9年(1934)に完成したのが現在の築地市場である。専用の鉄道引き込み線をはじめ、冷蔵庫はもちろんのこと、バナナの発酵室や芋洗い場まで設けられており、当時としてはきわめて先進的な施設で「東洋一の魚市場」と呼ばれた。

 その翌年には、正式に東京市中央卸売市場として営業を開始、また、年末には歌舞伎座において「日本橋魚河岸」の解散式が行われた。それによって、魚市場の移転問題は「築地市場への移転」というかたちで名実共に決着を見たのである。

 振り返るに、前の移転問題は、当初は「築地への移転問題」ですらなかった。数十年を経て完全に暗礁に乗り上げ、震災復興に伴ってなし崩し的に解決されたという印象が強い。歴史を紐解けば、そもそも当初の築地市場はあくまで臨時的な仮住まいであったのである。

 もし、震災もなく、東京大空襲で帝都の大半が灰燼に帰すこともなければ、あるいは今でも魚市場は日本橋にあったのかもしれない。
(文=井戸恵午/ライター)

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