過大評価されていた聖徳太子? 見直される“政敵”蘇我馬子の功績

過大評価されていた聖徳太子? 見直される“政敵”蘇我馬子の功績

聖徳太子の肖像画が印刷された5千円札(旧札)

 今年5月19日、元興寺(奈良市)の創建1300年を記念し、飛鳥時代に前身の飛鳥寺を建立した豪族、蘇我馬子(そがのうまこ)を顕彰する法要が、馬子の墓ともされる奈良県明日香村の石舞台古墳近くで営まれた。産経ニュースによれば、法要を営んだ元興寺の辻村泰善住職は「蘇我馬子並びに蘇我氏に対して正当な評価がされることを願う」と話した。

 蘇我氏はかつて、大化の改新で一掃された守旧派というレッテルを貼られてきた。しかし今ではその実像が見直されている。蘇我氏は渡来人との密接な関係を武器に、海外の進んだ文明を積極的に取り入れ、国際感覚にすぐれた氏族だった。
 
 蘇我氏の出自については、大和国(奈良県)高市地方とする説、同葛城地方とする説、河内国(大阪府)石川地方とする説、朝鮮半島の百済からの渡来人とする説などがある。このうち渡来人説はほぼ否定されているものの、後述する蘇我氏と渡来人との密接な関係を考えると、捨てがたいものがある。奈良県文化財保存課課長補佐の坂靖氏は、蘇我氏の出自は飛鳥の開発を主導した渡来人にあると唱える。

 蘇我氏隆盛の基礎を築いたのは、536年、宣化天皇の大臣に任じられた蘇我稲目(いなめ)である。稲目は多数の渡来人を配下に置き、彼らの技能を使って朝廷の財政部門を掌握していた。この渡来人との密接な関係が、蘇我氏の開明的で改革的な性格の源泉となり、それによって朝廷内の高い政治的地位を維持する。

 欽明天皇の治世の538年、百済の聖明王から天皇に釈迦仏の金銅像などが贈られた。仏教の公伝である。当時、百済は新羅との厳しい戦いに直面し、倭国(日本)にしきりに援軍を要請していた。仏教を伝えたのはその見返りの意図があったとみられる。
 
 天皇が仏教を受容すべきかどうかを臣下の豪族に尋ねたところ、物部氏らが拒否を主張したのに対し、稲目は「諸外国がこぞって信仰している仏教に対して倭国だけが背くわけにはいかない」として受容を主張した。

 この言葉が示すように、稲目にとって仏教の受容は単なる信仰の問題ではなかった。配下に多数いる渡来人からの情報を通じ、百済をはじめとする先進国と渡り合っていくには、仏教という当時の「グローバルスタンダード」を受け入れざるをえないとの認識を抱いたとみられる。

●蘇我馬子と聖徳太子

 稲目が没すると、その子の馬子が大臣の地位を継承する。仏教の受容をめぐる対立は続いていたが、馬子は587年、王族や諸豪族を集めて、物部氏を滅ぼす。この結果、蘇我氏に対抗できる豪族はいなくなった。

 蘇我氏に仕える渡来氏族に東漢(やまとのあや)氏がいた。財政や外交などいくつかの職務領域で頭角を現すが、とりわけ優れていたのは軍事力である。前回の本連載で述べたように、倭国に馬の育成や馬具の生産を伝えた渡来人は、馬を乗りこなす軍事集団でもあった。

 東漢氏は蘇我氏の私兵として、重大な局面でしばしば登場する。たとえば592年、蘇我馬子が崇峻天皇を暗殺するという前代未聞の事件が起こるが、馬子の命により天皇を殺害したのは東漢直駒(あたいこま)だった。駒という名は馬文化と結びついた渡来人に似つかわしい。

 馬は飛鳥時代の政治を読み解くキーワードである。馬にちなんだ名を持つ、この時代の有力な政治家は2人いる。1人はいうまでもなく、蘇我馬子である。小野妹子や中臣鎌子など古代の人名の末尾に付けられる「子」は、親愛の情の表現、臣下であることの表示として6〜7世紀に広く用いられた。ここから蘇我馬子も実名は「馬」であり、子は敬称として添えられたものと歴史学者の平林章仁氏はみる。「馬」の名は、蘇我氏と外来の馬文化との親しい関係を示している。

 冒頭で述べたように、馬子は飛鳥寺を建立する。わが国最初の本格的寺院である。本尊の釈迦如来像(飛鳥大仏)の作者は鞍作止利(くらつくりのとり)といい、その名の通り、馬具製作を家業としていた。ここにも蘇我氏の馬文化が息づいている。

 馬にちなむ名を持つもう1人の有力政治家は、聖徳太子として有名な厩戸王(うまやとのおう)である。聖徳太子には厩(うまや)で生まれたという伝承がある。かつては完全なつくり話と考えられていたが、最近では、潤色はあっても事実とする研究がある。また「厩戸」という名は、太子が良い馬を飼う技術を持つ渡来系氏族と関係が深く、その関連で付けられたとみられている。

 実際、太子が幼い頃に住んだ上宮(かみつのみや、奈良県桜井市)や、その後移り住んだ斑鳩宮(いかるがのみや、同県生駒郡)の周辺には、馬を飼う渡来系氏族が多く住み、馬文化が濃密に存在していた。

 また、太子の父である用明天皇は、母が蘇我氏の出身であり、太子は蘇我氏の血を受け継ぐ存在だった。その意味でも馬文化とつながりがある。

●国際感覚に富んだ蘇我氏

 崇峻天皇の暗殺を受け、蘇我馬子の姪である推古天皇が初の女帝として即位し、推古の甥である聖徳太子が摂政となる。かつて教科書などで描かれた推古朝のイメージでは、聖徳太子が政治の中心として冠位十二階、憲法十七条、遣隋使派遣といった新しい政策を実行し、一方で蘇我馬子は太子の改革の邪魔をする抵抗勢力だった。

 今ではこの図式は修正され、推古の下で太子と馬子が共同統治をしたというのが通説とされる。しかし太子は馬子にとって妹の孫にあたり、娘婿でもある。年齢も40代前半だったとみられる馬子に対し、太子は19歳。同格の立場で共同統治をしたとは考えにくいと歴史学者の水谷千秋氏は指摘する。

 実際は、当時権力の頂点に位置したのは推古と馬子のコンビであり、太子の打ち出した政策は推古と馬子の庇護・承認の下に実行された可能性が大きい。

 冠位十二階(603年)と憲法十七条(604年)は、第1次遣隋使(600年)と第2次遣隋使(607年)の間に制定されている。これはこの両制度が、世界帝国である隋と交際するための、文明国としての最低限の政治・儀礼制度だったことを示す。冠位十二階は中国の制度を模範に世襲制を打破し、憲法十七条は中国由来の儒教思想のほか、仏教や法家の思想も読み取れる。

 これらの外交交渉や制度設計にあたり、馬子が配下にある渡来人の情報や知識を利用しなかったとは考えにくい。国際感覚に富む蘇我氏のバックアップがあったからこそ、聖徳太子の政策は実現したのだろう。
 
 馬子の没後、大臣の座は子の蘇我蝦夷(えみし)、その子の蘇我入鹿(いるか)が継ぐが、645年、大化の改新(乙巳の変)で入鹿が殺され、蘇我氏本宗家は滅びる。

 蘇我氏は国内で血なまぐさい所業にも手を染めたが、権勢を誇った100年余り、得意とする外交で東アジア情勢を乗り切り、平和を保ったことは高い評価に値する。大化の改新後、日本は中央集権化を進め、白村江の戦いという無謀な戦争に乗り出していく。
(文=木村貴/経済ジャーナリスト)

<参考文献>
坂靖『蘇我氏の古代学』新泉社
倉本一宏『蘇我氏』中公新書
吉村武彦『蘇我氏の古代』岩波新書
熊谷公男『大王から天皇へ』講談社学術文庫 
加藤謙吉『渡来氏族の謎』祥伝社新書
平林章仁『蘇我氏と馬飼集団の謎』祥伝社新書
水谷千秋『謎の豪族 蘇我氏』文春新書

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