はあちゅうさんAV男優との結婚おめでとう&人工知能は人を超えていくか

はあちゅうさんAV男優との結婚おめでとう&人工知能は人を超えていくか

©iStock.com

 はあちゅうさん、しみけんさんご結婚おめでとうございます。

 ところで、最近トレンドとなっている人工知能(AI)関連の技術なのですが、最近は大企業もAIとは何かがようやく分かってきて、あんまり荒唐無稽な相談をしてこなくなりました。先日も「うち、サラ金なんですけど、人工知能を導入するにはどこから検討を始めればいいんでしょうか」という周回遅れの相談はありましたが、その一年前は「人工知能でサラ金の収益を二倍にしたいから企画提案してほしい」という頭のおかしい依頼が多かったことに比べれば「ようやく何なのか分かってきたのだな」という感覚を強く持てるようになりました。

■コンピュータ様を頂点とする士農工商

「AIを使って与信をする」という点では、実は利用者が思っている以上にAIの普及は進んでいて、おかしな場所で本来は買わなそうな品物を買っていたり、本来の年収を超えて急に毎月の取引額がどーんと増えたりすると「この利用者はおかしいな」と検出される仕組みは昔からあるわけです。ただ、その仕組みはどんどん改良されていく中で、以前ならばより簡素な「ロジスティック回帰」で異常な取引を検出していたものが、数年前から順次AIに置き換わり、最終的には危険地帯や危険そうなブツの特定までできるようになってきました。

 もちろん、大量の取引の中から問題を起こした取引をピックアップし、その取引の特徴から問題のありそうな取引を事後に割り出す、という予測計算は、もはや人力ではできません。どうしても、でっかいコンピュータ、詳しいマネージャー、改善を担当する数学者、そして日々残業残業徹夜残業徹夜徹夜を厭わないプログラマという、コンピュータ様を頂点とする士農工商のような身分制度が確立しているわけです(最近は「士農工商」は嘘だったという事実を知り愕然としていますが、それは別の話)。

■先進技術は常にその利用についての倫理的な問題を抱える

 いまでは、シンギュラリティだ感覚移植だと、人間の感性を機械学習させてAIに人間ぽい振る舞いをさせようというプロジェクトが乱立するようになってきました。もちろん、学問というのは究極には「我々は誰なのか」とか「何処から来て、何処へ行くのか」など哲学的な問題を解決するために体系化された知識なんだよという話ですから、バベルの塔のようなスーパーコンピュータが人間の知性や感情という「神の領域」に向けて高く何かを積み上げていけば、神に似せて作られた人間を超えていくのではないか、と考えるのは何も不思議なことではありません。

 しかしながら、先進技術というのは常にその利用についての倫理的な問題を孕みますし、危険性について取り沙汰されることも少なくないわけです。例えば、遺伝子組み換え技術は社会における安定した食糧生産に多大な貢献をしましたが、「遺伝子を組み換える」ことに対して心理的な抵抗を感じる人は少なくありません。まあ、自然に作られたもの以外は口に入れたくないという気持ちは分かります。長期的な影響も分からないしね。

■過度なAIに対する恐怖心が跋扈している

 同様に、福島第一原発での放射能汚染についていまだに長期的な悪影響を心配する人もいるし、HPVワクチンの有用性について使うことによる利益が高いのに副作用の可能性を怖れて接種を控えるムーブメントが起きたりもしました。食品添加物も海洋資源保護も、技術や状況改善に関わるものは利益とリスク、短期的な影響と長期的な問題とを見比べて善悪判断するべきものです。

 この流れでいけば、人工知能も間違いなく「人間を超え、人間と敵対し、人間を脅かすものなのではないか」という話にならざるを得ません。むつかしい判断は人工知能に任せ、人間はその指示に従ううちに、人工知能に支配された人間社会ができてしまった、というような映画『マトリックス』の世界観をはじめとしたSF小説が作る人間と機械の対立です。

 とりわけ、人間と同等以上のことをやり遂げるAIに対する警戒感は、先日亡くなられた宇宙物理学者のホーキング博士も警鐘を鳴らすほどに一般化し、過度なAIに対する恐怖心が跋扈しているように思うんですよね。

■そもそも道具というものが運用される条件とは

 ただ、人間とAIの関係は、ある意味で人間と道具の関わりの延長線上であって、人間を超える道具があってはならないという議論で言うならば「人間が手で切るよりも上手に切るハサミという道具」とか「人間が手で洗うよりもはるかに綺麗に洗える洗濯機という機械」などとそう変わらないわけです。ハサミはハサミさえあれば人間が手で切るよりも上手に切れるようになる機能を提供する道具です。一方、洗濯機は洗濯機単体あればよいというものではなく、発電所が電気を起こし、その電気が送電されてきていて、また綺麗な上水道が整備されているので洗濯機を買って据え付ければ人間を超える能力が与えられる、というものです。つまり、前者は単なる機能なのに対し、後者は「人間を超える道具を運用するために、人間社会が適切に運営されていなければ人間を超えられない」ということでもあります。

 そうなると、人間を超えるAIを作って運用するというのは、人間社会が平和で安全で豊富な電力があって、政治が安定し、法律が整備され、イノベーションが阻害されず、経済状況が良く、AIを安心して運用できる環境にない限り人間を超えることはないのだ、ということを意味します。電力や安全やその他いろんな要素がひとつ欠けても、人間を超える優れた機能を持つAIが稼働することはないのだろう、と思うわけです。優秀なAIが稼働できる条件は、まさにAIの能力を実現できるだけの複雑で安定した、安全で安心な社会が何よりも第一条件になるということでもあります。

■問題が複雑すぎると「こうあるべき」論が発生する

 そして、人間を超えるAIとは何なのかを考えるとき、もはやハサミや洗濯機のように「道具や機能は見れば中身が分かる」ほど単純な世界ではなくなっています。いまでさえ、ワクチンが効く機序や、原子力発電がどのような知見の積み重ねで稼働しているのかを一般の人や市民が理解するのはなかなか困難です。普通に暮らしている人間がAIについて詳しく理解し説明できないぐらい高度で複雑なものになっていること、それが説明されて理解できる人間はそう多くないだろうということは、理解しておく必要があると思うのです。いわゆる「市民社会」は人間が幸せに暮らしていくうえで正義を実現する機能として重要なのは間違いありませんが、放射能であれ反ワクチンであれ「科学的に正しいと分かっていることに対して理解を示さず反対する人たち」になってしまう危険性もあります。彼らが悪いのではなく、問題が複雑すぎるので、物事に対する理解よりも「こうであるべき」という感情が優先するのです。

 車の事故に対して、実際には車のエンジンの仕組みや搭載されている電子機器についての知識はなくとも、車というモノに対して「危険運転をしそうな奴は試験をして免許を取り上げろ」とか「クルマは人間社会において必要悪」とか「化石燃料を減らすために車には極力乗るな」などという議論は容易に起きます。でも、現実には交通に関する法制度があり、車の利用で便利に暮らしている人がおり、むしろ車がなければ生活が成り立たない人がいて、そういう地域にも人がたくさん住んでいるなかで、たまには変わった運転者がおり、不注意で事故が起こり、不幸な犠牲者が出ることを甘受しなければならない状況だということになります。

■技術革新側が「善」を示し続けることが求められているんだろうなあ

 そうなると、原子力発電所も遺伝子組み換えも高度先進医療もワクチンもネット広告事業も、専門家がどれだけの倫理観をもって「市民にはパッと見ても分からない専門性によって高い生産性や機能を実現している分野」に携わっているのか、が問われるわけであります。本来、そういう問題を見つけて是正を働きかけるのが当局やマスコミの仕事なわけですが、倫理的な問題を見つけて是正することはコストがかかります。身の危険を感じる人も出るでしょうし、不当に上げてきた利益を奪われまいと抵抗する勢力も出るでしょう。

 だからこそ、AIを触る側も倫理観を保ち、私たちはこういう善の善たる活動で技術を革新しているんですよと示し続けることが求められているんだろうなあと考えるのです。だって、知らない分野まですべて知識を持つことなんて、この知識社会、情報資本主義の世界では無理ですから。

 むしろ、日本に足りないのはイノベーションを促進したり、倫理観のない仕組みを排除したりしやすいようにする「哲学」なんじゃないかと思います。そもそも論として、俺たちの時代も暑い中で勉強していたんだから学校にクーラーを入れるなんてとんでもないといって、地方の公立校では酷暑の中もクーラーが稼働してないとか問題外だと思うんですよね。昔ながらの生活がいいのであれば、洗濯機など使わずに川で洗濯板使って手で服を洗えばいいんじゃないかと思います。

 もっとこう「日本をより良くするために、きちんと道具を使い、正しく安きに流れる」ようなムーブメントを起こせたりしないもんでしょうか。マジで。

(山本 一郎)

関連記事(外部サイト)