「現場は大破した機体が四散し墜死した乗客の死体が…」機長が酩酊!? 終戦直後の“借りもの航空の惨劇”

「現場は大破した機体が四散し墜死した乗客の死体が…」機長が酩酊!? 終戦直後の“借りもの航空の惨劇”

「全員死亡」の毎日号外

「全員救助」が一転「全員死亡」へ…なぜ事故犠牲者の“生還の声”まで報じられてしまったのか? から続く

 機体発見は再び毎日の4月10日付号外を見よう。

〈 三原山火口附近で 遭難機体発見さる 乗客の安否は捜査中 航空庁10日午前9時正式発表 日航捜索機は10日早朝、大島噴火口東側1キロ、高さ2000フィート(約610メートル)の地点に遭難「もく星」号の機体を発見した。【UP特約(東京)10日】米空軍第3救助連隊(中隊の誤り)捜索機は10日午前8時25分、行方不明中の日航機「もく星」号の機体を大島の三原山噴火口東方で発見したと報告した。 なお第3救助連隊では「生存者の有無を調査し、もし生存者があれば、医療隊をパラシュートで降下させる計画である」と言明している。〉

 読売の号外を見ると、日航の捜索機が発見したのは午前8時40分。米軍の方が15分早かった。そして、10日付夕刊では、機体発見と死亡確認が報じられた。3紙はいずれも、三原山の山腹に機体や遺体が散乱した模様を自社機から撮影した写真を掲載している。

〈 遭難機・三原山で発見 全員の死亡を確認 噴火口付近に機体散乱 行方不明の日航機「もく星」号は10日朝、伊豆の大島三原山噴火口近くで発見された。機体は散乱し、全員37名は既に死体となっていた。この朝、前日に代わる快晴の空を「もく星」号捜索は日航、航空庁、海上保安庁、米空軍協力のもとに未明から行われ、午前8時34分、日航捜索機「てんおう星」号は三原山噴火口東側1キロ、高さ2000フィートの地点に横たわる「もく星」号のバラバラの機体を発見した。一方、ほとんど同時に米空軍第3救助中隊捜索機5機のうち1機も、同じく「もく星」号の機体を認め、第3救助隊の降下医療隊員2名は惨事の現場にパラシュートで降下し、遭難機が日航のマーチン202であることを確認し、生存者は1名もいないことを報告し、直ちに極東空軍司令部から発表された。消息を絶って以来24時間目に発見された「もく星」号は、日本の航空史上最大の痛ましい事故を起こしていたのである。〉

 こう報じたのは朝日。「衝突でなく空中分解? 目をおおう惨状」が見出しの別項記事は【大島御神火茶屋にて高沢通信員発】のクレジットで地上から見た現場の模様を次のように伝えた。

■「現場は目をおおう惨状である」

〈 日航機「もく星号」の墜落現場は大破した機体が四散し、墜死した乗客の死体が約3000メートルの範囲に散らばり、ある者は砂に顔を突っ込み、ある者は上向けに横たわるなど、また衣服がはがれた裸の死体、顔や手を焼いた死体……など、現場は目をおおう惨状である。乗客らの所持品の写真機、ボストンバッグなどが広い範囲に散らばっている。墜落現場のこうした模様から、三原山に衝突したものとは思えず、空中分解したものと考えられる。〉

 結果的に「空中分解」は違っていた。同じ紙面には、当時の村上義一・運輸相が「今後の事故の調査及び今後の事故防止を期するため『航空事故調査委員会』を設置する」ことなどを発表したと書かれている。「日本航空史昭和戦後編」によれば、これが戦後の事故調査のはじまりだった。

 だが、同じ紙面には「困難極める原因調査」という記事が。「原因は詳細な現地調査をしないと分からず、日航では『全く見当がつかない』と言っている」としている。

 同じ日付の毎日2面には「悲しみの遺族、現地へ向かう 涙かれて“沈黙の行列”、喪服もあわれ大辻夫人」が見出しの雑観記事が。さらに「人情家だった大辻君 特異な話術も今は夢」の見出しで、漫談家仲間だった松井翠声の談話がある。

「漫談というのを創始したのは大辻君といっていいだろうが、特異の話術で人気を博し、最近は年をとってますます円熟。風格が備わってきて、再び大辻君の時代が明けようというときに全てが夢となってしまった」

■「生存談話」の弁明

「キネマ旬報社増刊号日本映画俳優全集・男優編」によれば、大辻司郎は1896年8月、東京生まれ。早くに父を失い、株の仲買をしていた叔父に育てられて相場師になったが、一転無声映画の弁士を志して独学。喜劇専門の弁士として売り出す。「勝手知ったる他人の家」「胸に一物、手に荷物」など、珍説明、迷文句を考えだし、独特の奇声で観客を沸かせた。

 関東大震災後、「漫談」を造語。その「家元」を自称して寄席に出演するように。弁士仲間だった徳川夢声や、喜劇俳優古川ロッパらと劇団「笑の王国」を結成。舞台や映画にも進出し、戦後も多方面で活躍を続けていた。

 その大辻の「生存談話」を載せた長崎民友新聞は4月11日付で「大辻司郎氏遂に亡し 誤報につき読者に陳謝す」という社告を載せている。それによれば経緯はこうだった。

〈 漫談界の長老、大辻司郎氏は本社主催の長崎復興平和博覧会の演芸部に、開会当日から10日間、さらに5月中に15日間、出演の約束でありました。その開会に急ぎ間に合うため、日航「もく星号」で9日、東京・羽田を立ち、博多から雲仙号で9日午後、長崎着の予定でありました。 一方、大辻氏のマネジャーは汽車で博多に先着し、大辻氏を迎えて長崎に同行するため、博多駅に待機していました。そこに「もく星号」事故の報が伝わった。一喜一憂しているうちに、全員救助の報が電波を通じて伝えられた。そこでマネジャーは大辻氏の安全を信じ、大辻氏の博覧会出演をより一層有効とするため、大辻氏があたかも語ったように談話を発表し、さらに大辻氏の令夫人の談話を東京からとって発表したものであります。 本紙は「もく星号」全員救助ニュースが国警静岡県本部から、次いで日航本社から発表された後のことであったので、大辻氏のマネジャーの発表を信じてそのまま掲載したような次第であります。〉

 社告にあるように、長崎復興平和博は長崎民友新聞の主催で4月10日から約50日間開催された。原爆投下で長崎市北部の浦上地区が壊滅してから7年。復興を記念して被爆中心地一帯に総工費1億5000万円(2019年換算約10億1100万円)をかけて40余りの展示館を建設。100万人の入場者を見込むなど、「終戦後初の国内最大の博覧会として全日本に問う気宇壮大なもの」(4月10日付1面記事)だった。屋内演芸館には東京からの芸能人が大挙出演。大辻はその目玉の芸人だった。

■背景にあった地方紙同士の激しい競争

 そこには熾烈な地方紙同士の競争が背景にあった。

 長崎県の新聞は、戦時統合で1県1紙の「長崎新聞」になったが、戦後の1946年12月、統合前の4紙に分離、独立した。

「長崎市内で発行する『長崎日日』『長崎民友』はライバル意識を強め、競争は次第に激しさを増していた。『長崎民友』の創始者である西岡竹次郎が知事に当選すると、『長崎日日』は野党的色彩を強める」と「激動を伝えて一世紀〜長崎新聞社史〜」は書いている。

 復興平和博はその対立の火種となった。「県費500万円(2019年換算約3400万円)補助が県議会で論戦を招けば、その展開を連日のように報道」(同書)。長崎日日が西岡県政批判を強めれば、知事は長崎民友を使って反論するなど、対立はエスカレート。

 結局、復興平和博は「長崎の街の大復興という理想を掲げながら、県費補助をめぐる県議会での論戦で水を掛けられた形となり、結果的に赤字を出してしまう」(同書)。スタートを盛り上げるはずだった大辻司郎の死は成り行きを暗示していたのかもしれない。直接的には、新聞社が主催者だったことで、大辻のマネジャーが気をきかしたつもりが「虚報」につながった。

「激動を伝えて」は「通信メディアの混乱で『長崎日日』とともに『全員救助』と報じたが、『長崎民友』は大辻司郎の生還談話まで載せたため“虚報”となり、社勢にも著しいブレーキとなる」と述べている。

■持て余されていた機体

 4月11日付朝刊の各紙1面には、地上から写した「惨たる『もく星』号遭難現場」(朝日の説明)の写真が。火山灰地に車輪など、バラバラになった機体の破片。その間に遺体があるのがはっきり分かるものも。特に読売は最上部に横長で掲載。航空機事故の悲惨さを浮き彫りにした。社会面では、「ドロだらけの手握り 震えて座込む遺族」(朝日見出し)など、遺体が安置された大島の3つの寺に詰め掛けた遺族の表情を書き留めている。

 社説でも一斉に取り上げた。マーチン202型機の安全上の疑念に加えて、朝日と毎日は、日航の「複雑でまた不合理な組織」(朝日)に言及。ノースウエストとの「変則的な形」(毎日)が無責任体制につながったと指摘した。読売は「日航は責任をとれ」(見出し)と端的に批判。

 マーチン202について、「写真集日本の航空史」は「日本航空はノースウエスト航空と1年間の運航委託契約を結び、1951年10月25日に第1便を東京―大阪―福岡に飛ばしたが、これに使われたのがマーチン202。同機は原型機が1946年に初飛行した中・短距離用の双発機で、43機しか生産されず」「日本航空に入ってきた1番機は『もく星』と名付けられ、1952年3月までに『すい星』『きん星』『か星』『ど星』が加わって計5機が使われた」と記述。

 同機はアメリカで遭難事故を複数回起こし、旅客機としての使用を疑問視する声もあった。日本の航空機設計の第一人者・木村秀政・日本大名誉教授は雑誌「自然」1952年7月号のエッセーで「アメリカの一流会社から完全にボイコットされ、唯一のノースウエストさえ持て余し気味だったのだろう」と書いている。当初、原因として「空中分解説」が強かったのもそのためだったのだろう。

■「飛行機の旅は危険か?」「タクシーなどよりはるかに安全」

 航空輸送再開間もない時期での事故の衝撃を受けて、朝日4面には「飛行機の旅は危険か?」の見出しで「タクシーなどよりははるかに安全」とした明治大教授の評論記事も見える。それでも4月16日の読売朝刊には「空の客ガタ落ち “もく星”号遭難初七日」の記事が。「遭難の影響はようやく覆い難く、ここ数日乗客数が目に見えて減り、日航の痛手を一層大きくしている」とし、日航大阪支所の話として、団体客がバッタリ途絶え、逆に航空保険加入者が4割前後に増えたと書いている。

 焦点の原因調査は、運輸省が設置した専門家らによる航空事故調査会が4月14日から活動を開始。村上運輸相は15日の衆院運輸委員会で「日航に対して政府は責任を追及する必要はなく、日航も責任をとる立場にないと考える」と言明。同時に「全員救助」の“誤報”の“出所”を明らかにした。

〈 小牧飛行場を飛び立った(米軍の)飛行機が舞阪付近で“機体の一部を発見”し、小牧に帰り、埼玉県の基地に報告。掃海艇に救助命令が出された。飛行機が海面に墜落した場合は解体するのが当然だが、機翼の一部が浮いていることは、意識的に不時着したという判断が生まれてくる。その場合は1時間から2時間、あるいは3時間も浮いている時があるので、救助に向かえば生存しているという判断もあるわけだ。あの場合は「助かっているはずだ」という救助の材料がいろいろ総合されてニュースになったものだと思う。政府でも確認に努めたが、(海上)保安庁ではついに確認できなかった。救助していないことが分かったのは夕方だった。一方、八幡製鉄が知り合いに個人的に当たったところ『オールセーフ』ということを聞いたので、各方面に無事だというニュースが出された。日航でも「全員救助」というニュースを出したが、これも日航が外部から聞いたことで、政府ではこうした報告は出していない。〉

 これでも何が何だかよく分からない。原因については「高度計故障が原因」(4月12日付毎日朝刊)、「空中放電恐れ低空か 尾翼に落雷の跡」(4月26日付朝日夕刊)などの報道もあった。4月12日付読売は「もく星号は何を教えたか?」と題して「原因究明の仕事さえ、実を言うと、まだ航空禁止が解かれない。現在日本側は各事項にわたって詳細な資料を持っていないので、極東空軍及び米CAA(民間航空局)の積極的な協力がない限り、正確な調査は望めそうもない」と指摘。日航は営業などの地上業務、ノースウエストが整備も含めた運航という“二元行政”が調査でもさまざまな不都合を起こしている、と主張した。

 4月19日には東京・築地本願寺で犠牲者の合同葬儀が行われたが、同じ4月の28日、サンフランシスコ平和条約が発効して日本は正式に独立。国民のお祭り騒ぎや、独立後のさまざまな課題の報道に新聞紙面が割かれ、事故の衝撃は一気に薄れた。

■機長は酒を飲んでいた!?

 事故からちょうど1カ月後の5月9日、事故調査会が調査結果を発表した。朝日の記事は――。

〈 日航機『もく星』号の遭難原因について、運輸省では「航空事故調査会」を特設。約1カ月にわたって究明していたが、9日、正式決定をみたので閣議に報告した。遭難の直接原因は、操縦者が計器飛行のため、その航空路について規定されている最低高度以下を飛行したことによるものと推定された。また、村上運輸相は9日朝、参院本会議でもその調査結果を報告した。同調査会の推定する理由は次の通り。1.接地の状況や残存する機体、発動機、プロペラ、無線機、その他の装備品を詳細に検討した結果、操縦に影響を及ぼすような故障を起こしていなかった2.当時の気象状況は雲中飛行しなければならないような状態にあり、多少の気流の乱れが予想され、局地下降気流があったとも考えられるが、このため操縦不能または低空飛行しなければならなかったとは認められない3.航空保安施設については、その当時、羽田、館山、大島、焼津の各航空無線標識には異常がなかった4.航空交通管制については、羽田出発時において一度誤った交通指示が出されたが、直ちに訂正されている。また、館山通過前後の記録に多少の矛盾が認められ、航空機との連絡に不十分な点があった。これは事故の直接原因にはなり得ないが、このような航空交通管制の不手際が操縦者の錯誤を誘発する原因になり得たかもしれない5.操縦者はアメリカのエアラインパイロットの有効な資格を持っており、また、その航空路線にも相当慣れていた 結論として事故の原因は、旅客、乗員が全員死亡しているため確認することは困難であるが、航空交通管制の不手際その他、何らかの間接原因に基づく操縦者の錯誤ということを、非常な確実性をもって推定し得る。〉

 これに対し、同じ紙面にはノースウエスト航空のキング副社長と、機長ら2人が所属していたトランスオーシャン航空のニコルス理事の談話が載っている。

〈 大庭(哲夫・航空庁)長官(調査会会長)はじめ事故調査会の調査ぶりには敬意を払っている。従って、調査結果をとやかく批評することは不当である。ただ、全ての責任がパイロットに押し付けられるのもまた不当だと思う。古来“死人に口なし”と言う。結果において、パイロットをあの高度で飛ばせた周囲の状況を告白し得る者は全て死んで1人もいない。しかも、あの飛行機にも正副2人のパイロットがいて、同じラジオを一緒にレシーバーで聞いていたはずである。2人のパイロットにそろって判断を誤らしめたものが何であったか。スチュアート機長が当時酒を飲んでいたというのは全く事実無根である。これには出発前後、彼と会っている証人がある。また、彼の健康、睡眠状況などについても、何ら異常な点はなかったということも証人がある。〉

「酒」というのは、5月8日付毎日朝刊が「“ス機長は酒を飲んでいた” ドロンとした眼、ふるえる手」と伝えたことを指す。機長を宿舎付近から羽田まで送ったハイヤー運転手が、機長が料金の支払いを忘れ、手も震えていたようだった、などと証言していた。

■「歯切れの悪い結論」

 調査結果は朝日の記事だけではよく分からないだろう。コンパクトに書かれた「環境・災害・事故の事典」の該当部分に頼ろう。

〈 この当時、航空交通管制は全て米軍の手で行われていた。埼玉県・入間町(現入間市)の(米軍)ジョンソン基地に管制センターがあり、ここで飛行機に対する管制指示を出していた。羽田の管制塔はセンターからの指示を飛行場に伝達する役目をしていた。 日航301便(「もく星号」)は出発のとき、管制塔から「大阪までの飛行高度6000フィート(約1829メートル)。ただし、館山通過後10分間は高度2000フィート(約610メートル)を維持すること」という指示を受け取る。機長は大島上空の規定高度が6000なので、この指示に抗議すると、管制塔は「館山ではなく、羽田出発後10分間は高度2000を維持。その後6000」をとるよう訂正してきた。機長はこれを復唱して離陸して行った。羽田を出発した後の交信は、管制塔から「東京コントロール」(ジョンソン管制センターのこと)に替わる。同機は7時57分に館山上空を通過するが、この時の位置通報は「館山通過、高度6000で雲中飛行」であったと、東京コントロールでは主張していた。 だが、「東京モニター」(この所在が不明瞭)の記録では「高度2000」であったと言い、この情報が日本側に漏れていた。いずれが正しいかは東京コントロールが記録していた交信テープを聞けば分かることだが、日本政府の再三の要求にもかかわらず、米軍は最後まで交信テープの提出を拒み通した。 衝突した地点はコース上であり、高さはちょうど2000フィートの所であったことから、同機の運航は正常であり、正確にコース上を飛行していたものと思われる。 当初期待していた米国極東空軍との共同調査は実現せず、単に米空軍の好意的協力にとどまった。(ジョンソン管制)センターで指示を出していた米極東空軍からは1人も調査(委員)会に加わらなかった。〉

 事故から45年後に出版された「日録20世紀」第6巻「1952年」では、当時機長を送ったハイヤー運転手が「明らかに酩酊状態だった」と明言。航空評論家の関川栄一郎氏も、機長酩酊説が有力と考えているとし、「占領下という状況を考えれば、米軍とアメリカのメンツを保つために事実を隠蔽した可能性は高いと思う」と述べている。

 作家・松本清張氏も、フィクションを織り交ぜた遺作「一九五二年日航機『撃墜』事件」で推理している。調査会の報告に「もく星号」が離陸当時、「アメリカ空軍の輸送機が1機、羽田上空2500フィート(約760メートル)の高度で空中待機中であり、なお約10機が付近を航行中」とあったことから、「もく星号」は米軍機から仮想敵として攻撃を受け、それを避けようとして三原山に突っ込んだと。

 いずれにしろ、「環境・災害・事故の事典」が言うように、事故調査会の結論は「抽象的で歯切れの悪いものであった」。真相は永遠の闇の中で、事故は占領下の悲劇の1つともいえる。「画報現代史 戦後の世界と日本第12集」は事故の写真を集めたページに「借りもの航空の惨劇」の大見出しを付けた。その中でも「環境・災害・事故の事典」が書いていることがわずかな救いだろうか。

「安全上最も大事な運航を外国会社に委託するという変則運営に批判が高まり、この事故が契機となり、自主運航への気運は急速に高まっていった」

【参考文献】
▽高田秀二「物語特ダネ百年史」実業之日本社 1968年
▽毎日新聞社社会部編「事件の裏窓」毎日新聞社 1959年
▽「共同通信社50年史」共同通信社 1996年
▽回想録編纂委員会「三鬼隆回想録」八幡製鉄 1952年
▽「別冊1億人の昭和史昭和史事典」毎日新聞社 1980年
▽「日本航空史昭和戦後編」日本航空協会 1992年
▽「キネマ旬報社増刊号日本映画俳優全集・男優編」キネマ旬報社 1979年
▽「激動を伝えて一世紀〜長崎新聞社史〜」長崎新聞社 2001年
▽「世界の翼シリーズ写真集日本の航空史(下)」朝日新聞社 1983年
▽「環境・災害・事故の事典」丸善 2001年
▽「日録20世紀」第6巻「1952年」講談社 1997年
▽松本清張「一九五二年日航機『撃墜』事件」角川書店 1992年
▽「画報現代史戦後の世界と日本第12集」国際文化情報社 1955年

(小池 新)

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