「雅子妃が輝きを失っていかれたのとは対照的」 紀子さまはなぜ皇室で“自己実現”を果たされたのか

「雅子妃が輝きを失っていかれたのとは対照的」 紀子さまはなぜ皇室で“自己実現”を果たされたのか

2020年、秋篠宮さまお誕生日に際してのご近影。紀子さまは秋篠宮さまと腕を組んで。

「絶対に子どもを叱ったり怒鳴ったりはしない」秋篠宮紀子さまの父が語った“子育て”のモットー から続く

 民間人が皇室入りするにあたっては、私たちにははかり知れないほどの困難があるだろう。しかし、紀子さまはそのような困難を乗り越え、皇統に関与する宮家の一員として、積極的に公務に取り組まれている。紀子さまの“強さ”はいったいどこから湧いてくるのだろうか。

 ここでは、ノンフィクション作家石井妙子氏の著書『 日本の血脈 』(文春文庫)を引用。紀子さまの母である杉本和代氏のルーツ、そして紀子さまの生い立ちを振り返る。(全3回の3回目/ 1回目 、 2回目 を読む)

(※年齢・肩書などは取材当時のまま)

◆◆◆

■もうひとつのルーツ

 杉本和代は杉本嘉助、栄子夫婦の長女として昭和17年、静岡に生まれた。

 当時、一家は満洲国の奉天で暮らしており、栄子は出産のために静岡に一時里帰りし、無事、出産を終えると、愛児を胸に夫の待つ奉天へと再び戻っていった。

 嘉助の生家は静岡で箪笥や鏡台をつくる家具製造業を営んでおり、嘉助も家具職人となることを父に望まれた。だが、勉強がよくでき、また教師の熱心な勧めもあって、旧制の県立静岡工業を卒業すると、奨学金を得て横浜高等工業学校機械工学科(現・横浜国立大学理工学部機械工学科)に進んだ。その後、技術者として満鉄に就職して渡満し、同じく静岡出身で満鉄社員であった服部俊太郎の娘、服部栄子と結婚したのである。

 夫婦は最初に長男を授かったが、満洲の厳しい気候の中で病気になり、間もなく他界した。これを父親の嘉助は大変に悔やんだ。その後、長女の和代も満洲の寒さの中で長男と同じような症状を起こした。嘉助は医者に頼らずに自分の手で和代の背中をさすって介抱したという。この時の経験が、後の嘉助の生き方を決めることになる。

 敗戦を一家は奉天で迎えた。満洲での日本人の立場はその日を境に大きく変わった。さまざまな悲劇が起こった。だが、満鉄の技術者であった嘉助は、こうした他の日本人たちとは少し異なる戦後を送った。占領軍となった中国側が、その技術力を欲したためである。技術者だけ集められた地域に囲われて暮らし、中国の人々に技術を教えた。故に、略奪や飢えの恐怖を味わうことはなかったという。

 ようやく帰国の途に就くのは、2年後の昭和22年。嘉助一家は、家族全員がそれぞれリュックひとつを背負って引き揚げ船に乗った。満洲で築いた財産は全て失い、その後、故郷の静岡で新しい生活を始める。

 満鉄の技術者であった嘉助は、医療器具の開発に取り組んだ。ようやく納得のいく機械が完成し、嘉助は日本とアメリカの両方で特許を申請した。昭和33年から、いくつかの特許が下りた。結局はコストがかかりすぎて、製品化には漕ぎつけられなかったが、そこで機械を販売するのではなく、機械をつかった治療をしようと考えて、整体の治療院を立ち上げる。

 その治療院は、かつて静岡駅近くの泉町にあった。東海道線が通る線路の近くで、ひっそりと営んでいたという。近所の人は語る。

「ああ、そこにありました。その路地を入っていった、奥に治療院があったんです。でも、ある日突然、治療院をやめてしまわれた。その後、間もなく紀子さまのご婚約の発表があり、とてもびっくりしたことを憶えています。杉本さんは穏やかで上品な、いい方でした」

 杉本夫妻には娘がふたりいたが、慎ましい生活を送る中でも、教育費は惜しまず、静岡英和女学院というミッション系のお嬢さん学校に通わせた。その後、長女の和代は高校を卒業すると、東京の昭和女子大学短期大学部に進学する。

■紀子さまの誕生

 そして、この短大時代に東大在学中の川嶋辰彦と出会う。当時、辰彦は駒場祭での催し物の費用を捻出するために、同級生たちとダンス講習会を主宰していた。その講習会に、友人とともにダンスを習おうとやってきたのが和代だったという。

 和代は短大を卒業すると、静岡に戻り、地元の企業に勤めた。だが、東京と静岡に離れても辰彦との縁が切れることはなく、ふたりは間もなく結婚した。とはいえ辰彦はまだ経済学を学ぶ大学院生、会費制でささやかな結婚式を挙げた。

 昭和41年、ふたりは子どもを授かった。和代は静岡の生家で出産した。夫妻はこの子を紀子と名付けた。

 紀子が生まれた昭和41年は、実は大変に出生率が低かった。その理由は干支にある。この年は丙午だった。丙午の女児を授かることを避けたいという親が、当時はまだ多かったのだ。だが、川嶋夫婦は、もちろんそのような旧弊な考えを持ち合わせてはいなかった。

 辰彦は紀子が生まれた翌年、東京大学大学院を修了し、アメリカのペンシルベニア大学大学院に留学することが決まった。一家はフィラデルフィアに移住する。

■人種による差別感情などを持たない人間にという願い

 その生活は6年にわたり、紀子はここで現地の幼稚園と小学校に、それぞれ1年ずつ通った。辰彦は子どもの教育を考えて、この時、日本人学校や白人だけが集まる学校を避け、あえて生徒や教師の多くが黒人である現地校を選んで娘を入学させたといわれる。肌の色や人種による差別感情などを持たない人間になって欲しい、との願いがあった。辰彦を知る人は語る。

「本当に学者タイプで、少し浮世離れした方です。穏やかで絶対に怒らない。どんな相手に対しても常に敬語で話します。また人間は常に対等であるという考えで、日頃から『自分は国籍や肌の色による差別、他、あらゆる差別意識に反対の立場を取る』と発言しています。

 親子関係でも親が子どもより上という考えは持ちたくない。一つの人格として子どもを見て、対等な関係で接するようにしたと聞きました。だから小さな子どもにも敬語で話すのだと。夫婦関係ももちろん対等、また生徒と教師の関係も、上下ではなく対等で平等であるべきだという思想の持ち主です。専門は計量経済学ですが、授業では、そういった問題意識から被差別部落問題なども取り上げています」

 そんな父と、学者肌で理想主義者である夫を支える母のもと、異国のアメリカで紀子は育った。家での親子の会話は全て英語だった。紀子は6歳まで英語を母国語として育つ。

 紀子が小学1年生の時、父が日本で就職することになり帰国した。ちょうど母の和代が妊娠中だったため、紀子は母とともにアメリカから戻ると、まず静岡の杉本家で暮らした。静岡市立中田小学校1年に編入している。紀子は少しも日本語が話せず、アメリカとはシステムも文化も何もかもが違う日本の小学校に戸惑いを見せたという。当時を知る人が語る。

■日本の小学校に編入した紀子さまの戸惑い

「『給食を残してはいけない』『帽子をかぶらなければいけない』といった学校の規則を知って不思議に思ったようです。時には『帽子をかぶりたくない』といって駄々をこねることもあったようです。けれど、それでも、『学校に行きたくない』と言って周囲を困らせるようなことは一度もなかったと聞きました」

 和代は、この静岡滞在中に紀子の弟にあたる舟を無事出産した。3か月の静岡滞在を終えて、3人は東京に移った。紀子は新宿区立早稲田小学校1年に入学し、約2年間通学する。だが、ちょうど父が学習院大学に就職したため、昭和50年4月からは豊島区立目白小学校3年に転校し、さらに同年、母、和代の考えにより学習院初等科の編入試験を受けて合格、翌年には、学習院初等科4年に編入した。

 その翌年には辰彦がオーストリアの研究所に赴任することになり、また転校を余儀なくされる。オーストリアはドイツ語圏であるため、現地ではアメリカン・スクールに通学した。紀子が通った小学校は、アメリカを皮切りに実に6校に及ぶ。しかも外国から日本国内、それも市立から学習院という特殊な私立学校まで変化に富んでいる。その後、2年間のオーストリア生活を終えて昭和54年に帰国、学習院の女子中等科1年に編入したが、2年間の外国生活によって、日本語はまた後退してしまったのだろう。大変にたどたどしかったという。

■「紀子さまスマイル」

 それにしても、実に目まぐるしい幼少期である。外国に行けば東洋人の少女は異国人であったろうし、日本に戻れば言葉が通じなかった。「笑顔は万国共通」というが、「紀子さまスマイル」と言われた、その笑顔の原点は、この幼少期に起因するのかもしれない。どんな環境でも相手の感情を見抜き、周りに順応して異分子とならぬように溶け込んでいく。この特異な経験が紀子を鍛えた部分もあるだろう。

 昭和54年以降、辰彦は長く外国に滞在することはなくなり、学習院大学に落ち着いた。紀子も学習院女子中等科に入ってからは、転校を経験することはなくなる。

 日本語力には相当なハンディがあり、それ故、学業には苦労した部分もあったことだろう。だが、高等科を卒業し順調に学習院大学に進学した。大学は男女共学であり、一学年の人数も一挙に膨れ上がる。その広いキャンパスの中で、礼宮と呼ばれていた、後の秋篠宮に出会う。

■宮様との出会い

 礼宮は、昭和40年のお生まれ、紀子より一つ年長であった。

 構内の本屋で礼宮がたまたま紀子を見かけ、その後、ご自身が主宰される「自然文化研究会」というサークルに勧誘し、交際が始まったといわれている。

 礼宮は愛車に紀子を乗せて葉山などへドライブに誘い、また、お住まいにもたびたびお招きになった。学習院近くのスナックでお酒を飲まれることもあり、自然文化研究会のサークル活動として、お二人はお仲間と一緒に木曾路や熊野などに泊まりがけの旅行もされた。そこに宮内庁の影はなかった。礼宮はいわばご自身の考えと行動力で、伴侶となる女性を見つけ、普通の若者がするような自由な交際を重ねていったのだった。

 美智子妃や雅子妃の場合、皇太子からの強いアプローチがあったとはいえ、その過程には、宮内庁をはじめ、周囲の人々がさまざまな形で関与している。交際といっても、電話や手紙、あるいは、じかにお会いになるとしても、その機会は数えるほどであったろう。だが、礼宮と紀子の交際は、こうした皇室の伝統に縛られなかった。それが許されたのは礼宮が皇太孫ではなく、弟宮であったからだろう。

■「紀子さんフィーバー」は「紀子さまフィーバー」に

 やがて、ご婚約が発表されると、その日から、「川嶋紀子」は「正田美智子」以来の、皇室最大のスターとなった。かつて、これほど弟宮の結婚が大きく扱われたことはなかったはずだ。昭和天皇崩御の直後とあって、国民は皇室の慶事を待ちわびていたのかもしれない。

 とはいえ、もちろん、このご婚儀に関して批判が全くなかったわけではない。

「伝統を最も重んじなくてはいけないはずの家が、なぜ、昭和天皇の喪中に婚約など許したのか」

「長幼の序というものがある。先に弟宮のお妃が皇室に入っては、後からお入りになる皇太子妃がやりにくくなるのではないか」

「将来、皇太子妃が男子に恵まれなかった場合、皇統に関係する。その時のことを考えて、きちんと選んだといえるのか」

 そんな声を払拭したのは、国民の紀子妃への熱狂だった。婚約者時代から始まった「紀子さんフィーバー」は「紀子さまフィーバー」に変わって続いた。

 国民は「3LDKのプリンセス」と呼ばれた女性が、果して皇室に馴染んでいけるのか、固唾を飲んで見つめた。それは幸い杞憂となった。紀子妃は折れなかった。

 紀子妃誕生に遅れること3年。皇室に、ついに皇太子妃が迎えられた。だが、すでに紀子妃誕生を経験した国民には、どこか既視感があった。華やかな宮中行事もすでに紀子妃の時、マスコミに散々紹介されていた。

 ご成婚前から雅子妃はマスコミにさんざん追いかけ回されるという辛い経験をされていた。紀子妃はお妃候補と騒がれる前に、正式に婚約者として紹介されている。婚約者と候補者では、報道陣の態度や報道姿勢がまったく異なる。

■雅子妃が受け続けた無遠慮な批評

 あくまでも一般人の、お妃候補の一人でしかなかった雅子妃は、そのため誰からも守られることなく、記者たちに追われ、たびたび雑誌やテレビで取り上げられては、無遠慮な批評を何年間にもわたり受けることになった。お辛かったことであろう。雅子妃はご結婚後、当時のトラウマから写真のフラッシュに恐怖をお感じになるようになったと言われる。ご病状は重くなり、やがて適応障害という病名が発表された。

 対照的に紀子妃は皇室に、見事に適応された。それだけでなく、自己実現を果たされていったようにも見える。公務には積極的で、色鮮やかな皇室ファッションで様々な行事に参加され、次々と新しいことにチャレンジし、現在は、日本学術振興会の名誉特別研究員として、お茶の水女子大学にて心理学の研究に再び取り組まれている(編集部注:2017年6月にお茶の水女子大学の人間発達教育科学研究所の特別招聘研究員に就任)という。悠仁親王を、それまでの前例を破って学習院ではなく、お茶の水女子大学附属幼稚園に入学させることができたのも、このことと無関係ではない。雅子妃が民間人であった時の輝きを失っていかれたのとは対照的だ。

 川嶋家の家系を見つめてみると、貧しさと逆境の中から艱難辛苦を乗り越え、時代に適応していった人が多い。

 農家の三男として生まれ和歌山市視学になった川嶋庄一郎、会津城で戦い斗南に流されながら、新政府のもと、大阪市長となった池上四郎、同じく幕臣として五稜郭で戦い、その後、新政府で陸軍参謀本部測量部長という要職に就いた小菅智淵、あるいは満洲鉄道で働き、リュックサック一つで引き揚げた杉本嘉助。皆、ハンディを背負い、あるいは負け戦を体験し、時代に翻弄された人々である。だが、そこで運命に押しつぶされることなく時代の変化の中で、自分の処し方を見つけ、第二の人生を切り開いていった。

 紀子妃は昭和天皇が崩御された後、宮中にお入りになった。あのご婚約から平成という時代は始まり、秋篠宮夫妻の歩みは、そのまま平成という時代に重なっている。

■喪を払う寿ぎ

 東日本大震災が起り、日本中が悲しみに包まれた、その年の秋、紀子妃の第一子、眞子さまが成人され、ティアラを頭に頂いた煌びやかなローブデコルテのご正装姿を披露された。その時、二十数年前に服喪の中、濃紺のワンピースを着て記者会見に臨まれ、たどたどしい言葉遣いで喜びを見せた、かつての紀子妃の姿が一瞬思い出された。

 不幸の中の慶事。喪を払う寿ぎ。それがこの宮家の、ひとつの宿命でもあるのだろうか。

 現行の皇室典範が改正されなければ、紀子妃がお産みになった悠仁親王が、天皇になられる可能性が高い。(編集部注:2020年、秋篠宮殿下は皇位継承順位1位の皇嗣となり、悠仁さまは皇位継承順位2位となられた)ご成婚の当初、「皇統には直接関係しない」あるいは、「弟宮だから」と見られたご一家は、「皇統に関与する宮家」へと、大きく変貌を遂げられたのだった。初めての記者会見で、恥ずかしげに言葉を選んだ乙女は、3人の親王、内親王の母となられた。

【1回目から読む】 “昭和天皇の喪中”、“礼宮は学生で留学中”…「異例中の異例」だった秋篠宮さまと紀子さまの“ご婚約発表”

(石井 妙子/文春文庫)

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