皮膚から侵入した寄生虫が血管を詰まらせる奇病 「日本住血吸虫症」を根絶に導いた医院を探索すると…

皮膚から侵入した寄生虫が血管を詰まらせる奇病 「日本住血吸虫症」を根絶に導いた医院を探索すると…

地方病で現れる症状を紹介したポスター ©あさみん

 かつて日本では、日本住血吸虫という寄生虫が、人の皮膚から体内に侵入することで感染する病気が流行っていた。その病気は日本の中でも、広島の片山地区(現在の福山市の一部)、九州の筑後川沿岸、千葉の利根川流域、山梨の甲府盆地一帯などの、ごく限られた地域にのみ存在していたため、「地方病」と呼ばれていた。

■寄生虫が産みつけた卵で血管が詰まる奇病

 日本住血吸虫は、皮膚から体内に侵入したあと、肝臓につながる血管内に寄生し、毎日数千個の卵を産む。卵が血管を詰まらせることで、さまざまな症状を引き起こす。

 地方病に感染した患者の中には初期症状だけの軽症で治まるものもいた。しかし、感染が重なり慢性になった重症の場合、時間の経過とともに手足がやせ細り、皮膚は黄色く変色、やがて肝硬変から黄疸が出て腹水がたまり、腹部が大きく膨れ、介護なしでは動けなくなり亡くなった。脳に影響が出ると、痙攣や麻痺、失語症などの重篤な脳疾患を引き起こすこともあった。また、成人前のこどもが感染すると、成長がとまってしまうこともあった。

■“甲府盆地に生まれた人間の宿命”と恐れられた

 特に甲府盆地底部一帯は日本国内最大の流行地帯であり、特に稲作農民ばかり発症していたため、稲作農民の生業病、甲府盆地に生まれた人間の宿命とまで言われていた。

 また、ヒトだけでなく牛や馬、犬猫も罹り、重症化すれば治らないことから、流行地へ嫁ぐ娘は死を覚悟しなければならないとされていた。

 400年以上前に書かれた歴史の記録からも、武田信玄の家臣がこの病気にかかっていたとされ、甲府盆地では古くから恐れられていた。

 地方病根絶までには多くの人々の地道な調査・研究がおこなわれ、1881年(明治14年)に住民が地方病の調査依頼を出してから、1996年(平成8年)に終息宣言が出されるまで、115年もの非常に長い年月を要した。

 私は古い建物を見るのが好きで、旅先を選ぶ際「○○市 レトロ」で検索する。

 今回は甲府の街を散策しようと思い、「甲府市 レトロ」で探していると、山梨県内にあるレトロモダンな建物を紹介するサイトで、「杉浦醫院」という場所が見つかった。古い医院が昔と変わらない状態で保存されており、院内も見学できるようだ。

 こんなところがあるなんて知らなかった。雰囲気も良さそうだし、ぜひとも行ってみたい。

■「杉浦醫院」への道

 杉浦医院は山梨県甲府市に隣接する昭和町という場所にある。私の住む名古屋から山梨へは中央自動車道を通って3時間だ。

 まず愛知県から岐阜県へと入る。岐阜県に入って1時間ほど経つと、全長8.6kmの恵那山トンネルが待ち構える。一旦入ると、走っても走ってもなかなか出口が見えないトンネルは、中央自動車道でもっとも背筋が伸びる時間だ。恵那山トンネルを抜けると長野県に入る。

 中央自動車道はカーブと坂の連続で緊張が続き、心身ともに疲弊する。そんな中、道路の向こうに諏訪湖が見えてくると、やっとここまで来たかと安堵する。諏訪湖は高速道路から見下ろす形で全景が見渡せるのが気持ちいい。

 諏訪湖までで2時間半。諏訪湖を過ぎるといよいよ山梨県だ。幾重にも連なる山の向こうに、雪をかぶった、ひときわ大きな山が見えてきた。

 富士山だ。

 見慣れない富士山の発見は、いつでも気分が高揚し、旅情を感じる瞬間だ。

 名古屋から3時間。甲府昭和インターで降りる。

 どの街でも見かけるような、道路の両側に大型店舗が並ぶ広い道を走ること、わずか10分。住宅街の細い路地に入ると、まもなく目的地に到着した。

 杉浦医院は一見病院には見えないような純和風2階建ての古い家屋だ。入り口には「Dr.Sugiura's Office Physician」と書かれた英字看板と、当時のままの表札「杉浦醫院」が並んでいる。

 また、敷地内には、「地方病流行終息の碑」と書かれた大きな石碑がひっそりと立つ。

 私はここに来るまで「地方病」という言葉に、なにも想像がわかなかった。

■代々続く医院が地方病撲滅に尽力した

 ひとまず入ってみようと玄関の扉を開けると、チャイムの音とともに奥から館長が現れた。

 ここへは初めて訪れたことを話すと、地方病について、また杉浦医院について、詳しく丁寧に解説してくださった。

 地方病が流行っていた地域の中でも、杉浦医院のある甲府盆地底部周辺は特に罹患者が多かった。

 杉浦医院の医師、杉浦健造医師と健造の娘婿である三郎医師は、この地で代々続く開業医で、多くの地方病患者の治療に当たり、地方病撲滅に尽力していた。

 杉浦医院は三郎医師が亡くなった1977年(昭和52年)に閉院したが、2010年に昭和町が買い取り、当時と変わらない院内で、杉浦医師父子の業績を顕彰し、地方病終息に至る先人の足跡を伝承している。

 まずは2階の広間でビデオを鑑賞し、地方病について学ぶことになった。

 近代医学の知識がなかった時代の人々にとって、この病気の原因はもちろん、予防法、治療法、そしてなぜ特定の地域にばかり発症者が多発するのか、全てが謎に包まれていた。

 1881年(明治14年)8月27日、この病気の原因解明への端緒となる嘆願書が、病気が蔓延している村から山梨県知事へ提出された。

 その後、多くの人々の地道な調査・研究、献体による解剖、動物を使った実験などで、この病気が日本住血吸虫という寄生虫によって起こることや、日本住血吸虫の生活史と感染経路が明らかになる。

■1996年まで終息しなかった「地方病」

 感染者の糞便とともに排出された日本住血吸虫の卵が水中でふ化し、中間宿主であるミヤイリガイに寄生する。貝中で分裂増殖した後、幼生となるとふたたび水中に泳ぎだし、ヒトなど哺乳類の体内に皮膚を通して侵入することで感染。血管に寄生し、生殖産卵することでさまざまな症状を発症することがわかった。

 さらに、ミヤイリガイの生息地が、地方病の流行地と一致することから、ミヤイリガイの駆除が地方病撲滅に効果的であることが判明した。

 それからミヤイリガイの駆除が官民一体となり、徹底的に行われた。それは地域住民によって米粒大ほどのミヤイリガイを、箸でつまんで集める方法から、土に埋める埋没法、火力による殺貝、生石灰などによる薬剤の散布、用水路のコンクリート化など、ありとあらゆる方法が行われた。

 さらに農耕の機械化、稲作から果樹栽培への産業転換、宅地開発による水田の減少が、新規感染者の減少に拍車をかけた。

 こうした多くの先人たちの努力の結果、1996年(平成8年)「地方病終息宣言」が出され、日本では地方病との戦いは終わった。しかしまだ中国や東南アジアなど海外では、日本住血吸虫による感染が収まらず、予防法や治療法の技術や情報が受け継がれているという。

 壁には予防啓蒙のために配布された多色刷りの冊子や、「回虫寄生の経路及びその障害と予防」と書かれたポスターが貼られ、予防法や初期症状の様子が、イラストとともにわかりやすく解説されていた。

 記された予防法は、野菜は水道水で丁寧に洗うことや、生野菜、一夜漬けの漬物はなるべく食べないこと。

 感染した場合の症状としては、頭痛、嘔吐、壁土や灰を食べてしまう嗜好異常、目眩、発熱、腹痛に加え、成績不良にも及ぶと書かれていた。

■当時の患者が残した痕跡

 1階に降りると、杉浦医院について館長が丁寧に解説してくださった。

 杉浦医院では多いときで1日200人もの地方病患者を診察、治療しており、「杉浦医院に行けば地方病が治る」と言われていたという、圧倒的な存在だった。

 患者の列は建物の外にまで続き、暑い夏はテントが建てられたほど。建物の壁にはよく見ると、落書きのようなものが残されている。これは行列に並んでいた患者のこどもたちが、待ち時間に描いたものだとか。生々しい筆跡を見ると、病気への不安、回復への期待、治療の恐怖を抱えながら待つ人々と、その一方で無邪気に遊ぶこどもの姿が思い浮かぶ。

■クラシックな雰囲気が残る院内

 重厚な扉を開けるとまずは受付がある。窓口には、漢数字が書かれた木札が並び、これは今でいう受付票だ。番号が呼ばれたら診察室に入るシステムである。

 続いて診察室。当時から変わらないそのままの状態で保存されている診察室には、実際に使用されていた顕微鏡や診察記録などが残されている。1日200人もの患者を診ていたのだが、治療は1本注射を打つのみだったため、それだけ多くの患者でも診ることができた。

 診察室の隣には、レントゲン室、手術室。本棚にはたくさんの医学書や学術書、寄生虫学関連の書籍などが並んでおり、治療と研究が並行して行われていたことがわかる。

 調剤室には、実際に使われた薬品や調剤器具が当時のままの状態で並ぶ。中でも注目なのが、地方病の特効薬であるスチブナールの現物だ。

 これを薄めたものを、1日おきに20回以上に渡って静脈注射していたという。

 スチブナールは血管に寄生した日本住血吸虫を発育不足にして、産卵を抑える効果があった。しかし、体中の関節の激しい痛みや嘔吐など、重い副作用もあり、人々を苦しめた。

 また、杉浦医院にはアメリカ軍の軍医が住み込みをしていた歴史も残っている。

 第二次世界大戦後、多くのアメリカ軍は、アジア占領地域で寄生虫による感染症に悩まされていた。終戦を迎えた昭和20年、アメリカ軍は研究者や医療関係者に地方病の勉強をさせるため、杉浦医院に送り込んだ。

 そのため急遽、トイレは洋式に改装され、シャワー室には「西洋人はとにかく背が高いだろう」と、大きく作られた鏡も見ることができる。

 応接室にはシャンデリアが輝き、毛足の長い絨毯が敷かれ、とにかく豪華絢爛だ。特にここに置かれているピアノが大変貴重で、平成の天皇がお生まれになった記念に、限定100台で作られた特別なものだ。そのほとんどは東京周辺で売れたようで、限定100台とはいえ、ほとんどが戦争で焼失してしまったとされており、いま日本には皇居に1台、名古屋のはずれに1台、ここに1台しかないという。

 譜面台には鳳凰と菊の模様がくり抜かれ、白鍵は象牙でできており、脚は鶴をイメージしている。

■原因解明の嘆願から115年の時を経て「終息」が宣言される

 日本では、1978年(昭和53年)に発生した1名の急性日本住血吸虫症の確認を最後に、新たな地方病感染者の発生は確認されなくなった。

 また、ミヤイリガイ自体はまだ生息しているものの、日本住血吸虫に感染している個体は同時期以降発見されなくなった。

 それらの経緯から、1996年(平成8年)、「地方病終息宣言」が行われた。1881年(明治14年)の嘆願から、115年が経過していた。

 なお、山梨県では現在もミヤイリガイの生息調査や監視活動が、万が一の再流行に備え定期的に行われている。

■地方病との闘いの歴史

 こうして長い年月に渡り苦しめられてきた地方病は、多くの医師、研究者によってメカニズムすべてが解明され、世代を超えた多くの犠牲や努力により、日本国内では撲滅された。

 100年以上に及ぶ地方病との闘いの歴史は山梨県の誇りだが、県民でも知らない人は多いと館長は話す。

 現在我々が水を恐れることなく、安心した生活が送れるのは、先人による多大な努力と犠牲があったことを改めて認識するとともに、忘れられることのないよう、後世に語り継いでいかなければならない。
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(あさみん)

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