「私はろう者ですから、許してくれるかも」なぜ、19歳の青年は“狂気の連続殺人犯”になってしまったのか【厳選再公開】

「私はろう者ですから、許してくれるかも」なぜ、19歳の青年は“狂気の連続殺人犯”になってしまったのか【厳選再公開】

現場周辺は綿織物業者が集中する地区だった(「遠州織物発達史」より)

芸妓や家族までメッタ刺し……約80年前に起こった「浜松連続殺人事件」犯人は、意外すぎる人物だった【厳選再公開】 から続く

 1941年、4つの連続殺人が起こった。きっかけはとある一家の「父と子の関係」だった。

 コロナ禍をきっかけに、家庭内暴力が大きな社会問題になっている。家族関係を発端とする事件は、しばしばもとが密な関係であることもあり、いっそう苛烈化しかねない。

 社会が大きく揺れる今だからこそ、その当時の事件から何を学ぶことが出来るのか。ジャーナリスト・小池新の『戦前昭和の猟奇事件』が1冊の本になるのを機に、当該の事件について再公開する。

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< 芸妓や家族までメッタ刺し……約80年前に起こった「浜松連続殺人事件」犯人は、意外すぎる人物だった ?から続く>

 第4事件の現場に残された布片は犯人が覆面に使い、格闘の際、外れ落ちたとみられ、専門家の鑑定でマンガン防染生地と判明。浜松市の「外山織物合名会社」が扱った「遠州織物」で、試験の過程で開発不成功になっていたことが分かった。その際、第3事件の被害者方の三男(30)が、当時家を出て浜松市に住み、同社に勤務していたことが分かり事情を聴いたが、事件との関係性ははっきりしなかった。

■花街には「酒と金と女」が渦巻いていた

 ここで、この事件を振り返ってきて「なぜこんな場所に芸妓置屋が栄えているのか?」と、疑問に思った人もいるだろう。第1事件の現場である貴布祢をはじめ、この近辺に芸妓置屋が多かったのは、日清紡績を筆頭に織物業者が集中し、料亭などが頻繁に会食や宴会などに使われていたから。「貴布祢は日清紡績工場の進出以来、料理屋・待合・芸者屋の営業が許可された一つの小規模な三業地として栄えることになったが、機業(織物業)の会合がこの地を利用していることが分かる。大人の娯楽のいわば中心地であったろう」(浜北市史 通史下巻)。

 そうした花街には「酒と金と女」が渦巻いていたはず。第1、第2事件から武蔵屋事件にさかのぼって、芸妓と客のどろどろした関係に刑事たちの目が集中したのも、ある程度は無理がなかったのかもしれない。地域の特色が表れた事件だったともいえる。

■「自分は犯人ではない。誠策を調べてくれ」

 この段階の捜査に別の立場から動いた人物がいた。静岡県警察史によれば、第4事件の被害者方からは応召兵が出ていたため、浜松憲兵分隊も別途捜査を進めていた。坂下という憲兵伍長が第3事件の被害者方を訪問し、そこで第4事件の遺留品と同じ布片を発見。三男が持ってきたものとの証言を得る。

 11月17日付静岡新聞朝刊によれば、これと前後して、やはり別居している長男から家に「布を調べに来るかもしれないが、知らないと言え」という電話があったことが判明した。9月24、26日の両日、第3事件被害者宅を家宅捜索。同一の布片を発見したため、三男を追及すると、自分で新しい織物を作ってひともうけしようと1937年ごろ、浜松市の工場で試し織したものだったが、外山織物に納入したものの不合格。全部実家にやってしまったということだった。

 やはり実家を出ていた次男(33)を調べると、「自分は犯人ではない。誠策を調べてくれ」と言った。次男の話では、誠策は第4事件の前夜、「友人の家に遊びに行く」と言って自転車で家を出たまま、翌日の午後2時ごろ、左の目をはらして帰ってきた。さらに、第3事件で殺害された四男の妻は、事件があったとき、「ミシン、ミシン」と犯人が2階へ上がったような音がしたと証言。後で調べてみると、音のする場所は2階へ上がる階段だけだったため、家族の間では「誠策が犯人ではないか」と話し合ったという。

■「学資金を稼げば学校へ行けると、あさはかな考えから強盗殺人を企て」

 10月12日、誠策が在学中の浜松聾唖学校を捜査員が訪れ、動静を聞くと、誠策は第3事件の後、同校の友人に「人殺しをやったのは俺だ」と漏らしていたことが発覚。本人を追及し、所持品を提出させようとすると一時抵抗を示したが、そのうえで提出したズック靴の足裏の文様は、第2事件現場の敷布の足跡とぴったり一致した。浜松署に連行されて調べを受けた結果、10月13日、全ての犯行を自供した。誠策は1923年9月生まれで検挙時は19歳になったばかり。武蔵屋事件の時は14歳だった。

 各紙は犯人逮捕についての記事を出しているが、太平洋戦争開戦まで1カ月足らずの時期、事件の重大さに比べて扱いは驚くほど小さい。東朝、大毎、中部日本はいずれも2段。静岡だけは3面ほぼ全面を使ったフル展開だった。記事が抑えられている間にある程度の独自取材はできたものか、記事の内容には微妙に違いがある。その中でも、注目すべきはやはり動機だろう。東朝はこう書いている。

「兄弟7人のうち彼のみが不具であるため、幼少から家庭で冷遇された。成績はよかったが、彼の向学心は極めて強く、さる14年、浜松聾唖学校に入学。一、二番を争う好成績であったが、常に彼の関心は学費にあった。『よし、学費ぐらい自分でなんとかしよう』。恐ろしい事件の動機は全くここにあり……」。中部日本は「自宅で兄を惨殺し、父以下5名を傷つけたのは、一家を亡きものにすれば、自分をかわいがってくれる大阪の次兄が帰ってくるものと思い込んだ結果」とした。静岡は「父は家庭内でものけ者にし、極めて冷酷に扱い、犯人が『中等部へ入学せねばだめだ。学校さえやらせてくれるなら、家のことはどんなことでも素直にやる』と懇願したが、かえって父に廃学を強いられ、その冷酷を恨むのあまり、残忍性を露骨に表し、学資金を稼げば学校へ行けると、あさはかな考えから強盗殺人を企て、恐るべき犯罪を犯したものである外部からの侵入を装って恨みを晴らそうとしたが、父にはけがを負わせただけで、兄を殺してしまった」。

 ここまで書かれた父親は「あは(わ)れ死を以(もっ)て 社會(会)に陳謝」(静岡見出し)と、誠策が検挙された後の11月7日、家を出て天竜川で投身自殺している。

■戦後に冤罪事件を続発させた「拷問王」のルーツともなった

 静岡新聞の11月17日付朝刊には「検挙の喜びを語る」検事正や県警察部長、浜松署長の談話、「変質者の犯行」とする内務省防犯技師の見解なども載っている。その中で目を引くのは「功績抜群の四氏」という記事。事件解決に「功績抜群殊勲甲」の4人が17日に検事総長から異例の表彰をされるというニュースだ。4人の中に写真入りの「犯人を直接検挙した殊勲者、浜松署刑事室・紅林麻雄部長刑事」がいる。これが戦後、物議をかもす事件の立役者だ。

 戦後、静岡県では冤罪事件が続発する。幸浦事件、島田事件、小島事件、二俣事件。その事件捜査全てに関与したのが紅林刑事だという。佐藤友之「冤罪の戦後史」は「拷問王」と呼び、証拠の捏造を繰り返したと非難。その“ルーツ”に浜松連続殺人事件を挙げている。

 同書の元となった雑誌連載記事「冤罪の構造『静岡県警の研究』」第1回(「新評」1979年10月号掲載)にはこんな記述もある。「静岡県には『あいつは犯人に間違いない!』とする捜査官がいた」。浜松連続殺人事件の経緯を見ると、そうした思い込みが解決を遅らせたような気がしてくる。

■「私は聾唖ですから、あるいは許してくれるかもしれません」

 裁判での鑑定は、内村鑑三の長男でプロ野球のコミッショナーも務めた精神医学者、内村祐之・東大教授と吉益脩夫・東大講師(いずれも当時)が当たった。内村は1952年出版の「精神鑑定」で鑑定内容を説明。誠策との実際の問答も紹介している。主要な部分をあげよう。

問 (第1事件の時は)どうするつもりで行ったか?

答 殺すつもりで行きました

問 親切にしてくれた兄さんを殺して、後で悲しいと思わないか

答 悲しいです

問 お父さんを傷つけたときは?

答 父はかわいがってくれなかったから、悲しくありません

問 生まれてから一番うれしかったことは?

答 (依然気難しい表情で考え込む)小学校から百姓するまで何もなかった。17歳で聾唖学へ入って、友達が手まねで話しているのを見てとてもうれしかった

問 殺したことを話すとき、嫌な気持ちはしないか?

答 前にはそれほどに思わなかったが、いま考えると、死んだ人は非常にかわいそうに思われ、拝みたい気持ちです

問 (これだけのことをしたら)普通は死刑になる。おまえもそうなるかもしれない

答 (全く顔色を変えぬ)私は法律というものを知りません。人を殺せば死刑になるということも読んだことがありません。友達が話しているのを聞いたことはあります。まだ殺されては困る

問 もし死刑だと言われてもいいか?

答 (考え込む。依然として表情の変化なし)非常に怖いと思います

問 自分のしたことが死刑に相当すると思わないか?

答 (前と同じく、身動きもせず問い返す)

問 有期懲役が適当か、死刑が適当か?

答 死刑が当然です。しかし、私は聾唖ですから、あるいは許してくれるかもしれません

■「殺して金を取れれば一番うれしい」

問 恩のある親を傷つけることは一番悪いことだろう?

答 それはそうですが、親は子どもをかわいがってくれるのが当たり前なのに、唖(おし)はだめだ、だめだと言いますから、親には恩を感じません。それで殺しました(活発に答える)

問 16歳の時まで人を殺そうと思わなかったのに、人を殺して物を取ろうとしたのはどういうわけか?

答 活動(写真=映画)に行ったり、新聞などを読んで思いつきました

問 西ケ崎(武蔵屋)へ行くどのくらい前から考えだしたか?

答 (しばらく答えぬ)剣劇映画を見て思いついたが、それが何年何月か忘れました

問 16歳の時、強姦するということを知っていたか?

答 映画の影響と思います

問 人が死んだのを見て何と思う?

答 捕まると恥ずかしいから困った。むごたらしさは感じない。騒がれて捕まることが心配でふるえた

問 お金を取ることとうまく殺すこととどちらがうれしいか?

答 殺して金を取れれば一番うれしい

■「聾唖に完全な責任能力を認めることは不適当と信ずる」

 鑑定結果によると、誠策は記憶力に異常はない。普通の日常知識を一応持っている。聾唖学校で首席だったことは知的素質の不良でないことを示す。しかし、彼の知識の大部分は具体的なものに限られるという。

「手話法によって教授する聾唖学校の中等部に入ったため、口話法によるほど完全な教育を受けることはできなかった。相当多数の漢字を読み書きできるようにはなったが、しかし、一般的知識はこれに伴わず、極めて不均衡、不自然な知識を持っているにすぎない。また、思考力についてみても、概念の構成、とりわけ抽象的能力がいちじるしく劣り、従って道徳的観念の構成も非常に幼稚である。このことは、前記の私との問答中によく示されている。あのような考え方は、正常に発育し、正常な教育を受けた成年男子からは決して聞くことができない。しかし、少しく聾唖の精神教育の特異性を考えるならば、これは彼の生来の知的素質が低いためではなく、全く彼の聾唖者としての生活と教育の結果であることが分かるであろう」(「精神鑑定」)

 鑑定では誠策の性格を「著しい偏綺(ひどく風変わりなこと)があった」とした。「犯行後も平然としてほとんど悔悟の色もなく、ただ金円強奪の目的を達しなかったことを遺憾として、さらに次の新しい計画を進めているほどである。また彼は普段から家族に対する親愛の情がなく、一途に利己的に行動していたという。一般に感情の表れが少なく、当然感情が動揺すべき場合にも冷静、水のような態度を示したことは、毎回の鑑定に当たり、私たちも極めて異様に感じたことであった」。

 遺伝的素質を合わせて考えるべきであるとしたうえで、「要するに、彼の精神状態は、生来的性格の方面と聾唖教育の方面とに欠陥がある。これら両者は相まって徳性の欠陥を増長させ、その結果、この稀有な犯罪を構成したと理解される」と判断。「私たちは、彼の場合の聾唖に完全な責任能力を認めることは不適当と信ずる」「心神耗弱を至当とすることを確信を持って答えたい」と鑑定は断じた。

■残念だったことは「生き返ったということを聞いた時でした」

 裁判になってからのこの事件の扱いは明らかに小さい。1944年2月8日付静岡新聞夕刊(このころには、新聞各紙の夕刊は日付け通りになっている)には「殺人犯と喜悲感」という見出しに、2段の記事が載っている。それ以前の公判の記事が見当たらないが、この日が第3回公判。「廊下にまであふれた満員の一般傍聴席の中には、凶刃をあびた芸妓君龍こと川村正子さんをはじめ、魔手に倒れた遺族らの姿も見受けられた。被告は劈頭(冒頭)前回の公判で言い渡した、生い立ちについて申し述べたいと希望し、約30分間にわたり、手まねも鮮やかに不具者としての半生を物語った」。東京聾唖学校教授の「通訳」が入ったようだ。

「次いで裁判長は被告の斉声状況を調べるため、通訳を通じ姓名、父、母、兄姉らを次々に問えば、被告は相当はっきりした発声を示して一同を驚かせた。裁判長『一番うれしかったことは何か』。被告『盲唖(聾唖)学校へ入学した時でした』。裁判長『一番悲しかったことは』。被告『兄を殺した時でした』。裁判長『腹が立ったり残念だったことは』。被告『父を殺したつもりだったのが生き返ったということを聞いた時でした』」。はたして、どれほど「はっきりした発声」だったのか。公判ではその後、内村教授らの精神鑑定と耳鼻科医の鑑定が読み上げられた。

■精神鑑定が全く考慮されることなく下された「死刑判決」

 2月9日付同紙朝刊は午後の公判での求刑を報じている。「井上検事は『被告を常人と看做(みな)し、特に尊属親殺害はわが国忠孝の本義に悖(もと)る(正義に反する)』と論告。死刑を求刑した」。判決は同年2月23日。24日付静岡新聞朝刊はベタ(1段)記事。「13時30分、浜松支部に開廷され、沢村裁判長は不具者とは認めがたしと、求刑通り死刑の判決を下したが、被告は直ちに上告の手続きをとった」と短く伝えている。

 最大のポイントだった被告の刑事責任能力の判断は「精神鑑定」に内容が載っている。「(鑑定結果は)心神耗弱者と信ずとの記述のみにては直ちに被告人を法律上の心神耗弱者なりと認むべき資料にならず」「被告人の左耳はある程度の聴力を保有し、またその発音機能も簡単なる単語を発声し得るのみならず、本件犯行当時並びに現在において、被告人は相当の知識を習得し、記憶力よく、事物に対する具体的判断力十分なることをうかがい得べく、かかる知能の発達は主として被告人の有する聴力及び発声機能の仲介に基づくものと言うべく、この点において、被告人の有する能力並びに発音機能の障害は、いまだこれをもって法律上の聾唖の程度に達せず、従って、被告人をもって聾唖者と断ずることを得ず、すなわち、弁護人の主張はいずれも採用し難し」。

 精神鑑定の全面否定どころか、これでは鑑定の意味がないといえるだろう。「精神鑑定」は判決をこう批判している。「これはあるいは戦時の影響もあってのことかと推測するが、しかし、理論上から、われわれはこの判決に大きな疑問を抱かざるを得ない」。さらにこの判決にはまだ指摘するべき点がある。

 当時の刑法40条は「?唖(いんあ=聾唖)者の行為はこれを罰せず、またはその刑を減軽す」とし、刑の減免の対象だった(1995年削除)が、判決はその適用も明確に否定した。しかし、よく考えれば、この法的行為は、戦時体制下とはいえ、個人の権利を保護する近代国家の姿から懸け離れている。そうした不公正な国が戦争に勝てないのは自明の理だろう。

 それから事件は急速に忘れられていったようだ。同年6月19日、上告棄却、死刑確定。東朝は「唖の殺人犯に死刑」、東京支局発の静岡新聞は「殺人犯死刑確定」の見出しでいずれもベタだった。既にサイパン陥落、東条内閣総辞職が翌月に迫り、日一日と敗色が濃くなっていく。殺人以上に深刻な戦争の恐怖が地域を覆っていた。静岡県警察史は「同(1944)年7月24日、21歳を最期に刑場の露と消えた」と書いているが、地元静岡新聞にも記事は見られない。

【参考文献】
▽「静岡県警察史」 静岡県警察本部 1979年
▽「浜北市史 通史下巻」 浜北市 1994年
▽佐藤友之「冤罪の戦後史」 図書出版社 1981年
▽内村祐之「精神鑑定」 創元社 1952年

(小池 新)

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