もはや「生存できず」…半世紀にわたって暴力団を見続けた男が語る“すべてのヤクザ”に突き付けられた“厳しい現実”

もはや「生存できず」…半世紀にわたって暴力団を見続けた男が語る“すべてのヤクザ”に突き付けられた“厳しい現実”

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山口組からの「要求」を断った作家を襲った“惨劇” 腎臓すれすれ“ドス襲撃事件”の一部始終 から続く

 暴対法によって、社会から徹底的に排除される存在になったヤクザたち。警察庁の調べによると、暴力団構成員数は年々減少の一途をたどっており、令和2年には準構成員と合わせた人数が2万5900人と過去最低の数字を記録している。

 ここでは、そんなヤクザたちを半世紀にわたって取材し続けてきたノンフィクション作家溝口敦氏がこれまでの修羅場を振り返った著書『 喰うか喰われるか 』(講談社)の一部を抜粋。同氏が考えるヤクザのこれからについて紹介する。(全2回の2回目/ 前編 を読む)

◆◆◆

■井上邦雄が最後の勝負に出た

 神戸山口組が各方面に送る「御挨拶」文も発表されたが、それにはおおよそ次のようなことが書かれていた。

〈司組長がやっていることは自分さえよければ、直系組長たちがどうなろうと知ったことかという「利己主義」である。彼が「古きを尋ねて新しきを知る」といって、かつての組長の墓参りをしたり、その未亡人を訪ねたりしたところで、田岡、竹中という親分たちを大事にすることにはならない。ほんとに大事にしたいのなら、先輩達に学び、自分の生活を質素に律することだ。組の上に乗って贅沢三昧するのは大間違いだ〉

 神戸山口組に「民主化」の風が吹いていると察せられた。

 では、神戸山口組の分派・独立はいつだれが言い出したのか。最初の計画者と首謀者はやはり神戸山口組組長の井上邦雄(当時は山健組の組長を兼任)と断じていいと思う。

 井上邦雄は衆目の一致するところ優柔不断だった。山口組の山清司若頭も早い時期から井上が優柔不断だと見抜いていた。井上に傑出したところがないことは、私の息子を刺し、損害賠償金を支払うハメになったことでもわかる。

 井上邦雄はこれまでに数回も「男になれるチャンス」に出くわしながら、一度として腹を括った行動に出られなかった。相手に逆襲できず、ついに「男」になれなかったのだ。

 五代目組長渡辺芳則が司―山ラインにクーデターを仕掛けられ、それを阻止できなかったとき(05年7月)。

 あるいは配下の多三郎一家・後藤一男総長が弘道会批判をやめず、山若頭からそれを注意されたとき、胸にしまって握りつぶそうとせず、自派の手で後藤総長を刺殺しなければならなかったとき(07年5月)。

 後藤忠政後藤組組長がゴルフコンペを開催した件で除籍になったことにからみ、山口組直系組長13人が激しく執行部を批判する連判状を作成した際、冒頭の井上邦雄の名を抹消して連判状から脱落したとき(08年10月)。

 など、井上組長が採った行動はすべて御身大事のその場しのぎの保身であり、司―山ラインへの服従だった。いずれも抗議の声一つ上げずに弘道会に押し切られた。

 そういう強い者に巻かれるだけの井上が、なぜ神戸山口組の発足時にかぎり、司―山ラインに叛旗を翻し、分派できたか。

 考えれば不思議な話だが、おそらく井上は六代目山口組にいるかぎり、自分の将来はないと思い知ったからだろう。

 直接的には13年10月、それまでの山口組総本部長・入江禎が舎弟頭に追いやられたとき、井上も司―山ラインから若頭補佐を返上して舎弟に直らないか、打診されている。このとき同時に山健組の幹部である健國会・山本國春(神戸市)、姫野組・姫野竜志(大阪市西区)、健竜会・中田広志(神戸市)の3人についても、山口組の直参にならないか、打診があったという。

 いうまでもなく司―山ラインによる山健組の分断化、若手直系組長の増加を狙った提案である。

 だが、井上邦雄以下山健組の4人は誘いを断り、現状維持を選んだと伝えられる。

 井上はこれで悟ったにちがいない。このまま自分が司―山ラインによる切り崩し策を受忍しても、やがて自分は引退を迫られ、山健組は司―山ラインのために解体・吸収されるばかりだ……と。もはや座して待つことは許されない。男なら立ち上がり、乾坤一擲、分派を立て叛旗を翻すしかない、と。

 しかし、井上の過去に問題があったとしても、ついに改革の旗を掲げ、神戸山口組として独立したことを評価したいと私は思った。

 少なくとも会費などの面で神戸山口組は六代目山口組に比べ改良されたのだ。私は性格的に判官贔屓で、情勢の検討抜きに弱い者に味方しがちである。そのことは自覚している。そのためいままで勝ち馬に乗れたことがない。乗りたいとも思わない。

 このときもそうで、下の人間を収奪して上の人間だけが栄える六代目山口組より神戸山口組のほうが上だ、応援しがいがあると考えていた。

■山口組の断末魔を見ているのではないか

 当時は、毛利本部長に電話一本掛けることで取材が可能だった。何度目かの電話取材の後、毛利本部長が、正木年男総本部長が溝口さんに会ってもいいと言っている、と伝えてくれた。そういうことなら、正木総本部長にインタビューしたい、申し込みます、とお願いした。

 2015年9月19日の午後、私は一人で神戸市兵庫区の中央卸売市場に出かけ、近くの寿司屋で総本部長・正木年男、若頭補佐・剣政和を取材した。六代目山口組で「幹部」の役職にあった人たちである。

 両氏の話は、かつて山口組の本部に詰めていた者が司忍組長や山清司若頭を名指しで批判し、エピソードを披露する。面白くないはずがなかった。

 当時、私は山口組の断末魔を見ているのではないかという気がした。多少、断続はあるものの、私はほぼ50年間、山口組を見続けてきた。こうなったらついでのことに山口組の最期を見届けてやろうとさえ思った。

 正木総本部長はヤクザには珍しくペダンチックで、豊かな常識を持っている。しかし、かなりのおしゃべりで言葉は軽く、向き合う者に、この人の話を信じて大丈夫かなと思わせる。

 剣若頭補佐は口数少ないが、ときどき突拍子もないことを言い出す。たとえば、井上邦雄組長は質素な性格で、マスクを洗って再使用する(もちろん新型コロナウイルスが蔓延する前の話)、服はユニクロで買う、などである。話を面白く盛るクセがあるのか。私はこの剣若頭補佐から「男を感じさせる」と持ち上げられたことがある。

 神戸山口組の取材を進めるうち、私は組長の井上邦雄に会ってもいいなと思いはじめた。たしかに息子を刺され、裁判になったが、それで敵同士になることもなかろう。済んだ話なのだ。私はいままで一度も井上に会ったことがない。山健組の幹部には何人も会っていながら、不思議に井上とは未接触なのだ。裁判闘争の過程でも会わなかった。

■織田の雄弁

 しかし、そんな能天気な私の希望とは関係なく、2016年7月ごろ、正木年男から電話があった。

 当時、六代目山口組と神戸山口組との間に和解話が持ち上がっていた。話し合いは6代目側が若頭補佐の一人、高木康男・清水一家総長、神戸側が織田絆誠・若頭代行である。

 両者は和解の落としどころを探ったと伝えられたが、六代目側の幹部・野永次(三代目織田組組長、組織委員長)が前に登場した「週刊SPA!」(編集部注:六代目山口組幹部が「週刊SPA!」の記事「『ヤクザジャーナリズムの功罪』」にコメントを寄せるかたちで、筆者の裁判に関する口出しをしてきたことがあった)を使って、話し合いの模様をねじ曲げ、神戸側を貶める内容に改変して公表した。

 正木はこれに我慢できず、私に電話した。

「織田を出すので、和解交渉の実態がどうだったか、話を聞いてもらえないか。六代目山口組の野永次は事実を逆に伝えて世間を誤解させようとしている。やることが汚すぎる」

 と、正木は言った。

 正木の言い分をもっともと思った。私が井上邦雄からカネを取ったせいで、神戸山口組側に肩入れしていると貶める同じ記事のなかで、神戸山口組を叩いているのだ。

 そうでなくとも、織田には以前から会いたいと思っていた。織田は神戸山口組が創立された直後から、若頭補佐の一人として六代目山口組に対する示威行動、威嚇行動を全国で展開していた。地方、地方の会合の後に組員を引き連れ、六代目山口組系の組事務所の前を行進、堂々と防犯カメラにも顔をさらし、「ほら見ろ、我々が本物だ。事務所の奴らは出てこられないじゃないか」と現場の士気を盛り上げていた。

 彼のおかげで神戸山口組はそのころ、六代目山口組など問題にもしないほど意気高く、組員増の面でも勝っていたと思う。

 7月12日、神戸市海岸通りの喫茶店で織田をインタビューした。織田と言葉を交わすのはこのときがはじめてだった。

 織田を取り巻くように正木年男、若頭補佐の剣政和が同席していた。

 私はこのとき織田の振るう雄弁に驚いた。理路整然とした話しぶりと、熱の籠もった生真面目な態度。織田の言葉は活字に起こしても、そのまま文章になるほど、しっかりした構造を持っている。

 活字にする前、記事に目を通してもらわなければならないとして、私は最後、織田から携帯電話の番号を聞いた。

 織田をインタビューした後、「週刊現代」(16年8月20・27日合併号)に〈神戸山口組「戦闘隊長」織田絆誠・若頭代行がついに実名で語る「六代目vs.神戸 分裂の真相とこれから起きること」〉を見開き4ページのスペースで書き、公表した。

 その後も神戸山口組は順調に推移しているようだった。六代目山口組は執れる手が限られ、しきりにデマを流し、神戸山口組の足を引っ張ることぐらいしかできなかった。

■解は「もはや生存できず」なのか

 翌2017年4月、織田が神戸山口組を出て新組織を立ち上げるという噂が流れた。

 織田は井上の股肱の臣だったはずではないのか。よせばいいのに、と私は思いながら、織田の携帯を鳴らした。織田はすぐ出て、噂は間違いじゃないですと答えた。彼とインタビューの約束を取りつけた。

 4月30日、織田は神戸山口組を離れて「任侠団体山口組」(その後「任侠山口組」と改称し、現在は「絆會」と名乗る)を新結成し、その代表に就いた。

 兵庫県尼崎市で幹部や直参たちが結成式を開いている最中、織田は他のメディアとは異なる特別待遇を私に許した。私は新大阪駅近くのホテルの一室で織田と向かい合い、なぜ新組織結成に踏み出したのか、単独インタビューした。私は織田の言葉に得心がいき、大義名分は神戸山口組から任侠山口組に移ったと感じた。織田からすれば神戸山口組もいまや六代目山口組と同様、旧態依然とした遺構でしかないのだ。

 結局は井上邦雄の言動が改まらなかった。六代目山口組の弘道会方式を批判して立ち上がった神戸山口組だったが、六代目山口組の旧弊である、

(1)金銭の吸い上げ
(2)当代の出身団体の贔屓 
(3)当代が配下の寄せる進言・諫言をいっさい聞かない

 をそっくりそのまま、井上は神戸山口組で繰り返した。

 井上邦雄が大将の器でないことはたしかだが、それでも膝下にしっかり織田絆誠を抱えていれば、神戸山口組に将来は開かれていたはずだ。織田の離脱は井上にとって取り返しのつかない失敗だった。これにより神戸山口組はスピード感を失った。

 井上は理想や目的を組員の前に掲げられず、いまや山健組を託した中田広志にも背かれ、「一人になっても神戸山口組は解散しない」と息巻いているという。すでに終末は読めよう。

 神戸山口組を離れ、現在の絆會を立ち上げた織田絆誠にとっても、将来は微笑んでくれてはいない。彼が掲げた命題、「少しでも社会の役に立ち、社会に認められるヤクザ像」はいまだ解明されない難問であり続けている。

 ヤクザは何で飯を食ったらいいのか、警察はヤクザが営む正業さえ、暴力団の資金源になるとして阻止している。覚醒剤や恐喝、賭博などヤクザの伝統的資金源はことごとく禁止され、ヤクザは組を離脱しても5年間はヤクザ並みに扱われ、新規に銀行口座をつくることさえ許されない。

 こうしたなかで、どうして男を売るヤクザになれるのか。警察から「反社会的勢力」といわれないための方法として、ヤクザをやめる以外にどんなやり方があるのか。

 織田は任侠団体山口組を結成して以来、一度として方針を曲げたことがない。「君子に二言なし」を地で実践している。その点は「大衆的組織」の指導者として尊敬に値するが、しかし、掲げた命題の解が自己否定を余儀なくするほど難しい。出口のない迷路に陥る。

 織田は山口組の歴史のなかではじめて大目標を掲げたリーダーだが、それでもヤクザの今後の生き残り策を見出せずにいる。もはや「生存できず」が山口組に限らず、全ヤクザに突きつけられた解かもしれない。

【前編を読む】山口組からの「要求」を断った作家を襲った“惨劇” 腎臓すれすれ“ドス襲撃事件”の一部始終

(溝口 敦)

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