「娘をよろしくお願いします!」と叫び、妻は濁流に飲み込まれた…“11年前の豪雨災害”が奪った日常

「娘をよろしくお願いします!」と叫び、妻は濁流に飲み込まれた…“11年前の豪雨災害”が奪った日常

豪雨に襲われた翌日、増水し濁流となっていた可児川(2010年7月16日撮影) ©時事通信社

 梅雨から夏の終わり頃にかけて、毎年のように繰り返される豪雨災害。2015年には鬼怒川が決壊した東日本豪雨、2018年には200人以上が犠牲となった西日本豪雨が発生した。昨年の熊本豪雨も記憶に新しい。

 今月初旬には、梅雨前線に伴う大雨により、静岡県を中心に大きな被害が出た。熱海市で発生した土石流の衝撃的な映像は、土砂災害の恐ろしさをまざまざと見せつけた。

 このように被害が多発している状況では、過去の豪雨災害の記憶が徐々に薄れていってしまうことも、ある意味では仕方ないことなのかもしれない。だが、改めて過去の記憶と向き合うことで、今を生きる私たちが得られるものがきっとあるはずだ。

■11年前、岐阜県美濃地方を豪雨が襲った

 2010年7月15日、岐阜県美濃地方を豪雨が襲った。その日、私が暮らしている岐阜市でも夕方から雨脚が強まり、これはひどい夕立だなと思っていた。しかし、夜になっても雨は弱まることなく、降り続いた。その影響で、市内各地で道路が冠水したものの、幸いにも大きな被害は発生しなかった。

 一方その頃、30キロほど東に離れた東濃地方は、とんでもない事態に陥っていた。可児市を流れる可児川が氾濫、八百津町では崩れた土砂が家屋を直撃するなど、複数の死傷者が発生していたのだ。

 午後8時前、名鉄可児川駅の近くは帰宅時間帯と重なり、送迎の車で賑わっていた。そんな時、大雨によって駅近くのアンダーパスが冠水し、多数の車が立ち往生を余儀なくされてしまった。そこへ、可児川から溢れた濁流が、一気に押し寄せたのだ。迷う間もなく、次々と人も車も流されていった。

■「娘をよろしくお願いします!」

 必死に電柱に掴まるなどして難を逃れた人も多かったが、3名の方が流されてしまった。そのうちのひとり細田由里さんは、娘を駅まで迎えに行き、家に帰る途中だった。アンダーパスで立ち往生しているところへ、濁流が押し寄せた。

 娘は何とか車から脱出し、近くのフェンスにしがみついた。だが、車から出られなかった由里さんは、娘の隣で同じようにフェンスに掴まっていた男性に「娘をよろしくお願いします!」と大声で叫び、車ごと濁流に飲まれてしまった。

■大型トラックが折り重なり、乗用車は田んぼに……

 それから2晩が明けた7月17日の早朝、私は現場を訪れた。アンダーパスには、近くの駐車場から流されてきた複数の大型トラックが折り重なっていた。重量のある大型トラックが20台以上流されたというのだから、水の勢いがうかがい知れる。

 道路上から流されたであろう乗用車が、近くの田んぼに落ちていた。パッと見ただけで5、6台はあるだろうか。濁流は田んぼを経て、再び可児川へと戻っていった。

 その後、由里さんの車は可児川で見つかったが、由里さんを含めお二人の方が今もなお、見つかっていない。

 駅へ家族を迎えに行くというありふれた日常。可児川は、平常時の水の流れは少なく、氾濫して一気に濁流が押し寄せてくることなど、想像するのも難しかった。しかし、想像を超える自然の猛威は、日常を一瞬にして奪い去った。あまりにも残酷で、いつ自分の身に降りかかってもおかしくない惨事だけに、このときのことは私の胸にずっと残り続けていた。

■行方不明者の捜索活動は続いている

 それから7年近くが過ぎた2017年6月、私は偶然開いたSNSで、行方不明者のご家族とボランティアの方が今も捜索活動を続けていることを知った。私はたまらず、参加を申し出た。

 当日、河川敷に集まったのは10名ほど。その中には、行方不明となっている細田由里さんの夫・細田昭彦さんの姿もあった。

 昭彦さんから、当時のお話を聞いた。あの日の19時54分、由里さんから電話がかかってきたという。水があふれてきた、流されちゃう。その声だけが聞こえて、電話は切れてしまった。昭彦さんも急いで現地に駆けつけたが、由里さんは見つからなかった。

「まさか、ここまで見つからないなんて、あの時は思いもしなかった。今でも警察署から着信があると『見つかったのか』と思って、ドキッとする」

■30キロ離れた木曽川でバンパーが見つかった

 “可児川豪雨災害行方不明者の手がかりを探す会”の参加を呼びかけているのは、可児市議の山根一男さんだ。災害翌月の2010年8月、何か家族の支援ができないかと有志で集まったのがきっかけだった。

 同月末、消防や警察による捜索活動が打ち切りになると、自分たちだけでも探し続けようということで、9月初旬から河川に出て活動をはじめた。当初は100人ほどの人が集まり、毎週のように河川周辺の捜索活動を行っていたが、参加者は次第に少なくなり、現在は月に1回、数人程度で活動している。

 時間が経てば経つほど、手がかりを見つけることは難しくなる。大雨が降る毎に土砂が堆積し、川の地形が変わるため、大量の土砂をスコップで掘り下げて、手がかりを探すしかない。気が遠くなるような作業だが、そうした作業を続けている間にも、また新たな土砂は堆積してゆく。

 また、災害地点から2キロほど下流で可児川は木曽川へと合流している。由里さんの車は、アンダーパスから近い可児川で発見されたが、バンパーは現場から30キロも離れた岐阜県笠松町の木曽川で発見された。木曽川の下流域まで含めるとなると、捜索範囲は70キロに及ぶ。

■「少しでもいいから、骨壺に入れてやりたい」

 この日は数時間ほど活動を行ったが、結局、何の手がかりも得られなかった。この会自体も、2010年秋に由里さんのパスケースを見つけて以来、新たな手がかりは見つけられていない。しかし、それでも捜索活動を続けているのには、理由がある。

 災害から2年が過ぎた2012年8月、行方不明のまま由里さんの葬儀が執り行われた。しかし、骨壺には、今もお骨が入っていない。昭彦さんは「少しでもいいから、骨壺に入れてやりたい。いつか向こうに行ったら、どこにおったの?と聞きたい」と話す。

 また、今も冷たい川の底にいるのかと思うと、早くそこから出してあげたいと願うのは、人間の自然な心情だろう。これまで、多くの人が捜索に携わってきた。消防の方が活動に参加したり、ダイバーに依頼して水中を探したこともあった。

 呼びかけ人の山根さんは言う。「可能性が低いことは分かっている。でも、ゼロじゃない。我々が諦めた時、可能性はゼロになる。体が動く限り、細田さんの意思に沿って活動を続けていきたい」

■今年で被害から11年目を迎える現場では……

 今年の7月15日で被害から丸11年となり、現場の近くでは式典も行われた。だが、可児川豪雨災害は、地元でさえ人々の記憶から薄れつつある。

 悲しい出来事は早く忘れたい。そう思う人もいるだろう。しかし、悲劇を繰り返さないためには、過去の惨禍を教訓として活かし、災害時の人的被害を可能な限り減らすことが何よりも大切だ。それこそが、当事者にならなかった人々の使命ではないかとも思う。

 豪雨災害は、日本全国、いつどこで発生してもおかしくない。毎年のように頻発し、もはや他人事ではなくなった。豪雨に限らず、地震など様々な災害もある。自然災害は、必ずまたやって来る。

 自分や、自分の大切な人に危険が迫った時、速やかに命を守る行動ができるだろうか。過去の出来事を忘れてさえいなければ、迷うことはないはずだ。

 私は、可児川豪雨災害を忘れない。引き続き、手がかりを探す会にも、時おり参加し続けていきたいと思っている。

(鹿取 茂雄)

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