「神風をよぶために十死零生の特攻が考えだされ、作戦命令として強制化…」 半藤一利が語る、やりきれない“狂気”の時代

「神風をよぶために十死零生の特攻が考えだされ、作戦命令として強制化…」 半藤一利が語る、やりきれない“狂気”の時代

2015年8月 ©?文藝春秋

《戦後76年》「タマオト放送?まあ、エッチな人」なんていわれても… 半藤一利が記憶から消し去ることのできない、3つの“歴史的日付” から続く

 今年1月、90歳で亡くなられた半藤一利さんは、昭和史研究の第一人者として、『 日本のいちばん長い日 』や『 ノモンハンの夏 』などの著作を残しました。「歴史探偵」として、昭和史や太平洋戦争など、今につながる歴史について教えてくれた半藤さん。遺作となった『 歴史探偵 忘れ残りの記 』より、一部を紹介します。(全2回の2回目。 前編 を読む)

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■神風いろいろ

 さきごろ大岡昇平『レイテ戦記』を再読する機会があった。大岡さんはこの大冊のなかで、神風特別攻撃隊の体当り攻撃にたいしてほとんど手放しで讃美の切ない心情を吐露し、自己の死を賭した特攻隊員の意識と行動に最高の道義を認めている。それは全篇にみなぎる国家体制や、なかんずく軍部にたいする仮借なき批判の筆とは、あまりにもそぐわないほどの烈(はげ)しい感情の移入であり、心の傾斜であることに驚かされた。

 そのことについてはほかに書いたから略するとして、それを契機としてわたくしには「神風」にまつわるもろもろのことが想いだされて来て、ついでにこの風について歴史探偵を自称するものとしてちょっと調べてみたくなった。ここにはそれについて書く。

 神風となれば、昭和一ケタ生まれ以上にはただちに元寇(げんこう)を想起する人も多いであろう。

■蒙古襲来での神風

 文永の役(文永11年、1274)で侵攻ならずに引き揚げたモンゴル軍は、弘安4年(1281)ふたたび来攻した。実に1000隻からなる大艦隊に5万の兵、さらに3500の船に必要な糧食や兵馬と兵10万をつみ、これらが合体した軍勢は7月初めに壱岐の沖に集結、九州博多湾に向かって来たのである。

 日本軍(武士団)は上陸軍を海岸線に迎え撃ち、果敢に応戦した。戦いぶりはアッパレそのもので、上陸を許さなかった。流血を6週間余もつづけたのち、やむなく戦法を変えようとモンゴル軍は艦隊を一つに結集させた。船を互いに鎖と板でつなぎ、離れないようにするのを忘れなかった。そこに大風が襲ったのである。

 この記事は、日本史、元史や、マルコ=ポーロの旅行記にもあって、否定できない事実になっている。新暦に直せば8月下旬にもなろうから、季節のみから考えてもこの大風は台風によるものと思われる。

 実戦記録『八幡愚童記(はちまんぐどうき) 』にはこう記されている。

「去七月晦日の夜半より乾(いぬい)の風おびただしく吹きいでて、閏(うるう)七月朔日は賊船ことごとく漂蕩して海に沈みぬ」

 投錨した船は大風に直撃され、互いにぶつかり合い、岩に激突、綱を切り帆柱を折った。転覆した船の残骸はあまりに数多かったため、翌朝はバラバラになった船体、外板、折れた柱の上を歩いて何百メートルもの沖まで行くことができたという。沈んだ船4000、溺れ死んだもの13万人。

 この風は、記録にあるように、博多湾の乾風つまり北西風であった。今日の気象学的にいえば、九州南部から近畿地方へと進んだ台風の目、の外側の風であろうと推測されている。裏書きするように、この風はのちに京都も襲っており、「終夜風雨はなはだし」と当時の記録が残っている。

 ついでに書くと、北陸一帯から新潟へかけて真宗(しんしゅう)王国をつくったのには台風と関係があるような気がしてならない。太平洋から近畿に上陸した台風は、いまでも北上して北陸を襲い、進路を北東に変じて新潟から津軽へ走っていくことが多い。屋根に瓦がのる前の、軽い板葺きの家に住む民衆は枕を高くして眠れなかった。法然(ほうねん)から親鸞(しんらん)へとつたわった他力本願の教えは、台風で屋根をふっとばされ、諸行無常(しょぎょうむじょう)を感じた民衆の心をたしかにとらえたのである。人びとの避難所となった真宗の寺がやたらに大きく重い屋根をのっけているのは、そのためではあるまいか。

 それはともかく、元寇の「神風」であるが、当時はそうよんで大喜びしたわけではなかったようである。なるほど、日本国にたいする神のご加護とする考えはあったらしいが、「神風」とよぶいい方はなかった。直後の閏7月17日の後宇多(ごうだ)天皇の宣旨(せんじ) には、

「今月朔日暴風上波、是則神鑒之応護也、賊船定漂没歟……」

 と、風を「暴風」ととらえている。南北朝時代の北畠親房(きたばたけちかふさ)『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』も、「大風」としているだけ。万世一系の皇統の正しさを訴えたこの書にして然しかりとなると、いつからこの暴風が「神風」と変じたのか、興味ある主題といえる。

■イツキノミヤの神風

 ところで、日本史上に重要な役割をはたしている風、それもはっきりと「神風」と書かれている風がほかにもう一つあった。『万葉集』巻2・199の柿本人麻呂の長歌で、それには、

「……行く鳥の あらそふ間(はし)に 渡会(わたらい)の 斎(いつき)の宮ゆ 神風に い吹きまどはし 天雲(あまくも)を 日の目も見せず 常(とこ)やみに 覆ひたまひて……」

 とある。弘文(こうぶん)天皇(大友皇子)と大海人皇子(おおあまのおうじ、天武天皇)との間で戦われた壬申(じんしん)の乱の際の、高市皇子(たけちのおうじ)の武勇を人麻呂がほめたたえているところである。大海人皇子は戦略上から伊勢の桑名より美濃に入って東国の軍勢を集め、高市皇子を総指揮官にする。高市皇子は全軍を率い、不破(ふわ)の関で近江より進攻して来る弘文天皇軍を迎え撃つ。このときの戦闘を人麻呂が高らかに歌いあげているわけなのであるが、この長歌によって明らかに戦場には烈しい風が吹いていることがわかる。

 その風は、イツキノミヤの神風。ということは伊勢から来る神助の風であるから、多分に南々東の大風であったにちがいない。しかも厚い雲が全天を蔽(おお)って真っ暗になっている天候である。そして季節は7月である。これはもうちょっとした低気圧の移動などではなく、明らかにこれまた台風であり、近畿地方を南北に横断して日本海へぬけていったものとみたい。

 とすれば、これは高市皇子の軍にとっては追風となる。当時の戦いは主要武器が弓矢であるから、追手の風なら射るにも火を放つにも断然有利。また剣をぶつけ合う接近戦となっても、烈風を背にすることは風に向かって進むより数倍も有利に軍を展開できる。

 壬申の乱における大海人皇子の勝利は、不破の関での勝ち戦さによって決した。勝因は伊勢の方より吹いて来た台風を自分の味方にしたことによる。まさに神風であったのである。それを証するかのように、もともとは日の神を祀(まつ)る一地方の神であった伊勢神宮は、壬申の乱からのち、突然に天皇家の祖霊をおまつりする聖地へと昇格していった。

 そしてやがては、『万葉集』の、たとえば巻2・162の持統(じとう)天皇の長歌の一部に、

「……神風の 伊勢の国は 沖つ藻も 靡(な)みたる波に 塩気のみ 香(かお)れる国に……」

 とあるように(ほかにもあるが)、明らかに伊勢という地名にたいする枕ことばとして用いられるようになっていった。

 と書いてきて、ここから勝手な想像をさらにふくらませれば、元寇のころには「神風」は、実は上のような伊勢の枕ことばでしかなかったのである。せいぜい広げても伊勢の方から吹く風であったのではあるまいか。であるから、皇室の祖神「天照大御神(あまてらすおおみかみ)の吹かせ給う風」などという言葉はだれもが思いつかなかった。

■吹く風に罪はない

 しかし、のちの人がよくよく調べたら、この国難に際して朝廷が伊勢の大神に必勝を勅願し、また勝利のあとに神恩を謝し内宮(ないくう)の摂社風神社(ふうじんのやしろ)を別宮風日祈宮(べつぐうかざひのみのみや)に昇格させている、という事実を知った。こうなると伊勢の神風は枕ことばを離れて、がぜん重要な意味をもつようになった。そこからさらなる作意が始まるのである。

 あとは端折(はしょ)る。その結果、昭和の日本は神国となり、太平洋戦争末期には元寇の神風がさかんにもちだされた。B29の空襲下で「最後にはかならず神風が吹く」と信じられ、その神風をよぶために十死零生の特攻が考えだされ、作戦命令として強制化されていく。何ともやりきれぬ狂気の時代。そして戦後は「神風タクシー」とカリカチュアされ、さげすまれたこともまだ記憶に新しい。いったい日本人の精神構造はどうなっているのか。少なくとも吹く風に罪はないのであるが。

(半藤 一利/文春新書)

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