《戦後76年》「タマオト放送?まあ、エッチな人」なんていわれても… 半藤一利が記憶から消し去ることのできない、3つの“歴史的日付”

《戦後76年》「タマオト放送?まあ、エッチな人」なんていわれても… 半藤一利が記憶から消し去ることのできない、3つの“歴史的日付”

半藤一利さん ©?文藝春秋

 今年1月、90歳で亡くなられた半藤一利さんは、昭和史研究の第一人者として、『 日本のいちばん長い日 』や『 ノモンハンの夏 』などの著作を残しました。「歴史探偵」として、昭和史や太平洋戦争など、今につながる歴史について教えてくれた半藤さん。遺作となった『 歴史探偵 忘れ残りの記 』より、一部を紹介します。(全2回の1回目。 後編 を読む)

■国民義勇戦闘隊のこと

 8月は遠い敗戦を思う月である、とは亡き大岡昇平氏の言葉である。6日の広島、9日の長崎、そして満洲へのソ連侵攻、15日の天皇放送と、あの惨めであった日々を、老骨は思い起こさずにはいられない。「そんな昔話、いい加減にしなよ」「タマオト放送? まあ、エッチな人……」なんていわれても、昭和20年8月の、この3つの歴史的日付は死ぬまで消し去るわけにはいかない。

 何度も書いてきたが、毎年8月がくると終戦の詔書のなかの「戦陣ニ死シ職域ニ殉(ジュン)ジ非命ニ斃(タオ)レタル者及其(ソ)ノ遺族ニ想ヲ致(イタ)セバ五内(ゴダイ)為ニ裂ク」をぶつぶつ経文のようにとなえて起きるのを、毎朝のしきたりとしている。

 終戦の当時、わたくしは15歳、中学3年生。でも、国民義勇戦闘隊の一員として、米軍が本土上陸作戦を敢行してきたときには、爆薬をかかえて戦車に体当りすることになっていた。そのための訓練を何度かさせられた。

 当時の新聞にこうある。

「沖縄の戦闘は陸海軍将兵の鬼神(きじん)をも哭(な)かしめる勇戦敢闘にも拘(かかわ)らず、趨勢(すうせい)は我に不利にして、敵米軍はいよいよ本土上陸の野望を逞(たくま)しうしている。政府はこの戦局の重要性並(ならび)に沖縄本島における戦闘の体験に鑑(かんが)み、国民の戦闘組織を確立して、皇土(こうど)防衛の万全を期するため(後略)」

 そして6月23日、沖縄陥落の日に組織されたのが国民義勇戦闘隊であったのである。男は15歳以上60歳以下、女は17歳以上40歳以下(当時は満年齢ではなく数え年で)の全員が、その隊員にされることになった。つまり、15歳のわたくしはそのいちばん年若いほうの戦闘員であった。

 こうして国民の大半が「兵隊」になった。お蔭で全国の村々では村民総出の竹槍訓練やら匍匐(ほふく)前進訓練がはじまる。「気をつけいッ」の号令のもとに、顔を真ッ赤に身体をもじもじさせたおばさんが、「オラァ、子供を産んでからおかしくなったて。こらえると小便がでちまってよォ。こんなごんで勝つずらかァ」と、わたくしにそっとささやいたりしたのを覚えている。

 いまになると自動小銃をもつアメリカ兵を竹槍で刺し殺すつもりであったなんて、バカバカしい喜劇としかいいようがない。が、当時は真剣であった。あれから70年。突然、そんなことが思いだされてきた。

(2015年9月)

■“風のたより”暗号

 昭和16年(1941)12月8日は何の日? と尋ねても、いまの若い人は正確には答えられないのではないか。この日にはじまった太平洋戦争もいまはもうはるかな昔ばなし。老骨はせいぜいわかりやすく「語り継ごう」と思うのであるが、スパイ小説や推理小説のネタになるような話が、いっぱい転がっているわけではない。

 以下は、なかでも少しマシかと思える暗号の話。戦争必至かとなった11月19日、日本の外務省は在外公館あてに万が一のときに備えて“風のたより”という暗号を知らせておいた。

(1)東の風、雨→アメリカとの危機。

?

(2)西の風、晴→イギリスとの危機。

?

(3)北の風、曇→ソ連との危機。

 この暗号は、短波放送の中間と終りにかならず2回くり返す。そしてこの放送があれば、すべての暗号書など必要な文書、機械を完全に処分せよ、との指示が加えられていた。

 さて、12月4日、この日、一日じゅう、数回にわたり、東京からの短波放送は「東の風、雨。東の風、雨」とアナウンサーが天気予報を伝えた。ほとんどの日本人が聞くことのない放送であったが。

 実は、その2日前、連合艦隊司令長官山本五十六(いそろく)大将はハワイに向けて進撃中の機動部隊に、暗号で、

「ニイタカヤマノボレ一二〇八(ひとふたまるはち)」

 の攻撃命令を発していた。

 ここで奇妙なのは、十数年前にNHKがまとめた『20世紀放送史』で、当の12月8日午前4時少し前にも、アナウンサーが、なんと、「ここで天気予報を申し上げます」と突然に前置きして、

「西の風晴れ。西の風晴れ」

 と短波放送した、というのである。いったい、これはどういうことか。日本の機動部隊の真珠湾攻撃開始は午前3時19分(日本時間)、陸軍部隊のイギリス領マレー半島敵前上陸のドンパチはさらにその1時間前にすでにはじまっていた。「東の風」も「西の風」もあったものではないじゃないか。

 一つ、考えられるのは、真珠湾奇襲はあくまで極秘にしておきたかった。それで目くらましに「西の風」とあわててやった。外交電報を残らず傍受して、風の暗号を承知していたアメリカ諜報部はあるいは目を白黒させたかもしれない。としても、日本の諜報戦はざっとこの程度のもの、まことにお粗末であるな。

(2017年1月)

■日本人は「黙?」好き?

 年齢が85歳を超えたときから、小学校や中学校や高等学校(旧制)そして大学時代の仲間が集ってのクラス会は、すべてとりやめとなった。まだまだ俺は元気だぞと強がりをいうヤツもいるが、杖をつきつきでは、または年若い女房どの同伴じゃ、いつひっくり返るかわからない。まったく齢はとりたくないものである。

 そのクラス会で想いだすのは、これが20年ほど前から、会のはじまる前にかならずその年までの間に亡くなった友を偲(しの)んで“1分間の黙?”をやったことであった。顔もロクに想いだせない友のためにかと、少々照れくさい気分にならないでもなかったが、とにかく眼をつむって頭を下げた。

 考えてみると、日本人はこの黙?というのが好きなようである。太平洋戦争の後半なんかそれこそ黙?だらけであった。戦場で生命を賭して戦う兵隊さんの“武運長久(ぶうんちょうきゅう)”を希(こいねが)って黙?、勇戦力闘して亡くなった勇士のご冥福を祈って黙?。それを「黙?ハジメッ!」の号令一下、粛然(しゅくぜん)または茫然としてわれら悪ガキも頭を深々と下げた。なんと「止メッ!」の号令の待ち遠しかったことか。戦後はいつか「黙?オワリ」と号令が変ったが、なぜか1分間はそのままのようである。

 本当かどうか確認してはいないが、ときどきいまも黙?しながら想いだす話がある。共産党の闘士の佐野学が逮捕されて裁判にかけられたとき、その公判廷で、「同志の霊にたいし黙?を捧げたい」といいだしたというのである。裁判長はギロと眼をむいて、とっさに突っこんだ。

「奇なことを申すな。唯物史観のマルクシストが霊魂を云々(うんぬん)するのは、おかしいではないか」

 佐野がそれに何と反駁(はんばく)したか、それはわからないが、戦時下であっても共産党の会合では開会に当っては、まず右翼に惨殺(ざんさつ)された山宣(山本宣治)の霊に1分間の黙?をするのがきまりであったそうな。

 そんな話を酒場でしていたら、いまは国連の総会議場でも「世界平和のために」黙?をするよ、と物知りの友に教えられた。ただし、黙?にあらずあちらでは「沈黙」なんだとか。「それが1分間かどうかそれは知らん」とその友もいっていた。

(2017年4月)

【後編 に続く 「神風をよぶために十死零生の特攻が考えだされ、作戦命令として強制化…」 半藤一利が語る、やりきれない“狂気”の時代 】

「神風をよぶために十死零生の特攻が考えだされ、作戦命令として強制化…」 半藤一利が語る、やりきれない“狂気”の時代 へ続く

(半藤 一利/文春新書)

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