《因縁の韓国戦へ》日本バレー界初の“五輪女性監督”中田久美が語った「絶対に負けられない理由」

《因縁の韓国戦へ》日本バレー界初の“五輪女性監督”中田久美が語った「絶対に負けられない理由」

バレーボール女子1次リーグでドミニカ共和国に勝利し、喜ぶ韓国の金軟景(10番) 7月29日、有明アリーナ ©共同通信社

「久美さんは目に見えて細くなっていく」女子バレー中田監督が全日本主将のメールを無視した理由 から続く

 東京五輪初戦で世界ランク24位のケニアを下した女子バレー日本代表だが、その戦いの中でチームの中心選手・古賀紗理那(25)が負傷退場。古賀が欠場した続く第2戦のセルビア戦はストレート負け、強豪ブラジルにもストレート負けを喫した。1勝2敗となりA組4位に転落した背水の日本代表は、7月31日、因縁のライバル・韓国と1次リーグ突破をかけた大一番に挑む。

 指揮を執るのは前回のリオ五輪終了後から代表監督を務める中田久美だ。「バレー界初の五輪女性監督」となった中田には五輪にかける並々ならぬ思いがあった――。ジャーナリストの吉井妙子氏が寄稿した「文藝春秋」2019年9月号の記事を転載する。(※日付、年齢、肩書きなどは当時のまま)

(全3回の最終回/ 第1回 、 第2回 を読む)

◆ ◆ ◆

 1964年東京五輪の翌年に、父・博秋、母・光子の一人娘として東京練馬区に生まれた。共稼ぎだった両親は娘が興味を持つものは何でもやらせた。バスケット、卓球、そろばん、習字、ピアノ、学習塾……。毎日忙しく、鍵っ子が寂しいと思った記憶がない。水泳で頭角を現し、五輪を目指そうと決意する。

「なぜ、オリンピックというキーワードが頭に入ったのか不明ですが、とにかく小学生の頃からオリンピック選手になりたかった」

 だが現実の厳しさを知り、中学に入って水泳をやめバレーを始めた。中学1年の終盤、全日本女子監督山田重雄が主宰するジュニア育成機関「LAエンジェルス」の募集広告を目にした。両親に相談したところ、当初は反対されたがどうせ受かりっこないと、受験だけは許された。7人の募集に全国から900人の応募があったものの、当時、身長168pで最高到達点が2m86pと現在の全日本並みのジャンプ力があったことが、山田の目に留まった。

■「自分の人生は自分で切り開きなさい」父の言葉が出発点

 中田はバレーで五輪を目指そうと決意。寮生活を送るには、日立の体育館に近い小平4中に転校しなければならない。両親はこの転校に猛反対。無理もない。一人娘を中2で手放すのは、自分の身を剥がされるようなもの。だが、娘の本気度を察知した父は、娘を真っ直ぐ見つめた。

「自分の人生は自分で切り開きなさい。その代り、しっかり考え後悔しないように」

 中田が当時を述懐する。

「この時の父の言葉が、私の人生の出発点になった気がします。これから先は1人で歩かなければならない、って」

 13歳の春だった。

■「金を獲るには、親さえも捨てなければならない」

 その一方、日立の体育館に一歩踏み入れた途端、大変なところに来てしまったと足が竦んだ。体育館の壁一面に、モントリオール五輪の金メダリストたちの写真が掲げられていた。子供心に、日立に来た以上この人たちが築いてきた伝統を守らなければならないと悟った。

「この時点で私の覚悟は決まったような気がします。金を獲るためには、すべてのことを捨てなければならないって。親さえも……」

 日立の体育館には1か所だけ、床が白っぽく変色した場所があった。中田が1人でトス練習を繰り返した場所だった。中田の大量の汗が、床を変色させてしまったのである。だが、床を変色させてしまうほどの汗の量は正直だった。チームの司令塔となるセッターは最低5年の練習が必要と言われるが、中田は2年で技術をマスター。15歳で早くも全日本入り。「天才少女」と謳(うた)われた。しかし中田は天才説を否定する。

「すべて繰り返し練習の賜物です。ただ、一球一球に意志を込めた。10万回トス練習をしたら、10万通りの意志があった」

 中学卒業時にまた岐路に立たされた。両親は当然のように高校進学を勧め、山田もバレーに理解のある高校への進学を助言。中田は逡巡したが、高校進学を断念。あの時の決断が、今の自分を作ったと述懐する。

■ロス五輪まで2年。高校をあきらめた

「ロス五輪まであと2年。時間がない。高校に行ったら金メダルは獲れないと思った。東洋の魔女、モントリオールの伝統を守るために高校を捨てざるを得なかった。両親には通信教育で卒業すると約束しました」

 15歳から18歳の多感な時期に中田は過酷な時を過す。当時、シニアの前座としてジュニアの試合が組まれ、両方を掛け持ちしていた中田は、1日で10セットトスを上げることもあった。泥のように疲れていても、夜になれば通信教育の勉強が待っている。

「しかも、ジュニアとシニアではサインが違うからいつも頭がパンパン。もちろん、辞めたいとか、私は何をやっているんだろうと日々葛藤がありましたけど、しばらくするとそれが日常になってしまうんです」

 東大EMP教官の横山は、中田の頭の良さはこの頃に自己対峙を繰り返したことによって磨かれたのではないかと推測。エッジを求めるフチ子さん的な性格も、この時に築かれたのだろう。

■29歳で結婚し、3年後に離婚。パリコレモデルも経験

 18歳でロサンゼルス五輪に出場し、銅メダルを獲得。20歳で全日本の主将になり、いざこれからという時に膝の前十字靱帯を損傷する大怪我を負った。その後遺症に悩まされながらもソウル五輪、バルセロナ五輪でトスを上げ、大林素子や吉原知子、多治見麻子など有数のアタッカー陣を育て、27歳で12年間の現役生活に終止符を打った。

 29歳で結婚し3年後に離婚。その後、パリコレモデルやテレビのコメンテーター、解説者として活躍していたが、07年に父が死亡。癌を宣告され3カ月の命だった。

「病院のベッド横の引き出しに、父の文字が乱れた般若心経が入っていた。でも『お父さんの人生は幸せだったの』と聞くと『ああ、思い残すことは何もない』って」

 中田は衝撃を受けた。自分は人生の最後を迎えるとき、父のような言葉が吐けるだろうか。これまでの人生を振り返る。玉ねぎの皮を剥(は)ぐように自分の過去を一枚一枚めくると、金メダルという芯が顔を覗かせた。引退した時に固く蓋をしたはずのものが、心根ではまだ燦然(さんぜん)と輝いていたことに自分でも驚いた。指導者になればそのチャンスはある。自分の手で金メダルが獲れる選手を育て上げたいという欲求が湧き上がった。42歳になっていた中田にはもう時間がなかった。

■選手は聞く耳を持たず、見下した態度にペットボトルを…

 バレー界に復帰すると決断した中田の行動は早かった。指導者の勉強をしようと無給コーチとして単身イタリアに渡る。1年目のヴィチェンツァでは、言葉が通じないこともありネット張りやボール拾いなど用具係のような仕事もこなした。セッターに指導しようとしても選手は聞く耳を持たない。あまりに人を見下した態度に、中田はペットボトルを投げつけ家に帰ることもあった。

 2年目のノヴァラでは、午前中に現地の小学校でイタリア語を学びながら、ジュニアの指導もさせられた。中田にとってイタリアでの2年間は屈辱の日々だったという。

「自分の感情はぐしゃぐしゃになったけど、でもこの感情を絶対に力に変えなければと思った。イタリア人に何されようが、どうあしらわれようが、本当に自分が現場に戻りたいのか見つめ直す時間だったので、遣り切ることの方が大事だった」

 それでも、当時データバレーの最先端と言われていたイタリアバレーのノウハウ、そして練習方法などをしっかりメモし帰国した。

「あの2年間は、今の私の血となり肉となっています。だから帰国してまもなく久光から監督として招聘された時も不安はなかった」

 そんな中田を「青い炎のような人」と表現するのは、野村HD執行役員で野村證券常務の池田肇だ。野村HDは東京2020のゴールドパートナー。オリンピック・パラリンピック推進責任者の池田は、普及活動中に中田と知り合い意気投合。

「以前は赤い炎を滾(たぎ)らせる闘士というイメージでしたが、実際に話してみると冷静で思考が深い。五輪に対する熱は、赤い炎よりさらに温度が高い青い炎のよう」

 中田は東京でメダルの獲得はもちろん、選手を将来女性管理職になれるよう育て、他にも何かレガシーを残したいと考えていた。64年の東洋の魔女は、ママさんバレーの人口を増やし、それまで家事、育児と家に閉じこもっていた女性たちに、エプロンをジャージに着替えさせ、外に連れ出した。

■バレー界初の五輪女性監督として古い価値観とも戦っている

 2020年に向かう中田は、実業団バレー、ママさんバレー、身障者のシッティングバレー、聴覚障碍者のデフバレー、そしてビーチバレーを横断的に繋げないかと考え、『Ball for All』を発案。

「同じバレーボール競技なのに、組織が別々で選手の交流もない。お互いに力を合わせれば出来ることが増え、バレーの発信力も高まるはずです。今はどの競技もオリンピックとパラリンピックの組織は別々。バレーボールが成功すれば、他の競技も参考にしてくれるんじゃないかと」

 古い歴史を持つ野村も組織改革が急務となり、事業のデジタル化に取り組んでいる池田は、自分の体験から中田を慮る。

「一企業でも組織改革は大変な労力が必要。ましてや中田さんは伝統のある女子バレーを率い、バレー界初の五輪女性監督として、古い価値観や組織体制とも戦っているはずです。まさに改革者だと思いますね」

■「一皮剥けた選手の成長を見て下さい。メダルは絶対です」

 東京2020までちょうど1年。中田が全日本を率いた17年のグラチャンで5位、18年世界選手権で6位と、まだ納得できる成績ではないが、ここにきて中田は確かな手ごたえを掴んでいると胸を張る。

 中田が考える勝利法は、正確なサーブで相手を崩し、レセプションアタックの決定率を上げること。そしてサーブ、ブロック、レシーブを連動させるトータルディフェンスが機能すれば簡単に負けないと、これまでの試合で確認できた。その上で速くて複雑なコンビバレーを繰り出す。

 今年9月には五輪の前哨戦ともいえるW杯が日本で開催される。

「昨年から一皮剥けた選手の成長を見て下さい。メダルは絶対です」

 周りの誰しもが、睡眠を削り食事も摂らずに2020へ向かう中田の体を心配する。そんな声に中田は高らかに笑った。

「2020は4年に1度の五輪ではなく、日本にとって100年に1度のビッグイベント。そんな巡り合せに命を賭けないでいつ賭けるんですか。歴史と伝統に裏打ちされた女子バレーをさらに黄金色に輝かせます」

 歴史は、塗り替えられることを待っている。

(吉井 妙子/文藝春秋 2019年9月号)

関連記事(外部サイト)