火箸で頭部を一刺し、硫酸をかけて失明に…「銚子の虎」が統治していた港町の“黒い影”の実態

火箸で頭部を一刺し、硫酸をかけて失明に…「銚子の虎」が統治していた港町の“黒い影”の実態

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「密漁アワビは売ってるんですか?」「あれ、ヤクザだから気をつけなよ」…潜入労働で見えてきた“築地市場”の危ういリアル から続く

 漁を終えては賭場に通い、博打に勤しむ漁師、網元、船主……。そんな彼らに金を貸し付け、担保として船を回収していたのが「銚子の虎」と呼ばれていたヤクザ“高寅”だ。地元漁業を牛耳り、封建的な村社会で畏敬の念も持たれながら、住民からも支持されていた高寅。しかし、戦後になると、日本共産党、読売新聞、GHQが地域を民主化すべく、高寅追放が目指されるようになり……。

 ここではジャーナリストの鈴木智彦氏がヤクザと漁業の密接な関係に迫った『 サカナとヤクザ 暴力団の巨大資金源「密漁ビジネス」を追う 』(小学館文庫)の一部を抜粋。かつての銚子で繰り広げられた血生臭いエピソードを紹介する。(全2回の2回目/ 前編 を読む)

◆◆◆

■火箸で頭部を刺した

 昭和24年3月5日午前5時、軍政部の命令を受けた千葉地検は、銚子署、旭署、廿日市署の警官に応援部隊を加えた総勢200人を各班に分け、高寅の関係先に押しかけた。ところが拠点はもぬけの殻で、高寅を始めとする関係者が逮捕されたのはその2日後だった。高寅に逃走の意思はなく、偶然、外出と取り締まりが重なったのだが、高寅追放を掲げる読売新聞にとっては好都合だったろう。

 同日、読売新聞は政治と暴力団の癒着に照準を合わせ、強烈な変化球を放った。カイズ・ビーチという35歳のアメリカ人記者を銚子に派遣、通訳と読売新聞記者を伴って高寅の妾宅を訪問させ、その原稿を掲載したのだ。ビーチは昭和21年にシカゴ・デイリー・ニュースと契約し、日本に滞在していた極東特派員で、いまの外国人記者クラブの面々同様、日本のヤクザの成り立ちを理解していたとは思えない。しかし、その分、西洋的視点でヤクザを書くことに疑いを持たないので、読売にとっては好都合だったろう。

「二号の細君(※後述するフミのこと)が経営している化粧品店の居間でコタツにあたりながら一般市民に“銚子の虎”として知られている高橋寅松は『自分は悪い人間だ』と記者に語った。しかしまた『過去においては誤った道を踏んだのは事実だが現在では街の寺(観音堂)を建築して市民の尊敬を受けている』とも語った。

 高寅はこの寺の建築にすこぶる熱心だ。あるとき強情な一主婦が『献金したくない』とこばんだとき彼はその婦人の頭をインク瓶でなぐりつけようとした。高寅と彼の子分たちはしばしばこのような短気をおこしている。一度ある婦人が高寅に相談しないで家の周囲に垣根を築いたとき彼はこれを彼に対する個人的な侮辱と見なし彼の子分の一人は火箸で同婦人の頭部を刺した。

 高寅は銚子市で最も強大なボスでありテロをもって市民を支配している。彼のその方法と組織はアメリカの考え方からみれば多少変わっているように思われるが根本的にはアメリカのどのギャングのボスと比較しても全く同一である。おそらく彼は銚子で一番の金持ちであろうし、またこの街最大のギャンブラー(博徒)であり他の日本人ギャンブラーと同様に荒っぽい凄味を見せかけるため全身に入墨をしている」(読売新聞昭和24年3月5日付)

 記事には第一弾の新聞記事で匿名とされた越川の他、火箸を刺された『百番』という食堂の女将、硫酸によって失明した露天商の実名・顔写真が添えられている。

 二号と明記するところは、悪意が十分で面白い。高寅には本妻の文子(37=当時、以下同)の他、二号のカネ(37)、三号のフミ(23)という二人の妾がおり、3人は背中に刺青を彫っていた。文子の家は清水町にある豪邸で、カネを竹町の家に居住させ、フミには馬場町にその名も『高寅』という小間物屋、いまでいう化粧品店を建設して住まわせていた。同じ歳の文子とカネは仲がよかったようで、相談して互いに、女の子を養子縁組していた。高寅が若いフミに熱を上げると、二号のカネは8年間の愛人生活を清算し、県内の別の街に逃亡してしまった。新天地では売春婦を組織し、刺青の女ボスとして生活していたが、高寅の元には帰らなかった。

■ヤクザの巣窟

 カイズ・ビーチの記事にある通り、高寅は空襲で焼失した観音堂の再建にかなりの私財をつぎ込んでいた。高寅たちの寄進によって観音さまが再建されると、境内をはじめ、一角に数多くの飲食店や露店、見世物小屋などが並び、ここは再びヤクザの巣窟となった。ジャズ・ミュージシャン菊地成孔(小説家の菊地秀行は兄)の実家はここで食堂を営んでおり、著書の『スペインの宇宙食』にこう記している。

〈「僕が18歳まで育った千葉県銚子市という漁港町に、新宿歌舞伎町の5分の1ほどの規模の歓楽街があった。たったそれだけの狭い敷地内には、浅草と(観音寺を中心とした、屋台や土産物屋や見せ物小屋や映画館がひしめく場所)赤坂と(バーやスナックが昆虫の巣のように密集した夜の街)銀座(漁港から流れる魚を使った料亭やフランス料理店、高級クラブなど)が、無理矢理詰め込まれていて、(中略)銀座の客も、浅草の客も、赤坂の客も全員漁師だった。漁師以外の20%の人々は『流れもん』と呼ばれていた。銀座も赤坂も浅草も一様に魚類の匂いが立ちこめ、数メートル進むたびにそれに香水の匂いやヤキソバの匂いや線香の匂いが混じった。毎日が中途半端な祭りのようだった」〉

 ヤクザの喧嘩もよくあったらしい。

〈「一番酷いのは漁師と地回りのヤクザの組み合わせだ。(中略)150センチ程の小柄のヤクザに、190はあろうかと思われる巨漢の漁師が因縁を付けた。漁師が胸ぐらを掴むと、ヤクザは中空に浮いてしまうほどだったが、僕は『ヤクザが勝つ』と直感した。ものすごい殺気のオーラがあり、冷たく見えたのと、なによりそのヤクザは左手首が欠損しており『片手』だったからだ。ヤクザは素早い身のこなしで、片手で傍らのビールグラス(キリンがケースごとに配給していたオマケのビールグラスは、子供の握力でも潰せそうなぐらいに薄かった)を掴み上げると、ひょいっと手のひらの中で、グラスの底が手のひらに当たるように掴み直し、ストレートを打つ要領で、軽くスナップを効かせると、漁師の右目にたたきつけた。(中略)手に『少年ジャンプ』を握りしめ、恍惚としている僕に、ヤクザは一瞥をくれ『チッ』と舌打ちをしてから、思いっきり優しい顔になると『ぼうや、ここの子か?』と聞いた。『そうです』『おとうちゃん呼んできな』」〉

 菊地は昭和38年生まれである。高寅事件から20年以上経っても、一帯には戦後の残滓が色濃く残っていたことがよく分かる。

■ヤクザを相手に罵声を浴びせた女将

 火箸で頭部を刺された女性の事件も、飯沼観音絡みだった。ただし、新聞記事は事件に至る経緯をすっ飛ばしている。この女性が経営していた『百番』という店は、観音寺の境内にあった。市内でもっとも賑わう繁華街にもかかわらず、寺の敷地だったため地代は格安で、民間の土地と同様の金額で又貸しするだけでけっこうな儲けになるため、寺は堅くそれを禁止していた。

 百番の隣は山口某が食堂を経営することになっていたが、老齢のため頓挫し、寺との話し合いで、資金を出した砂場食堂が引き継ぐことになっていた。すると百番の女将は、砂場食堂に又貸しを打診し、内密に計画を進めていたのだ。

 寺に露呈すると、百番は空き地を囲むように塀を建設した。何度取り壊すよういっても聞き入れられず、寺は懇意にしていた高寅にその撤去を頼み込んだのである。

 高寅は読売新聞が高寅糾弾キャンペーンをしていた渦中だったので、この仲裁は気が進まなかったらしい。しかし何度も寺に頼まれたため、高寅は正妻の弟である幹部を交渉に送り込んだ。

 女将は気の強い人だったという。ヤクザを相手に罵声を浴びせ、境内のヤクザが騒ぎを聞きつけ飛び込んできたほどだ。近くの遊技場にいた高寅も、店に入ってその様子を見ていた。すると女将は高寅たちを罵り、配下が火箸で女将の額を打ったのだ。彼女は無辜の市民ではない。しかし、高寅側が暴力を振るった事実は動かしようがない。

■高寅追放

 事実、この暴力事件が高寅追放の決定打になった。カイズ・ビーチの記事は英語でも配信され、アメリカで報じられた。これによって千葉の軍政部が動き、検察が高寅を逮捕した。百番の事件では殺人未遂とされ、その他、脅迫や傷害の容疑が加わり、3月28日に起訴された。

 国会も騒動に巻き込まれている。

「これは新聞紙上等で御承知の、千葉県銚子市における高寅組の親分、高橋寅松に関する暴力団の調査でございまして、この高橋寅松、俗称高寅というのが、本年三月七日逮捕せられたのでありまして、三月二十八日千葉地方裁判所に殺人未遂、脅迫、傷害等の罪名によつて起訴せられ、千葉拘置所に勾留中のものでありますが、調査の目的は、高寅と警察との関係、検察庁における高寅の取扱方、それから高寅組の暴力団としての実態等を調査するわけであります。事実その逮捕に当つて、銚子市公安委員会に対して、国警千葉本部に援助要請をするように申入れたところが、公安委員会の要請が遅れたために、逮捕が遅れたとか、市警察司法主任の転任に当り高寅より多額の餞別を送つたとか、その他いろいろの事件があるわけであります。その関係者といたしますのが、高寅の外その子分が大分ありますのと、銚子市の公安委員長、銚子市警察署長、弁護士、東日本新聞社長、元銚子署の司法主任、それから千葉の地方検察庁の三輪検事こういうふうに関係者が多い関係から、この際現地に出張して調査を了したいと、こういうことでございます」(昭和24年4月25日参議院議員運営委員会。河野義克の発言)

■高寅を擁護する声も多かった銚子住民

 調査は難航したようである。銚子で聞き込みをすると、高寅を擁護する声も多かったのだ。占領下で文化戦略を担当した民間情報教育局のインボーデン少佐はこれだけの騒ぎにもかかわらず、読売新聞以外の他紙が傍観しているのを疑問視し、新聞記者に調査を依頼している。

「銚子には高寅派と反対派と中立派がいる。我々はこれを取り上げない」

 という結論だったようである。

 前出の火野葦平が『暴力の港』を書いたのはこの裁判中だった。出版後、大衆演劇の一座を率いていた三代目梅沢昇が、浅草常盤座で3週間の芝居公演にかけた。旅芝居はその後、横浜、神戸と回ったが、内容は単純明快にデフォルメされており、高寅が悪の化身として描かれている。当然、事実とは異質のフィクションだ。

 横浜には高寅の兄貴分だった笹田昭一がおり、この芝居を「出鱈目すぎる」と非難した。神戸でも興行界の大物である山口組三代目・田岡一雄が「限度を超えている」と激怒し、山口組によって公演は中止に追い込まれた。

『暴力の港』は、越川芳麿をモデルにした新聞記者の長台詞で物語を終える。

「銚子のギャングだって、昔の熊襲や、長髓彦とちっとも変わらないんですね。そして、近代になっては、飯岡の助五郎などという博徒が、この町に来た、というようなことを、町の老人は珍しがり、ありがたがってすらいるんですよ。(中略)タカトラなども、百年も経つと、昭和水滸伝の立役者になって、庶民の間で、人気者になるんじゃないですかね」

 同様に読売新聞のキャンペーンも、100年後には勇気の記録として語られるかもしれない。しかし、暴力団の裏には、その力を利用するヤツらが必ずいることを忘れてはならない。高寅という顔役の排除の陰には、彼を恨む暴力団からの協力があり、新聞報道は暴力団の権力闘争に利用された。たとえ一時であっても、ヤクザが市民と共存する幸福を味わった高寅は幸せだったろう。暴力を背景にして他人のために奔走すれば、感謝され、それがシノギになった時代はこうして終わった。

■港町を覆った黒い影の結末

 14件の容疑で起訴された高寅は、検察から8年を求刑され公職から追放、特審局は高寅組の解散を指定した。配下が火箸で女将の額を突いた百番事件では無罪となり、一審で懲役7年の判決が下された。控訴審では暴行脅迫等が無罪とされ、懲役4年だった。最高裁判所に上告したところで、講和条約の恩赦で3年に減り、未決通算の5ヶ月を引き、2年7ヶ月になった。

 裁判中、高寅は保釈で娑婆にいた。弁護団の筆頭で、戦前、検事総長、大審院長、司法大臣、中央大学学長などを歴任した林頼三郎は、「その都度、結果を軍政部に報告している特殊事件であり、もし有罪になれば日本の裁判史上に汚点を残すものになる」と主張している。占領軍の意思による起訴は明らかだし、いってみれば国策だ。しかしその5年後、高寅は上告を取り下げ、昭和29年3月15日、千葉刑務所に下獄した。

 翌年、高寅の盟友である椎名隆は衆議院議員にようやく当選、法務委員となった。この時、読売新聞は新興宗教である立正佼成会の批判キャンペーンを紙面で展開中で、かつての仇敵だった読売新聞の福岡と、今度は味方陣営で顔を合わせた。

「なんとなく面はゆい気がする」

 福岡はそう書き残している。

 銚子はいまも漁業が街を支え、平成23年以降、10年連続日本一の水揚げ量を誇っている。

 港町を覆う黒い影は、もはやどこにもない。

【前編を読む】 「密漁アワビは売ってるんですか?」「あれ、ヤクザだから気をつけなよ」…潜入労働で見えてきた“築地市場”の危ういリアル

(鈴木 智彦)

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