漂う死体、忍び寄るサメ、辺り一面は真っ赤な血が…米軍の新型潜水艦に狙われた沖縄の子供たちの「悲劇」

漂う死体、忍び寄るサメ、辺り一面は真っ赤な血が…米軍の新型潜水艦に狙われた沖縄の子供たちの「悲劇」

対馬丸に襲いかかった潜水艦「ボーフィン」 ©getty

「本土に行ったら雪が見られる」はしゃぐ沖縄の子供800人が犠牲…疎開船を襲った“真珠湾の復讐鬼”とは? から続く

 2021年夏に戦後76年を迎える日本。戦争中には、忘れてはならない数々の悲劇があった。終戦の約1年前、沖縄から疎開する学童らを乗せて九州に向かっていた疎開船が、アメリカ軍の潜水艦の攻撃を受けて沈没した「対馬丸事件」も、その一つである。犠牲者は約1500人のうち、約半数の800人ほどが幼い子供たちだった。

 昭和史を長年取材するルポライター・早坂隆氏の『 大東亜戦争の事件簿 』(育鵬社)より、一部を抜粋して引用する。

◆◆◆

■夜中、ついに襲いかかった魚雷

 対馬丸の航海が一瞬のうちに崩壊したのは、22日の午後10時12分頃のことである。場所は悪石島の北西約10キロの辺りであった。

 海面に浮上したボーフィンは、対馬丸に向けて立て続けに魚雷を発射。対馬丸の見張り役がその雷跡に気づいたが、回避する時間はすでに残されていなかった。

 まず左舷前方で大きな爆発音が起こった。その後も何本もの魚雷が対馬丸を襲った。その時の様子を上原清はこう語る。

「私はその夜、先生の目を盗んで船倉ではなく甲板で寝ていました。すると突然、爆発音がして船が大きく揺れました。驚いて起き上がると、続けてボーン、ボーンと爆発音が響きました。ただし、海中での爆発だからでしょうか、鋭い炸裂音というよりも、ドラム缶を叩くような鈍い音でした」

 船団の中で被弾したのは対馬丸だけだった。潜水艦の攻撃に気づいたほかの船は、この海域から全速力で脱出した。護衛艦も対馬丸の救援には回らなかった。

 対馬丸が学童疎開船として使われていることを知らなかったのはボーフィンの乗組員だけでなく、じつは護衛艦に乗っていた日本軍兵士の大半も同様であった。彼らは対馬丸を通常の貨物船だと思っていたのである。護衛艦の兵士たちは戦後になって「対馬丸事件」の全容を知り、悔しさと罪悪感に苛(さいな)まれることになる。

■「海水がものすごい勢いで流れこんでいました」

 対馬丸の船内では、護衛艦の乗組員が想像もしないような光景が繰り広げられていた。

 船はみるみるうちに沈み出した。船体に空いた穴から、大量の海水が一挙に流入してくる。対馬丸の船員だった中島高男は、その時の光景をこう回想する。

〈海水がものすごい勢いで流れこんでいました。悲鳴やわめき声など、なんとも表現できない大きな声が、いや音でしょうか、暗い船底からわき上がっていました。闇の中をおおぜいの人々が、もだえ、おぼれ、苦しんでいるようすがかすかに見えました。おそろしい光景でした。(略)その大半は子どもたちでした。逆立ちの状態で、足を水面に出している者もいます。体をはなれたくつや帽子、服なども、人にまじって渦まいています。しかも、水の勢いは強まる一方です〉(『 満天の星 』〔対馬丸事件取材班著 文芸社刊〕)

 もともと積載物のための空間だった船倉には、甲板に上がる階段の数が少なかった。そのため階段とその周辺で大渋滞が起き、子供たちは速やかに甲板に上がることができなかった。上原は次のように振り返る。

「先生が『こっちだ!』と叫びながら誘導しようとしていたのですが、子供たちはなかなか上がってくることができないようでした。私は甲板にいたので助かりましたが、船倉にいた子たちは本当に可哀想だったと思います」

■鳴り響いた「沈没を知らせる3回のベル」

 対馬丸の船員たちは、すぐに救命ボートを海上に降ろした。しかし、救命ボートの定員など微々たるものであった。船員たちはさらに、遭難時のために用意しておいたイカダを次々と海に投げ込んだ。イカダには木でできたものもあれば、竹を組んだだけの簡易的なものもあった。

 やがて、大きなベルの音が3回、鳴り響いた。

「退船!」

「海に飛び込め」

 といった声があちこちからあがった。

 しかし、大型貨物船である対馬丸の甲板から海上までは、かなりの高さがあった。子供たちの多くは、恐怖から海に飛び込むことができなかった。

 やがて船員から、より強い指示が出るようになった。上原はこう語る。

「メガホンを持った船員が『飛び込み用意!』と大きな声で言いました。それで男の子たちは手摺によじ上り、横一列に並んで海に向かって立ちました。すると、学童のリーダーだった子が、船員からの命令の前に『飛び込め!』と叫びました。私たちはそれで一斉に海に飛び込みました」

■「先生、助けて!」「お母さん!」

 他方、次のような光景もあった。当時、11歳だった田場兼靖はこう記述する。

〈船のいちばん上の甲板では、船員が手あたりしだいに疎開者たちを海に投げこんでいた。私はなんとなく、船員から投げこまれるのがいやだった。自分でとびこもうと思った。そこには舷側がない。縁に立つと、一歩の差で下は海だ。だが、私はスクラムを組んだ2人がおじけているために、うしろへひっぱられて、とびこむことができなかった。

 船はずいぶんかたむいた。

(早く!)

 私はあせって、ひょいと足を出した。すると、私のからだの重みで、3人は海に落ちた。跳んだのでなく落ちたのだった〉(『 対馬丸 』〔大城立裕著 理論社刊〕)

 その後も、

「先生、助けて!」

「あんまー(お母さん)!」

 といった声が船上の至るところでこだました。その間にも、船はどんどん傾いていった。

 対馬丸は最後、船首を上にしてほぼ垂直となり、海中に消えていった。

 沈没までの時間は、被弾からわずか10分ほどだったとされる。船倉にいた子供たちの多くが、甲板に上がることができないまま、船とともに海中に沈んだ。

■流れ出た重油、漂う死体…漂流者たちの運命

 船から海に飛び込んだ子供たちは、丸太や木箱、ドラム缶、樽(たる)などの浮遊物になんとか捕まろうとした。流れ出た重油が身体にまとわりついた。すでに辺り一帯に多くの死体が浮いていた。

 子供を救出するために尽力する船員や、自分の救命胴衣を他者に譲った兵士がいた一方、次のような哀しい光景もあった。当時、国民学校の4年生だった平良啓子はこう記す。

〈50メートル先で人々のざわめきが聞こえる。私もあそこへ行こうと向きを変えると、大きな物体と屍(しかばね)の群で抜け出せそうにもない。頼みの醤油樽(しょうゆだる)がじゃまになったので放り投げてしまった。浪の揺れるままに、ひとかたまりになっている屍を踏み分け、やっと這(は)い出ることができた。そこからは、救命胴衣を頼りにざわめく方へ泳いで行った。

 そこでは、一つのイカダを何十人もの人々が、奪い合っている。すがりついても、力のあるものが、力の弱い者を振り落としてくい下がって行く。やっと這い上がったかと思うと、また次の人に引きずり落とされる〉(『あゝ学童疎開船対馬丸』〔新里清篤編 対馬丸遭難者遺族会刊〕ルビは引用者による)

 8月といえども、夜の海は冷たかった。冷えが漂流者たちの気力と体力を奪っていった。

 そんななか、青白い夜光虫がやけに美しく輝いていたという。

 その後も一人、また一人と海中に消えていった。やがて悲鳴さえも聞こえなくなり、周囲は不気味な静けさに包まれた。この辺り一帯の海は潮の流れが速く、身体を浮かせているのも困難だった。

■「娘がしだいに冷えていくのがわかった」

 翌朝までに多くの者が亡くなった。生存者たちはあちこちに流されたが、なかには運良く漁船に救助された者もいた。しかし、多くの漂流者たちの戦いはなおも続いた。

 さらに悪いことに、台風が次第に接近していた関係で、波はより高くなっていった。

 漂流者たちは喉の渇きに苦しめられた。雨が降ると、口を開けて雨粒を飲んだ。

 引率教員の田名宗徳(だなそうとく)は、家族一緒に疎開する予定で、妻と八歳になる娘の圭子とともに対馬丸に乗っていた。

 沈没後、圭子とは一緒にいることができたが、妻とは離れ離れになってしまった。しかし、イカダに乗って漂流している間に、運良く妻とも再会することができた。以後、家族3人でイカダに乗っていたが、遭難から3日目の夜、悲劇は起きた。田名はこう記す。

〈娘の圭子が飢えと寒さのせいか、しだいに冷えていくのがわかったが、両親そろっていて8歳になる娘を救うこともできず、かわいそうにそのまま凍死してしまった。妻は冷たくなった幼い子の屍体をだいて、涙のかれるまで泣いた。私は、この幼い者のなきがらを海中に投じる勇気がもてなかった。もし私でも妻でも生きのびられるなら、どこかに葬むってあげようと、泣きながら、屍体を流されないようにイカダに結びつけた〉(『 対馬丸 』)

■「あたり一面は真っ赤な血が…」跳びこんだ老人にむらがるサメ

 また、田名によれば、サメによる犠牲者も出たという。

〈頭のおかしくなった老人が海に跳びこんだ。私たちがとめるのもかまわず、幾度もすきをみては試み、とうとう跳びこんだかと思うと、アッという間にむらがり寄る鱶(ふか)に食いつかれ、あたり一面真っ赤な血で染めて流れ、そして見えなくなった〉(『 対馬丸 』ルビは引用者による)

 当時、中学生だった喜屋武(きゃん)盛守(せいしゅ)は、漂流時の光景を次のように回顧する。

〈イカダに乗れず、ロープをつかんで、ぶらさがったまま死んだ女がいた。背中に赤ん坊がいて、赤ん坊も死んでいた。船に積んであった爆雷にやられたのか、内出血をして、口から血をたらしていた。

 この死体がにおいはじめた。死体をイカダから離そうとしたが、ロープをつかんだ手が硬直して、びくともしない。私はその指をむりやりこじあけ、海に流した〉(『 海に沈んだ対馬丸 』〔早乙女愛著 岩波ジュニア新書〕)

■「ふと気づくと、夢を見ていました」

 船員の中島高男は両足にケガを負いながらも、木や竹のイカダ6艘(そう)をロープで?ぎ合わせ、そこに漂流者を乗せて救助した。救助活動に尽力することが、船員としての彼の矜持であった。

 6艘のイカダには、中島を含め8人が乗っていたという。1人は赤ん坊を背負った女性だった。

 そんな漂流生活中のある夜のことを、中島はこう記す。

〈夜の海上は見るものもなく、疲れたせいか眠くなってきました。ふと気づくと、どこか平らなところで長々と寝る夢を見ていました。考える力がなくなった頭の中は、ただゆっくりと眠りたいという思いばかりが強くなっていきました。

 そのとき突然、ドボンという大きな水の音がしました。前のいかだに乗っていた若い娘さんが海へ落ちたのです。あっという間にいかだから5、6メートルはなれてしまいました。助けてと叫びながら、もがいています。わたしは夢中で海に飛びこみ、やっといかだの上へ引き上げました。なんとか息をととのえてから、

「みんな、眠らないでいかだによくつかまっているんだ」

 と、注意しました。それは自分に言い聞かせる言葉だったかもしれません〉(『 満天の星 』)

 数日間の漂流の末、中島らのイカダは海軍の巡視艇に救助された。

 上原清もイカダで漂流していた。

「私が一番つらかったのは、喉の渇きでした。海水を飲もうかと思ったこともありましたが、やはり飲めませんでした」

 無論、飢えも深刻だった。

「一緒にイカダに乗っていた友人が、一匹のカワハギを捕まえたことがありました。その友人は歯でカワハギの皮を引きちぎると、わずかな身を皆に分けてくれました。小さな魚肉でしたが、あれは嬉しかったですね」

 上原たちは結局、6日間も漂流した末、沈没地点から約150キロも離れた奄美大島に漂着した。

 この対馬丸事件の犠牲者数は、約1500人にも及んだ。そのうちの800人ほどが子供であった。

 救助された者たちの多くは、鹿児島県の病院や旅館に収容された。

 彼らには「箝口令(かんこうれい)」が出された。遭難のことを固く口止めされたのである。これは事件が明るみとなって疎開計画がさらに遅延することを危惧(きぐ)しての対応であったと言われている。

 しかし、対馬丸が遭難したという情報は結局、沖縄じゅうに広がっていった。

■たどり着いた疎開先で知った「沖縄の悲劇」

 対馬丸事件の2ヶ月後にあたる10月10日、沖縄は大空襲に見舞われた。俗に言う「十・十空襲」である。

 約1400機もの米軍機による9時間にも及ぶ波状攻撃の結果、那覇市の大半が焼き払われ、死者数は約700人に達した。

 昭和20(1945)年3月からは、ついに沖縄戦が勃発。約12万人もの県民が犠牲になったとされる。

 対馬丸事件でなんとか生き残り、鹿児島や宮崎などで疎開生活を続けていた子供たちの多くが、終戦後に両親の死と直面することになった。

(文中敬称略)

(早坂 隆)

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