「沖縄嫌い、人も嫌い」 地域の担い手でもなく、地元の青年団からも排除される沖縄のヤンキーたち

「沖縄嫌い、人も嫌い」 地域の担い手でもなく、地元の青年団からも排除される沖縄のヤンキーたち

撮影:深谷慎平氏

ビルの裏に連行、パシリとして買い出し命令、卑猥な言葉を教わることも…沖縄・広島で出会った暴走族の若者たち から続く

 生まれ故郷が嫌いだと吐き捨てるように言った沖縄の若者との出会いを原点に、社会学者・打越正行氏は、沖縄の若者たちの調査を始めた。生きていくために建設業や性風俗業、ヤミ仕事に就いた若者たち。かれらが就いた仕事も、生活スタイルもさまざまだが、その大半が過酷だった。

 そんな中で、若者たちはどのように沖縄を生き抜いてきたのだろうか。10年以上にわたって、かれらとつき合ってきた打越氏による『 ヤンキーと地元 』(筑摩書房)から一部抜粋して紹介する。(全2回の2回目/ 前編 を読む)

◆◆◆

 暴走族の若者たちは、私のことを警戒していた。内地の大学生が、暴走族の取材に、わざわざ沖縄まで来ているというだけでも十分怪しいが、彼らは私のことを私服警官かもしれないと疑っていた。当時、暴走族の見物をしようとゴーパチに集まってきたのは10代から20代前半の若者たちだった。20代後半の私がそこにいれば当然、目立ってしまう。しかも、私を除けばそこにいる大人は私服警官だけだった。疑われても仕方のない状況だった。

 私服警官かもしれないと警戒されていた私は、コンビニで休憩する暴走族少年たちに声をかけても、地元や年齢といったことしか聞けず、そんなことを聞いてくるのは私服警官ぐらいだったから、調査はますます難航した。

■拓哉との出会い

 調査初日に声をかけた若者の1人が、「沖縄嫌い、人も嫌い」と吐き捨てるように言った拓哉だった。彼とは他の日にも会うことができ、調査に四苦八苦するなかで最初に良好な関係を築けた数少ない相手だった。人懐っこい性格の拓哉と一緒に行動することが増えていった。

 ある日、拓哉は暴走族仕様のバイクにまたがってゴーパチへ繰り出した。私が原付で追走すると、「打越、おもしろいなあ。ついてこれないと思ったら、ついてきてるじゃん」といって、喜んでくれた。他のグループの多くは、私が原付で追走すると、恥ずかしいといって距離をとるなか、拓哉だけはおもしろがってくれた。

 那覇や宜野湾のコンビニで座り込んでいる男の子や女の子に私が取材をしていると、拓哉が「なに、しかしてる[ナンパしてる]?」と割り込んでくることがあった。「しかしてるんじゃなくて、取材だ」と説明したが、わかってもらえなかった。

 別の日に拓哉から電話がかかってきて、「打越、いま北谷だけど、しかせる[ナンパできる]女の子たくさんいるから早く来い」という。しかしてるわけではないと説明しても理解してもらえないので、とりあえず北谷に向かうと、観光客の女性たちを、彼がナンパしたところだった。女性たちと話しているところに私も入れられ、会話が途切れると、「打越、がんばれよ」と励まされた。女性たちと別れ、2人きりになると、これまで過ごしてきた地元のことを聞かせてくれた。

■「すぐにでも結婚したい」

拓哉 今すぐにでも結婚したい。寂しい。1人(でいること)が嫌。4、5人くらい子ども(が欲しい)。中1のときに両親、離婚した。親父は酒飲んで、仕事(大工)行かない。手も出す。変なイメージしかない。酒しか飲んでない。今でも話、しようと思わない。だから(つい)反抗してしまう。家には、おとー、おばーと、3人で住んでる。年上のきょうだいが3人いるけど、3人とも連絡ない。

......

拓哉 地元だと、先生・警察より先輩が怖い。上の世代はやばかったみたい。昔はすごかったってよ。いじめもあったし。中学は、学年で10人くらい。幼稚園から中学までの10年、一緒のクラス。あわんかった。○○高に入ったけど、(同じ)中学から(進学したのが、俺)1人で。(中学の)同窓会行くけどおもしろくない。上の世代ともおもしろくない。シカトされたり、見てないふりしたり(されるから)。

 彼にとって家族との暮らしは落ち着けるものではなかった。家にいると、ことあるごとに父親と衝突した。きょうだいもバラバラに住んでいた。学校も雰囲気があわず、高校に進学したがなじめなかった。高校卒業後に就職したが長続きせず、仕事を転々としてきた。

拓哉 仕事がんばってるつもりなのに、やる気なしと言われるとむかつく。しょっちゅうこんな、(離島で働いてたとき)やる気ないって言われて、離島手当てカットされた。離島では、畑のビニールハウスを作ってた。初めての仕事で、わからなかっただけで、やる気ないって言われた。けど、同じ仕事の先輩がお酒おごってくれて、チューハイ飲んでた。「あんな言われてるけど、辞めんなよー」って、「おまえ辞めたら、近い年いないから、へんな(職場の雰囲気が悪くなる)どー」ってから(励ましてくれた)。

 やがて彼は、地元のヤンキーの先輩たちとつき合うようになった。先輩たちからは、地元の集会所で行われるエイサーの練習に無理やり参加させられた。エイサーというのは、沖縄の伝統舞踊の一つで、その主な活動場所は地元の公民館であった。

拓哉 エイサーは強制だから、エイサーも嫌。(練習)こなかったら、死なされる[暴行を受ける]。先輩、威張ってるのが1番嫌い。(エイサー)我慢してやった。(お酒の)コールは嫌い、ゆっくり話しながら飲みたい。すぐ、つぶれるし......。

 拓哉にとって、地元のヤンキーグループも居心地のいいものではなかった。エイサーを無理強いされるのが面倒だった。そして地元を出た。

■「名護はいいけど地元は嫌」

拓哉 1人で(バイクで)走って、こっち(中南部)で友だち欲しかった。目立ってると、先輩に因縁つけられるから。俺の年代で、俺が1番目立ってた。無免でバイク乗ってたし......。地元でうるさいとき、(全て)自分のせいにされた。

――バイクはいつまで(乗るの)?

拓哉 ずっとでしょ。死ぬまで。今は乗りたい。暴走族のバイク乗ってたら、先輩(五歳ほど上)がけちつけてくる。ケンカしたくないのに。痛いだけさ。この前、コンビニでたまたま(先輩たちに)会って、「ちょっとこっち来い」って言われて、やばいと思って行くふりして逃げた(笑)。地元(の人)は心が狭い。考え方が幼い、幼稚。ずっと根にもつし......。だから、ここ(浦添)で働いているわけよ。北部、楽しくない、名護はいいけど地元は嫌。同じバイクでも評価が違う。(バイクにデザインされた)二本線見て、地元では「だっさー」ってなるのに、名護では「(かっこ)いいやんにー」ってなる。名護の人はやさしいよ。

 彼は、北部の中心都市である名護で、自分のバイクを評価してくれる同世代と出会った。これをきっかけに、バイクを楽しむ仲間を中南部にも広げていった。彼にとって、地元のヤンキーの先輩らとつき合うよりも、中南部で出会った同世代の仲間たちと、毎晩行われるツーリングに参加する方が魅力的だった。

 出身中学ごとに暴走族がつくられ、そのつながりはそれぞれ強かったものの、地元意識の強い暴走族が互いに抗争を繰り返すような、排他的なものではなかった。前に触れたように当時のゴーパチは、沖縄の暴走族の若者たちが毎晩集う場所になっていた。ともに暴走を楽しみ、暴走族デビュー前の10代の少年たちが小型バイクで彼らを追走する。各所から集まってきたギャラリーがその場を盛り上げた。

 ゴーパチには、拓哉のように1人か少人数で見物する若者がたくさんいた。彼ら彼女らは、見物するだけでなく、自ら小型バイクに乗ってバイクの群れに合流し、深夜のゴーパチを楽しんだ。そして彼のように、そこに集った同世代に声をかけて交友関係を築く若者もいた。当時のゴーパチは、沖縄中の非行少年・少女にとって魅力的な場所になっていた。年齢の上下がものをいう世代間秩序がしかれた地元社会とは対照的に、ゴーパチでは地元や世代間の秩序を超えたつながりが作り上げられていた。ゴーパチは、孤立する若者たちのたまり場でもあった。

 拓哉にとって沖縄の地元社会は、相互に助け合うつながりとしての「ゆいまーる」とは対極的な過酷なものだった。当時、彼の地元ではリゾート地としての開発計画が頓挫し、廃墟ビルが残された。沖縄を象徴するものとして描かれがちな、ゆいまーるもリゾート地も、彼が生きる世界には存在しないに等しかった。

■はじめての土地で彼女をつくる

 拓哉は、生活や仕事の場を、地元から名護やゴーパチへと移す過程で、女の子をナンパすることを覚えた。それは、彼が新しい世界に適応するなかで身につけたことだった。拓哉つぶれかけたこと何回もある。

――そんな時どうするの?

拓哉 何もしない、(そのとき)いなぐー[彼女]がいたら、いなぐーと会う。だから、いなぐーいないときはきつい。俺、ナンパとかする人じゃなかったんだよ。「遊んでそう」って言われるのが嫌。実際違うから。出会いがない。昔の名護の友だちとつるむようになってから、ナンパはしだした。

 彼はひとりで名護に飛び込んでいった。そこでさまざまな困難にぶつかったときに、話を聞いてくれる彼女はおらず、精神的なきつさをひとりで抱え込むしかなかった。逃げるように飛び出した地元に再び帰ることはできなかった。そこで彼は、気の合う名護の仲間たちとナンパをして彼女をつくることを覚えた。生活環境が大きく変わり、新しい仕事に適応するなかで、彼が身につけたことの1つであった。

――今までつき合ってきた人はどんな人?

拓哉 地元の友だちの紹介。1カ月内地で働いて、いなぐー[彼女]とつき合うため帰ってきた。けど、あっちからふられた、俺は今まで(女の子を)ふったことないよ。(その子のことは)忘れられない。(新しい彼女とその人を)比べてしまうときがある。今は連絡とってない、(今はその彼女には)彼氏がいる。忘れようとするけど、絶対忘れない。ほんとに好きな人は、だんだん好きになる。つき合うのは、寂しさを紛らわすため。誰かそばにいて欲しい。

……

拓哉 (女の人とは)遊びたくない、それなら(女の人に)遊ばれる方がいい。(俺のなかには)浮気はない。どこにでも、いなぐーと行きたい。かわいかったら、自分のいなぐー(を知り合いに)自慢したいさ。「かわいいだろう」って。高校のときの彼女が忘れられない。(今は)彼女は1年以上いない。(エッチは)やれるんだったら、やるけど、好きな子(とするの)が1番好き。

......

拓哉 沖縄の曲が好きで、俺、三線ひけるってば。音楽は、いなぐーが好きって言ったら、(それに)あわせる。

■ナンパをする理由

 拓哉は、やんばるで生まれ育った。やんばるとは、沖縄県の北部地区のことで、その中心地である名護は、那覇から50キロほど離れたところにある。雇用環境が厳しい地域だ。拓哉は、名護からも離れたところにある集落で生まれ育った。彼は女遊びも浮気もしないと言い、地元で紹介されてつき合った彼女のことが今でも忘れられないと話してくれた。

 地元にいたときにはナンパをしたことがなかった。いつもつるんでいるメンバーの誰かとつき合うか、メンバーに紹介してもらって交際するケースが大半だった。いったん別れた後、再びその彼女とつき合うこともよくあった。誰が誰とつき合っているかは、周囲の誰もが知っていた。つき合う相手がいないときは、そのことをみんなが知っているため、交際相手を積極的に紹介してくれた。だから、ナンパをする必要はなかった。

 拓哉はその地元を後にして、名護に出てきた。地元で培った人間関係は切れてしまった。そのため、女性とのつき合い方や彼女をつくる方法も変えざるをえなくなった。名護や中南部の中心街では、自分から積極的に声をかけていかないと、彼女はできなかった。拓哉の場合、ひとりで名護に出てきたので、当初は同性の友だちもおらず、紹介してもらう見込みもなかっただろう。こうした環境変化に適応するために、彼は名護の同世代の若者とつるむようになって、ナンパをすることで彼女をつくることを教わった。仕事を失ったり、地元の先輩とトラブルになったり、孤独に襲われたりしたとき、拓哉は彼女と一緒に過ごすことで乗り切ってきた。

 頼る相手もおらず、ひとりで生活や仕事の場を変えなくてはならないなかで、彼女の存在はとても大きいものだった。彼は「マンコー、2カ月くってない(セックスをしていない)。(実家の庭の)マンゴーは2年食ってない。木があるけど実らない」と冗談を口にした。実家のマンゴーは誰も世話をしておらず、いまも実っていない。彼は家にも帰れず、頼れる交際相手もこのときはいなかった。

 拓哉の生活の風景には、リゾート地の廃墟ビル、実らないマンゴーがあり、ゆいまーるとは程遠い地元の先輩との過酷な関係があった。沖縄らしくない風景であっても、まちがいなく現在の沖縄を形作っていることを、私は彼から教わった。

(打越 正行)

関連記事(外部サイト)