ビルの裏に連行、パシリとして買い出し命令、卑猥な言葉を教わることも…沖縄・広島で出会った暴走族の若者たち

ビルの裏に連行、パシリとして買い出し命令、卑猥な言葉を教わることも…沖縄・広島で出会った暴走族の若者たち

撮影:打越正行氏

 生まれ故郷が嫌いだと吐き捨てるように言った沖縄の若者との出会いを原点に、社会学者・打越正行氏は、沖縄の若者たちの調査を始めた。生きていくために建設業や性風俗業、ヤミ仕事に就いた若者たち。かれらが就いた仕事も、生活スタイルもさまざまだが、その大半が過酷だった。

 そんな中で、若者たちはどのように沖縄を生き抜いてきたのだろうか。10年以上にわたって、かれらとつき合ってきた打越氏による『 ヤンキーと地元 』(筑摩書房)から一部抜粋して、紹介する。(全2回の1回目/ 後編 を読む)

◆◆◆

■暴走族のパシリになる

 私は広島市で暴走族少年らへの調査を進めるなかで、次第に暴走族のパシリとなっていった。パシリとは「使い走り」のことで、おにぎりの買い出しなど、先輩たちの指示を忠実に実行する役割である。50円玉1枚で3人分の牛丼を買って帰るよう、10代の暴走族リーダーの少年に言いつけられたこともあった。

リーダー これ(50円玉)で(牛丼を3つ)買ってきて。

――ぜんぜん足らないっすよ。

リーダー あとで払うから。

――お願いしますよ。

......(結局、追加で100円しかもらえなかった)

――1個50円になってるじゃないですか(笑)。

リーダー 打越、大人なのにお金にうるさいなー。

 普段はパシリとしてこき使うのに、支払いのときだけ大人扱いされた。当時は、パシリとしての役割をまっとうしようと気負っていたので、おにぎりを買う際には少し高めの、鮭と昆布のおにぎりを買って行った。リーダーの少年に渡すと、「なんでツナでないのか」とみんなの前で?責された。この暴走族チームではツナが定番となっていたのだ。リーダーは、ツナを人数分買ってくるのが常識だと、他のメンバーの前で私のことを?り飛ばした。深夜に暴走する彼らに、非常識だと?られた。

 ある週末のこと、暴走族のリーダーの少年が、「俺、最近警察に目をつけられているから、そろそろ補導されそうな予感がする」と話してくれた。私はその日、リーダーの少年に時間を割いて、話を聞いた。来週にも補導されるおそれがあったからだ。すると、帰り際になって、次期リーダー候補の後輩グループから、ビルの裏手に呼び出された。

後輩 おまえ調子にのっとんか。二度と来るな。(自分らが)OBなっても後輩の代になっても来るな。おまえ、リーダーにばっかり話聞いて、俺らには聞かんのんか。

――そんなことじゃなくて、リーダーが捕まるかもしれないって聞いたから。

後輩 黙れや。今まで録ったテープも使うなよ。使ったら許さんけえの。

――はー。

後輩 おまえ、いい気になるなよ。

■後輩から電話

 後輩たちは自分たちが無視されたと感じたようで、私はビルの裏でこのように責められた。その後、リーダーの少年は補導され、それを機に私は、このグループの集まりには参加しなくなった。それから数カ月たったある週末のこと、いつものように繁華街で他の暴走族の取材をしていると、私に出入り禁止を言い渡したあの後輩から電話がかかってきた。

後輩 おい、打越、おまえ、いまどこなあ。

――(広島)市内にいますよ。

後輩 おおー、よかった。おまえ、花買ってきてくれんか?

――おお、どしたん? 

後輩 今日、先輩の引退式なのに、花買うの忘れて困っとるんよ。

――でも、おれ、出入り禁止なのに大丈夫? 

後輩 ええわいや、そんなこともう忘れたわ。

――おっ、マジで? なら来週からまた通ってええ?

後輩 ええ、ええ、好きにせえ。花買って来いよ。

――わかった、ええの買うて持ってくけん、待っといて。

 私の出入り禁止もとけて、翌週から再びこの暴走族で行動をともにすることができた。禁じられていた録音データの使用も認められた。その後も、ことあるごとに、私の“非常識ぶり”は、みんなの前で暴露されることになった。中でも、ビルの裏に連れて行かれて私がビビった表情をしていたこと、取材中に私服警官に連行され取調室で事情聴取を受けたことは定番のネタで、後輩たちの前で何度も披露された。こうした経験を通じて私は、パシリとして調査を進めることは、自分に合っていると考えるようになった。パシリとして失敗をしても、それがきっかけとなって、彼らとより深くかかわる契機になり得ると気がついたのである。広島市でのこうした経験を経て、2007年に私は沖縄へ向かった。沖縄で出会った不良少年たちのことが忘れられなかった。なにより、彼らの現実から沖縄を考えなければ、先に進めない。そう思った。

響き渡る爆音―沖縄調査1日目―

 2007年6月21日、私は沖縄での調査を始めた。那覇市内のゲストハウスに拠点を据えた。フィールドワークをすすめるために、まずは移動手段として原付バイクをレンタルショップで手配した。メモ用紙、ボールペン、ICレコーダー、デジタルカメラ、パソコンをリュックサックに詰め込んで、原付バイクにまたがって調査に出発した。夜の11時を回っていた。

■暴走族グループに遭遇

 目的地は沖縄の幹線道路であるゴーパチ(国道五八号線)だ。ゴーパチに近づくにつれて、遠くでかすかに聞こえていたバイクのエンジン音が徐々に大きくなる。ゴーパチに出ると、さっそく暴走族グループに遭遇した。ちょうど彼らは暴走中だった。彼らは排気音が爆音となるように改造されたバイクに2人ずつ乗り、公道を徐行運転していた。後ろから後輩たちが小型バイクで追走する。爆音は夜の街に響き渡った。私は一般人を装って追走し、彼らが休憩するときに話を聞くことにした。すると、後方から別の暴走族がエンジンをふかしながら近づいてきた。抗争などのトラブルに発展しそうだと思い、それまで以上に一般人を装って距離をとった。

 先を走っていた暴走族が信号に引っかかり、後ろの暴走族との距離がどんどん縮まる。初日から暴走族同士の抗争に遭遇するのかと思い、あせった。とうとう、ある交差点で、後続の暴走族が前を走る暴走族に追いついた。なにもないことを祈るしかなかった。

 が、抗争は起こらなかった。それどころか、2つの暴走族は合流して一緒に走り出した。たまたま友好関係にあったのだと私は考えた。やがて、目の前の一団が、その前を走る別の暴走族に徐々に近づいていく。今度こそ抗争になると再び緊張した。

 しかし今度もなにも起こらず、2つの集団は合流して一緒に走り出す。一晩、行動をともにして、沖縄の暴走族はゴーパチで一緒に走るスタイルであることがわかった。彼らの間でこれは暴走ではなく、ツーリングと呼ばれ、異なる暴走族が途中から加わったり、下の世代がV100やV125といわれる(暴走族仕様ではない)小型バイクで追走したりするのが通例となっていた。それは気軽にバイクで走ったり、改造したバイクを互いに披露しあう交流の機会であった。

 この頃の沖縄には、離島やへき地、私立を除くほとんどの中学に、それぞれ暴走族があった。彼らは、マフラーやシートを改造した大型バイクに2人乗りしてゴーパチにむかう。大型バイクを運転するのは地元のリーダー格の先輩で、その後ろに乗って、(小売店の店頭にあるのぼりを失敬し、旗の部分を取り除いた)スティックを振り回すのが中堅のメンバーである。後輩たちは小型バイクに乗って、先輩たちのバイクを追走する。後ろから追突してくるパトカーを防ぐのが主たる役割であった。

 このように役割分担をしていたので、1つの暴走族は少なくとも五人、多い時には10人を超えていた。小型バイクの運転ができない15歳以下の少年は小型バイクの後部座席にまたがった。

 そして16歳になると小型バイクを運転し、その後は大型バイクの後部座席、やがて大型バイクの運転手と、年齢に応じてそのポジションも変わっていく。

■ゴーパチという舞台

 20歳すぎの地元の先輩たちはギャラリーとして見物し、後輩たちの暴走に「気合が入ってない」と判断すると、自ら110番して警察を呼びつけて、その場を盛り上げようとした。後輩たちは、警察の検問を強行突破したり、追走してくるパトカーに対して小回りのきくバイクで逃げ回ったり、公道を逆走したりした。こうした様子を一目でも見ようと、平日なら50人前後、週末なら100人以上のギャラリーが集まってきていた。

 国道を暴走する彼らは、ゴーパチという舞台の主役だった。警官たちはそれを盛り立てる脇役で、多くのギャラリーはその追走劇に興奮した。ギャラリーの男女比は7対3程度だった。時に暴走族少年らはパトカーに追突され、捕まった。パトカーに押し込まれた彼らは、警官に激しい暴行を受けた。取調室でも、顔以外の部位に殴る蹴るなどの暴行を受けた。それは違法な取り締まりだから弁護士へ一緒に相談に行こうと私が提案しても、彼らはその不法行為を訴えようとはしなかった。

 私の感覚では、日本の法律は国内ならどこでも一律に適用されるものだ。だが、暴走族の少年たちにとっては、そうではなかった。地元は彼らの領分であり、先輩が正しい。他方で、パトカーの車内や取調室は相手の領分で、殴られても仕方がないと彼らは考えていた。地元の論理と警察の論理がぶつかり合うのが、ゴーパチだった。

 そこは地元の中学生が一人前の暴走族としてデビューする場所でもあった。地元の先輩たちはそんな彼らを見守った。自分が現役だったときと比べて「気合が入ってない」と活を入れることが多いが、ごくまれに「最近の若いのはやるな」と評価することもある。運転技術に磨きをかけた少年たちがパトカーと張り合い、警察を翻弄することもあれば、ハンドル操作を誤って痛い目に遭うこともあった。そうした出来事を、時に100人以上のギャラリーと共有できる空間、それが当時のゴーパチだった。

■卑猥なうちなーぐち

 沖縄の暴走族やヤンキーの調査を始めて間もない頃、複数の暴走族や追走する少年たちを追いかけていると、ある集団が休憩のためにコンビニ前に止まった。思い切って私は、20歳前後の5人組に声をかけてみた。

――東京から取材に来たんですけど、少し話聞かせてもらえないですか?

少年 『チャンプロード』(暴走族専門雑誌)?

――『チャンプロード』ではなくて、学生なんだけど、ダメですか?

少年 なんだ。何の話聞くの?

――仕事の話とか、将来のこととか、教えてほしいんですが。もしよかったら、グループに入れてもらえんですか。

 暴走族雑誌の記者ではなくて、内地から来た「学生(大学院生)」であることを伝えると、彼らのテンションは下がったようだった。

少年 お兄さん、内地の人?

――うん、東京から来たけど、生まれは広島です。

少年 だったら、まずは方言覚えんと。

――おー、教えてよ。

少年 「わんねー、ほーみーしーぶさっさー」ってわかる?

――なんて意味?

少年 「沖縄の人は良い人で、幸せをありがとう」って意味だから、女の人に会ったら使ってよ。

――おおー、いいねえー。教えてくれて、ありがとう。

 話が弾んでいるように思われるかもしれないが、実際はぎこちないやり取りだった。少ししてから5人組の1人が、「さっきの方言は「エッチなことをしよう」って意味だから、使っちゃだめだよ」と教えてくれた。この5人組からは、「ホーミー[女性器]」とか「しかす[ナンパする]」といったうちなーぐち[沖縄方言]を教わった。( #2 に続く)

「沖縄嫌い、人も嫌い」 地域の担い手でもなく、地元の青年団からも排除される沖縄のヤンキーたち へ続く

(打越 正行)

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