「むんむん動物のにおいが…」猿芝居、犬の踊り、熊や虎の見世物小屋…政府に見くびられた“銀座”が日本初のベッドタウンになったワケ

「むんむん動物のにおいが…」猿芝居、犬の踊り、熊や虎の見世物小屋…政府に見くびられた“銀座”が日本初のベッドタウンになったワケ

「従京橋新橋迄煉瓦石造商家之図」国立国会図書館デジタルコレクションより

「なぜ銀座は一時ベットタウンになったか」「なぜピカチュウは町田出身のクリエイターから生まれたのか」など、日本の首都「東京」には多くの謎がある。

 そんな「東京」の23もの「謎」を解き明かしたのが、『家康、江戸を建てる』をはじめ、これまで東京について数々の著書をものし、近現代建築にも造詣の深い門井慶喜氏による『 東京の謎 』(文藝春秋)である。同書より一部抜粋して、銀座と東京駅の謎について紹介する。(全2回の1回目/ 後編 を読む)

◆◆◆ 

第1回 なぜ銀座は一時ベッドタウンになったか

■災害復興事業の「銀座煉瓦街」

 その街はむんむん動物のにおいがした。猿芝居、犬の踊り、熊や虎の見世物小屋......浅草や両国ではない。銀座の話である。銀座に見世物小屋があったのだ。

 とにかく毎晩たいへんな人気だった。明治8年(1875)8月31日付「郵便報知新聞」には、午前1時すぎまで騒がしかったとあり、新橋よりゑびすやの辺が最も人通り繁しげく......うんぬんとある。もしも「ゑびすや」というのが松坂屋の別号をさすとしたら、現在のGINZA SIXだろうか。新橋からだと人の列がそうとう長い。もちろん当時の新聞はしばしば平然と事実を誇張するので割り引いて読まなければならないが、のちに日本最高級の商店街になり繁華街になる銀座の街も、こんな一時期があったことは確かだった。

 つまりはそれほど廃(すた)れていたのだ、と言うことができたら話は単純でいいのだが、ややこしいことに、当時の銀座は最高級の住宅街でもあった。その少し前、明治5年(1872)の火事で街そのものが丸焼けになり、政府が新しく、

─銀座煉瓦街。

 というものを建てたのである。

 災害復興事業である。これにより銀座通りは拡張されて現在とおなじ広さになり(現在の中央通り)、ガス灯が立てられ、その左右には2階建て、煉瓦造、ただし外壁を白く塗られた住宅がずらりと建ちならんだ。

 まったく非日本的な光景になったわけだけれども、くりかえすが住宅である。お客が呼べる街ではない。銀座はしょせん商店街や繁華街にはなり得ないと政府に見くびられたのである。

■中途半端な立地で無個性な街

 ここが銀座のつらいところである。何しろ立地が中途半端だった。商店街なら北に日本橋という徳川期以来の「都心」があるし、繁華街なら南に新橋がある。新橋もやっぱり徳川期以来の花街だから、或る意味、東京でいちばん酒がうまい場所である。

 その日本橋と新橋のちょうどまんなかにあって、どっちにもなれない無個性な街。ただ広大なだけの真空地帯。こういう場所が、極端にいえば、

─寝られりゃいい。

 という場所になりやすいのは、むかしもいまも変わらない。銀座という街はこうして日本初の衛星都市、日本初のベッドタウンになった。そのくせ東には築地があり、当時は外国人居留地があったから、彼らの目も意識しなければならない。政府がけっこうなお金をかけて建物を煉瓦造にしたのはこのためである。

 すなわち「銀座煉瓦街」はかならずしも銀座史の名誉とばかりは言いきれないのだが、そうなると、つぎの疑問は、そもそも銀座をこんな目に遭わせたのは誰かということ。 

 ややスキャンダラスに言いかえるなら、誰が銀座を殺したか。

 結論から言うと、その犯人は大阪だった。

■徳川幕府の銀貨鋳造所「銀座を奪われた銀座」

 あの明治5年の火事をさらにさかのぼれば、銀座には元来、徳川幕府の銀貨鋳造所があった。この鋳造所の名がすなわち「銀座」、こんにちの地名の由来であることは人も知るとおりだが、よく考えてみれば、貨幣の鋳造とはたいへんな人間のいとなみである。金属をとかし、打ち延ばし、偽造防止の印刻をほどこす総合理工学プラントを運用しつつ、しかも国家の金融政策に即応する。

 その場所はそうそう引っ越しできはしないし、また、してはいけないのだ。実際、おそらく維新時も、

─鋳造所は、ひきつづき、銀座跡へ設けよう。

 という案もあったのではないか。だが結局のところ新政府は、明治2年(1869)というびっくりするほど早い段階で、それを大阪に設けることを決めた。

 何とまあ500キロメートルも離れたところへ移したのだ。銀座は銀座を奪われた。新天地は幕府の材木置場跡。これがつまり造幣寮(現在の造幣局)である。そこでの「桜の通り抜け」がこんにち大阪の春の風物詩であることは、少なくとも大阪人には有名である。

■首都は江戸へ

 なぜこんなことになったのか。それはおそらく、日本の首都と関係がある。日本の首都は、

─浪華(なにわ)に置くべし。

 というのは、じつは維新直後というか直前というか、あの幕府相手の鳥羽伏見の戦いに勝った時点でもう新政府内の有力な案だった。

 ことに大久保利通が強硬に主張した。理由の詳細ははぶくけれども、大久保は大阪が好きだったというより、京都だけは嫌だったのだろう。なぜなら天子のまします御所のまわりには無駄と迷信と自尊心にみちみちた公卿どもが幅をきかせていて、そのとりなしに大久保はたいへん苦労していたからである。これから西洋諸国を追いかけよう、政治も経済も社会制度も一新しようという門出のときにこういう王朝の亡霊に足をぐいぐい引っぱられるのは、大久保には忍耐しがたいことだった。

 ところがその後、江戸が無血開城と決定する。江戸は火の海になると思いきや、どうも無傷で残るらしいのである。となると、

─首都は、江戸へ。

 この論が、たちまち新政府内の主流になった。大久保も考えをあらためたようである。

■国家存立の第一条件だった「貨幣づくり」

 結局こちらが実現のはこびになったので、江戸は東京と改名し、天皇は江戸城(皇居)に住むこととなり、ひとまず遷都が完成した。

 この間、わずか半年あまり。ただし造幣寮の計画は、このほんの一時の「大阪時代」において立案され、用地まで決められている。いまさら変更もできないというので、そのまま大阪に建ってしまった。

 いやいや変更すればいいじゃないか、少々まわり道になっても一から東京で計画を立てなおすほうが結局は能率的だろうと言うのは事情を知らない後世である。何しろ貨幣づくりの可否というのは、近代史では国家存立の第一条件。欧米諸国に対して、

─俺たちは、ただの田舎侍じゃない。ちゃんと日本を統治できる。

 ということを示すためには、論より証拠、大阪だろうが何だろうが即座にやらなければならなかった。造幣寮の創業式は明治4年(1871)2月。たった2年後。よほど急いでいたことがわかるだろう。造幣寮はこうして大判とも小判ともちがう近代的な硬貨を鋳造しはじめたのである。

■ベッドタウンになった銀座

 余談だが、この大阪における硬貨鋳造は、もちろん外国人の助言のもとにおこなわれた。

 まずはデザインを決めるというとき、イギリス人造幣寮首長T・W・キンドルが、「世界では、硬貨には国王の肖像をきざむのが一般的である。君民相親しむ一助になる。日本もそうしたらどうか」と勧めたところ、日本政府の返答は、

─不許可。

 その理由は、「天皇の尊顔へ、民衆のきたない手でふれるのは恐れ多し」というものだったという。このあたり、洋の東西における君主のあつかいの差が如実にあらわれていておもしろい。とにかく大阪でこんなふうに工場が本格的に稼働すると、銀座のほうは仕事をなくし、ただ広大なだけの真空地帯になったわけだ。

 そのあげく「銀座煉瓦街」なるベッドタウンになった。二階建て、煉瓦造、白い外壁。

 その上ふたをあければ入居者はあつまらず、空家だらけ。あんまり街なみが西洋的なため、価格も高いし、日本人には落ち着かなかったのだろう。昼はずいぶん静かだった。夜もおなじだったのではないか。

 そうして住宅街というのは、人が住まないと空気がよどむ。たちまち柄が悪くなる。これまた古今を問うことがない。かくして猿芝居、犬の踊り、熊や虎の見世物小屋があらわれて、郵便報知が取材に来た。のちの銀座の上品さ、はなやかさを知る私たちは、しばしば、

─この街の発展は、はじめから約束されていた。

 などと言ってしまいがちであるが、それは安直な伝記本とおなじ。誰それは子供のころから英雄でした、立派でしたなどという結果論的な逆算にすぎないのである。

第2回 なぜ「東京駅」は大正時代まで反対されたか

■小さく見える、東京駅の赤煉瓦の駅舎

 東京駅ってなんて小さいんだろう、と思うことがある。

 もちろん現在のそれは1日あたりの列車発着本数が4100本という日本のまさしく大玄関なのであるが、しかしたとえば丸の内中央口から少し皇居のほうへ歩いたところで振り返ると、意外にも、赤煉瓦の駅舎はあっさり一望できてしまう。プロポーションが極端に横長であるにもかかわらずである。

 もともと人間の視野そのものが横長だからでもあるにちがいないが(テレビやPCのディスプレイの形状はこれに対応したもの)、それ以上の理由はたぶん、皇居にむかって建っていることだろう。皇居とくらべれば、どんな建物もまあ大きさを誇ることはできない。

■東京駅は「中央停車場」だった

 東京駅の開業は大正3年(1914)12月18日、いまから100年あまり前の冬であるが、設計者・辰野金吾はこの点ちょっと損をした。

 ところでこの東京駅、建設中はべつの名前だった。「中央停車場」。ここでの中央とは東京のまんなかというよりも、むしろ鉄道網の核心というような意味だっただろう。何しろ当時の路線図を見ると、まるで円形のバリアでも張ったかのごとく、そこだけぽっかりあいている。

 こんにちの路線名・駅名でいうなら東海道本線は新橋で、中央線は飯田橋で、東北本線は上野で、総武線は両国で、それぞれバリアに阻まれて内部へ入りこむことができない。

 だから乗客がたとえば大阪から青森へ行こうと思ったら、新橋ー上野間の路線がとだえる。市電かバスで移動しなければならない(現在の東京メトロ銀座線の開通は昭和9年〔1934〕)。なかなかの距離である上に、貨物はさらに面倒である。当時の鉄道には軍需物資をはこぶという、或る意味、人間をはこぶより重要な使命があった。

「中央停車場」という駅名は、まずまず理由があったのである。それが「東京駅」になった。正式に決定したのは大正3年12月5日付の鉄道院総裁達113号による、ということは開業のたった13日前。ぎりぎりもぎりぎり、看板などの用意は間に合ったのかと余計な心配もしてしまうほどだが、どちらにしろこの余裕のなさは、はしなくも、鉄道院内部でよほどの議論があったことを露呈してしまった。反対派がそうとう粘ったわけである。

「東京駅」反対派の論拠のうち、いちばん目立ったのは、

─東京は、ここだけが東京じゃない。

 神田も赤坂も目黒もやっぱり東京じゃないか。というものだった。この主張は一理あるように見えて、じつは大きな隙があった。この時点ではもう大阪には大阪駅があったし、京都には京都駅があったからである。しかも大阪駅は明治7年(1874)開業、京都駅は明治28年(1895)改称だから(それ以前は「七条停車場」だった)、先例はずいぶん前に成立していた。

 それをなんでいまさら蒸し返すんだ、おかしいじゃないかと言われれば答に窮するのは当然であり、だからこそ結局は言い負かされたわけだけれども、しかしとにかく、くりかえすがこの反対論はぎりぎり開業13日前まで粘りぬいたわけで、べつの言いかたをするならば、大阪や京都ではすんなり決定したものが、東京では揉めた。それほど「東京駅」は違和感があったということなのである。

■頼りない地名「東京」

 ここに東京という街のおもしろさがある。その違和感の理由はいろいろ考えられるが、いっとう根本的なのは、そもそも彼らが東京という地名に慣れていなかったことだった。

 ここで言う「彼ら」とは、駅名をきめる局長会議に出席した人ととらえてもいいし、一般市民ととらえてもいい。大阪や京都の人々はちがった。おのが地名になじんでいた。

 ずっと前から存在していたからである。もちろん徳川時代には大阪は表記が「大坂」だったし、京都は「京」「京師」「みやこ」などと称されたが、心理的には連続性がある。むかしとつながる実感がある。

 だから駅名に採用しても「まあいいか」とわりあい大様になれたのである。いっぽうこちらは、もともと江戸という名前だった。

 東京などという地名はごく最近、そう、東京駅の完成から見ればたかだか50年くらい前にとつぜん世にあらわれたものにすぎず、それも江戸っ子がみずから変えたものではない。維新の元勲といえば聞こえはいいが要するに田舎から来た志士あがりの連中がどさくさまぎれに押しつけたものにすぎない。要するに徳川時代には神田も赤坂も目黒もあった。ただ東京だけがなかったのである。

 それくらい頼りない地名であってみれば、あの「中央停車場」案にぎりぎりまで土俵を割らせることができず、薄氷の勝利を余儀なくされたのも無理はなかった。逆にいえばここで「東京」はようやく市民のものになったわけで、私には、この東京駅開業の日こそが真の東京の生誕の日であるように思われる。こんにちあの駅の駅舎がこんなに小さく見えるのも、ひょっとしたらそのせいかもしれないのだ。

 人間の視野が横長とか、目の前に皇居がとかいう以前に、そもそもその生誕の残像がいまだ消えていないから。赤んぼうの絵が重なるというか何というか。なおロンドンにロンドン駅はなく、ニューヨークにニューヨーク駅はない。

【後編】もしピカチュウが町田で生まれていなかったら? 「ポケモンの姿かたちは妖怪寄や神獣寄りに…」

ポケモンが世界的な人気を博している秘密は“町田”にあった?「もし町田じゃなかったらポケモンの姿かたちは妖怪や神獣寄りに…」 へ続く

(門井 慶喜/文春新書)

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