大河ドラマ『青天を衝け』では橋本愛演じる妻・千代と愛人はほぼ同時期に出産…“妻妾同居”の実態

大河ドラマ『青天を衝け』では橋本愛演じる妻・千代と愛人はほぼ同時期に出産…“妻妾同居”の実態

大河ドラマ『青天を衝け』で主演をつとめる吉沢亮 ©朝日フォトアーカイブ

大河ドラマ『青天を衝け』で身重の愛人が…橋本愛演じる妻・千代“烈女”の実像「命も捨てようと」 から続く

「文藝春秋」9月号より「渋沢栄一『2人の妻とお妾さん』」を公開します。(全2回の2回目/ 前編 から続く)

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■「妻妾同居」が機能していた

 当時、一定以上の地位についた男がお妾さんを養うことは珍しくもなく、妻もそれをわかっていたので、「妻の運営する家族という組織にお妾さんがいる」のは不思議なことではありませんでした。

 たとえば東邦電力などを興して「電力の鬼」といわれた松永安左エ門という人の妻は、自ら夫の妾を選んでいたといいます。本当に女好きでお妾さんがたくさんいた彼ですが、実は妻がすべて「この子はダメ、この子ならオッケー」と差配していた。さすがに妻が妾を選ぶというのは他に聞きませんが、実は渋沢家にも、千代と一つ屋根の下でともに暮らすお妾さんがいました。

 明治4年、渋沢が31歳で大阪に赴任していたときに出会った、大内くにという女性。くにを現地妻とした渋沢は、千代の許可を得たのち神田の新居へ彼女を連れ帰り、同居させています。しかも2人はほぼ同時期に子どもを産んでいる。

 千代、その妹、渋沢の妹、そしてくにが並んだ集合写真が残されていますが、くにの堂々とした写りっぷりたるや、まるで『大奥』のような「妻妾同居」が、渋沢の良き子孫を残すための合理的システムとして機能していたことがよくわかります。実際、渋沢と千代の間に生まれた子どもたちは、幼い頃からともに暮らしたくにに非常に懐いていました。千代をコレラで亡くしたあと、渋沢がくにではなく外から後妻を迎えることにひどく反対したほどだといいます。

 明治の世、支配階級に成り上がった元幕臣たちは妻妾どちらとの間にもたくさん子どもを作りました。

 すさまじい例だと、大蔵大臣だった松方正義には子どもが26人いて、明治天皇に「また生まれたか。いったい何人目だ?」と聞かれたとき、「……後日調査の上、ご報告申し上げます」と答えたとか。自分でも何人いるのかわからなくなっていたのですね。

■「渋沢家の境界」を明文化

 この頃、お妾さんを持つということは経済力の証明でもありました。お妾さんとその子どもたち全員に経済的援助をすることを意味していたから。逆にいえば、女性にとって、妾という立場はセーフティネットでもあったわけです。貧しいからと遊郭に身を沈めると、梅毒など性病にかかって命を落とすリスクが高かった。代わりに、お金持ちのお妾さんになって生活を保障してもらう人がけっこういたのです。

 渋沢は、お妾さんの子どもに対し単に経済的支援だけでなく、きちんと養育責任を果たさなければと思っていて、優秀な部下に嫁がせたり、渋沢家一族に加えることで社会的な地位を保障していました。さらに、自分の死後起こりうる嫡出子・非嫡出子の間での骨肉の争いを懸念し、「家法」というものを定めて「渋沢家の境界」を明文化してもいます。

■粋な話術と巧みな歌でモテる

 そんな甲斐性もあって、渋沢はモテた。背は低かったけれど明治の人にしては珍しく弁が立ったから、芸者さんとの座でも人気だったのでしょう。

 そうそう、彼は音感もよかったといいます。妻でありいとこである千代の血筋の尾高家からは、音楽家を何人も輩出しています。「青天を衝け」のテーマ曲を指揮している尾高忠明さんは実は渋沢のひ孫で、父も兄も作曲家です。渋沢は「井上とか伊藤は音痴でだめだったけど、俺はちゃんと歌えた」なんて自慢しているくらい、酒と女がいる場での歌には自信があったのでしょうね。

 千代も「真の色男とは、万事に通じ物のあわれも知って居て、女子から命がけで慕われる程なのを云うのです」と言い、夫が一流の男になるには色気が必要で、それは女性との交流から生まれるものだと達観していたほど。たしかに、他の女の人にモテそうもない男を亭主にしたくないですよね(笑)。

 とはいえ妻たちがいくら妾の存在を頭で理解していても、感情面ではそれを苦にすることもありました。

 特に後妻のかねは晩年、ようやく悟ったように「父様も論語とは旨いものを見つけなすったよ。あれが聖書だったら、てんで教えが守れないものね!」と、笑いながら言ったと秀雄は回想しています。論語においては孔子自身が歌舞音曲を非常に重んじていましたが、当時の歌や踊りといえばまず間違いなく女性を伴った席だったのです。

■渋沢の女性スキャンダル

 59歳のとき、渋沢はいわゆる“スキャンダル”をすっぱ抜かれます。

「渋沢栄一は深川福住町4番地の自宅に大坂より連れ来りし田中久尾(28、9)という古き妾あり。日本橋浜町1丁目3番地の別宅には元(も)と吉原仲の町林家小亀こと鈴木かめ(24)なる妾を蓄(やしな)う」

 黒岩涙香の発行する『万朝報(よろずちょうほう)』に妾の名前や出身地を暴かれたのです。妻妾同居のみならず、別宅に複数の愛人を囲っていたことが明らかにされてしまいます。

 明治時代の雑誌ジャーナリズムは大きな発展を見せていました。黒岩は社員を使って有名人を尾行させ、何日も張り込んだり周囲への聞き込みをしたりして彼らの女性関係を暴くというスキャンダル・ジャーナリズムの走りをやっていた。『万朝報』は当時の『週刊文春』、文春砲の元祖ですね(笑)。

 では、女性関係を書かれた彼が今の政治家や芸能人のように窮地に追い込まれたかというと、別にそうでもない。今ほど大事にならなかったのは、人は自分とあまりにかけ離れた存在に対しては嫉妬の情を抱きにくいからかもしれません。当時、渋沢は一般庶民には手の届かない地位の人でしたから。

■渋沢の時代から大きく変わったモラル

 現代ではSNSによって、有名人だろうと自分に近しい人だという意識を持ちやすくなっていると思います。自分と大差ない人間だと思っているからこそ嫉妬する。だから、不倫など特に女性やお金が絡む問題は非難されやすいのではないでしょうか。自分はだめなのに、どうしてアイツは許されるんだ、と。

 また戦後70年間で日本にアメリカ的なモラルが浸透したことも大きいと思います。恋愛で結婚をし、その絆によって家族を守るというのが理想とされました。これは渋沢の時代から大きく異なります。

 さらに核家族化が進んだことで、家族関係を揺るがす不倫が問題となりやすくなったのかもしれません。

 ちなみにフランス的モラルは正反対。「メナージュ・ア・ラ・パリジェンヌ」(パリ風の夫婦)という言葉がありますが、どういうことかというと、結婚しても夫は浮気する。妻も浮気する。19世紀のパリの上流階級ではこれが当たり前でした。カトリック教国のフランスでは、女性は結婚により処女性を失ってはじめて恋愛ができるようになったのです。

 上流階級の夫婦の宮殿はだいたいコの字形をしていて、片方の棟にムッシュ、もう片方にマダムが暮らしています。2つの棟は真ん中でつながっていて食堂がある。夫と妻は朝、それぞれの棟で目覚めると真ん中の食堂で一緒に朝食をとりますが、そこで事務連絡をしたら夫婦生活はおしまい。ムッシュの棟には女の人が、マダムの棟には男の人が訪ねてくるわけです。バルザックの小説なんか読んでいると、朝ごはんに妻の愛人が加わる場面が出てきたりするんですよ(笑)。

 ただ結婚については、フランスでも恋愛ベースではなく家と家との契約だった時代が長く、今でも所有財産を明文化するなど結婚契約を交わします。極端なことを言えば、スプーン1本まで明記する。そんなわけで、今や結婚と同棲の中間くらいの形態であるPACS(民事連帯契約)を選ぶ人の割合がかなり増えてきました。もはや法的な結婚が意味をなさなくなってきたのです。フランスはそういう風に恋愛、結婚の形を進化させてきました。

■当時の日本には「恋愛」が存在しなかった

 一方の日本では、もともと恋愛感情という概念自体が希薄で、明治20年に二葉亭四迷が書くまでは存在しなかった。夏目漱石も書くのに苦労したというけれど、性愛と恋愛感情の区別というのは難しく、それまでの人々は理解できなかったと思います。そもそも概念がなければ認識のしようもないし。

 恋愛と資本主義は放っておいてもできるものじゃない。私の持論では、恋愛は男女が一定空間に一定時間閉じ込められない限り不可能です。だからフランスの舞踏会は格好の社交の場だった。パリで舞踏会を見た渋沢は「おお、そういうものか」と感心して、日本でも鹿鳴館や首相官邸などでの仮装舞踏会に参加しています。

 後年、渋沢が設立に尽力した東京女学館。「良妻賢母を育てる」というのは建前で、実際は鹿鳴館時代に踊りと会話のできる女性を育成するために作られた学校です。当時、舞踏会なんてやっても、踊れる女性といえば井上馨夫人武子や大山巌夫人捨松くらい。急いで育てる必要があったのです。

■“マッチングばあさん”の存在

 だいたい、夫婦の関係が家庭の共同運営者から恋愛中心になったのだってごく最近のことです。日本はそれまでの家を重視したガチガチの結婚と、新しい自由な恋愛結婚の中間として見合いというものを考え出したのではないかと思います。

 各地域に必ずお見合い話を持って回る女性がいて、僕の記憶だと、だいたいはその家にマッサージしにくるおばさんが多かった。肩とか叩きながら、「お宅の何子ちゃん、そろそろいい歳じゃない?」とか言ってマッチングしていくわけ。“マッチングばあさん”の前は、往診に来る医者がその役割を担っていました。辞書には「慶庵」という言葉が立項されていますが、「江戸京橋の医者大和慶庵が縁談の仲介をしたことにちなむ」と書かれています。これが転じて、慶庵=「口入れ屋」になったのです。

 渋沢の時代にも奉公人などを斡旋する慶庵があって、豪商から没落して途方に暮れていたかねを渋沢家に紹介した。こうしてかねは妾として渋沢の家に迎え入れられたのだけど、おそらく渋沢が思いのほか彼女を気に入ったので、千代亡きあと後妻に迎えられました。

■カリスマ的な支持を集めた理由

 では女性関係に甘く浮名を流した渋沢が、なぜここまでカリスマ的な支持を集めていたのか。やはり、私心がなかったことに尽きるのではないかと思います。

 渋沢の時代の国家観というのは今とはまったく異なりました。国家は生まれたばかりの赤ちゃんのように非常に弱く、何かあるとすぐ死んでしまう。だから死なないようきちんと育てなければ、と考えられていたのです。だからこそ彼は、自分がパリで見てきたヨーロッパの近代的な経済システムをもって国家を安定させねばという気持ちが強く、それは2人の妻や子どもたちにも伝わっていたのでしょう。

 類まれな経営手腕を発揮し、「日本資本主義の父」とまで呼ばれた渋沢。生き馬の目を抜く闘いをくぐり抜けた彼も、女性に弱いという自分の弱点は自覚していたらしい。

「明眸皓歯に関することを除いては、俯仰天地に恥じない」
 
 晩年、彼は自分の人生を振り返ってそう述べています。明眸皓歯、つまり美人がらみの色恋沙汰を除けば、自分は一切恥じることのない人生を送ってきた、と。

 彼の私生活を紐解き浮かび上がってくるのは、人格者渋沢栄一が「明眸皓歯」に見せた、もう一つの顔なのです。

(鹿島 茂/文藝春秋 2021年9月号)

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