大統領夫人と製造した“シャブ”を日本へ密輸した黒幕…石原裕次郎のクラスメイトだった男による「覚醒剤輸入作戦」の実態

大統領夫人と製造した“シャブ”を日本へ密輸した黒幕…石原裕次郎のクラスメイトだった男による「覚醒剤輸入作戦」の実態

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 いまも日本に蔓延る違法薬物。なかでも覚醒剤は高額で取引され、その利益の一部はヤクザのもとへと流れ込んでいる。果たして、日本で覚醒剤が流通し始めたのはいつからなのか。どのような経緯で覚醒剤取引が始まっていったのか……。日本覚醒剤史について調べていたノンフィクションライターの高木瑞穂氏は、自身を“日本に麻薬を広めた男”と語る男、和久井氏に話を聞く機会を得た。

 ここでは、高木氏が和久井氏の話をもとに関係者へ取材を行い、執筆した『 覚醒剤アンダーグラウンド 』(彩図社)の一部を抜粋。政府高官も絡んだ覚醒剤ビジネスの驚きの実態を紹介する。(全2回の1回目/ 後編 を読む)

◆◆◆

■ワタナベゲンの正体

 1935年。韓国で生まれた渡辺は、終戦で引き揚げた後、慶応高校卒業、慶応大学法学部へと進学した。クラスメイトだった昭和の大俳優・石原裕次郎が中退すると、後を追うように、彼も中退。日本経済新聞社記者になり、図らずしてフィリピン政府高官・バルバ(マルコス大統領の義理の弟)と知り合った。大新聞の肩書きにフィリピン政府のパイプ。傍からみたらエリート街道そのものだったろう。

 だが精鋭もギャンブルにのめり込むまでの話だった。パチンコや麻雀に飽き足らず、ヤクザが仕切る違法賭博場にまで手を出した。博打三昧の生活を求めて大阪・中央区の大手先物取引会社「西田三郎商店(※現在は閉業)」に転職までしたのである。

 和久井が渡辺と知り合ったのは1967年ごろ、和久井が逮捕されてから直ぐのことである。和久井が兄弟分の泉三郎と仕切る大阪・高津の本引き賭博場に当時、西田三郎商店の課長をしていた渡辺が客として遊びに来たのがきっかけだった。

 渡辺と顔見知りになった賭場の客たちが渡辺の誘いに乗って高レート麻雀で身包みを剥がされたのは、それから直ぐのことだ。

「ワタナベゲンが後に国際ゴルフの社長になる人間と組んでイカサマを仕掛けた。それで5人の被害者が出たんだ」

 方々でカモを見つけてはイカサマを繰り返していた2人。被害総額は、賭場の客だけでも当時のカネで2000万円にのぼっていた。激しいキリトリに耐えかねた5人が和久井を頼り、コトは発覚したのである。

 そこで和久井はヤクザ組織の客分としての本領を発揮する。

「ワタナベゲンと、後に国際ゴルフの社長になる男を拐ったの」

 賭場の客には返金させ、残りの利益を折半することで話をつけた和久井。こうして詐欺師とケツモチとでも言うべき関係が始まった。

 ここで、獄中記(編集部注:覚醒剤の密輸で逮捕された渡辺は週刊誌に獄中記を発表していた)には記されていない渡辺とフィリピンとの接点にも触れておきたい。

 彼は和久井の賭場で、同じく賭場の常連だった和久井の先輩である右翼団体・日本皇民党の稲本虎翁とも知り合ったという。そもそも稲本虎翁は、皇民党を作る前は白神組の幹部で、和久井の先輩にあたり、和久井が紹介したそうだ。

 白神組には“影下のマー坊”という稲本虎翁の兄弟分がいた。影下は、若い頃から麻薬(ヘロイン)で有名な五島組の連中と付き合い、「香港・台湾・タイ・フィリピンにシノギの件で行っていた」という。

 ヤクザは当時、和久井いわく麻薬・保険金殺人・臓器売買を当たり前のようにシノギにしていた。殺人事件で7年間服役した影下は出所後、白神組に戻らずヤクザをやめて密輸・密売などの非合法商売に走った。ゆえにフィリピンにも頻繁に飛んでいたそうだ。

「フィリピンへは最初、五島組のルートで行ったと聞いている。そして香港、台湾、タイなどと同様にフィリピンにも拠点を作った」

 ともかく、3人は和久井の紹介で自然に出会い、影下と渡辺は2人で頻繁にフィリピンへ出向くようになる。

■「コレを売って返済しろ」借金返済の代わりに5キロの覚醒剤を…

 渡辺はカネになるなら何でもする男だった。また先物取引の営業課長であることから、多くの上客を抱えていたばかりか、口八丁手八丁で詐欺まがいの販売をする天才でもあった。

「上客を温泉に連れて行って、シャブを与えて女を抱かせ手籠めにしちゃう」

 ヤクザから仕入れたシャブで客を溶かしたと和久井は言った。シャブはあくまで先物商品を売る道具に過ぎなかった、まだこのときは。

 覚醒剤の密輸に乗り出したのは、和久井に追い込みをかけられたからである。

「ワタナベゲンが仕手(先物取引)で失敗して俺の知り合いの男を大損させたんだ」

 渡辺の熱意とシャブにトロけて大金を投じた知り合いの男。〈万が一の場合は補填をします〉と署名入りで書かれた保証書が安心材料だった。が、あろうことか渡辺はその保証書を反故にした。

 そこで仲裁に入るのがトラブルコンサルタントの和久井だ。知らぬ存ぜぬを貫く渡辺に苛立ちながらも、ある妙案を思いつく。

「また俺の賭場に誘ってポンコツをかけた」

 ポンコツ。イカサマを現すアングラ・カジノ用語である。ギャンブル中毒の渡辺は見事に借金だらけになった。

 追い込まれた渡辺に、和久井は先物大手の元課長の手腕を見込んで言った。

「コレを売って返済しろ」

 逮捕時に押収を免れた、大阪の社長の工場に残っていた5キロの覚醒剤だ。しかしキリトリ依頼から数ヵ月後、渡辺は西田三郎商店を辞め國粹会の山田政雄と組み東京・兜町で小さな証券会社を始めるなど裏稼業から足を洗おうとしている時期だった。

「和久井さん、いまはマトモな商売をしているんでもう、勘弁してください」

「そうだよな。なら借金はどうするんだ? 最後にコレだけは請負え」

 和久井の事務所に東声会の幹部が押しかけてきたのは、その数日後のことだ。山田政雄に助けを求めたに違いない。

「話は聞いてるよ。本人は嫌がってるんだから手を引いてくれないか」

「おたくが代わりにカネを返してくれるんなら手を引きますよ」

 借金の返済方法としてシャブの密売を背負わされているとは説明していなかったのだろう。山田政雄は不義理を良しとはしなかった。

「なぜ全ての事情を話さないんだ? ウチは覚醒剤は扱わない。もうお前に会社は任せられない。身を綺麗にしてから出直して来い」

■「ならイメルダを口説いてみろ」

 カタギの道は閉ざされた。もちろん山田政雄の後ろ盾もない。八方塞がりになったやり場のない気持ちを渡辺はぼやく。

「どうしたもんですかね、和久井さん……」

「世の中には筋目ってのがあるんだ」

 そのとき和久井は、渡辺が影下のマー坊と頻繁にフィリピンに行っていたことを思い出した。

「お前、フィリピンに人脈があるのか?」

「友達がイメルダと懇意にしていますよ」

 マルコス大統領の義弟・バルバのラインからファーストレディにも顔が利くというのである。

「ならイメルダを口説いてみろ」

 かくして傀儡になった渡辺は1971年、サンプル用に100グラムの覚醒剤を持たされフィリピンに飛んだ。イメルダ夫人と手を組み、国家プロジェクトで覚醒剤を造るようになったのである。

 件の独占告白記事によれは、1967年に渡比し、鰹節の製造販売業を経て1971年、フィリピンで厳戒令が出されたのを機に捜査官に。続く1974年に密輸取締官。さらに1976年には麻薬取締官になったと記されている。

 嘱託とはいえ、渡辺が重要なポストに就けたのには理由があった。日経新聞記者時代に対日賠償使節団としてフィリピンから来た政府代表の随員だったマルコス大統領の義弟・バルバの知遇を得る。この縁で1967年から再三にわたりフィリピンに渡航して現地人と結婚し一児を授かり、洗礼してジミーというクリスチャン・ネームが与えられた。

 鰹節工場が潰れてからは政界の黒幕・バルバを身元保証人として政府機関で働くようになった。“友達”のツテで日本人でありながら重要なポストに就けたと推測される。

「俺とイメルダのことはだけは謳わなかった。言ったらどうなるか分かっていただろうからな」

 報復を恐れた渡辺の偽言だと和久井は言う。

 ここは和久井が正しいとしよう。自分の過去を都合よく改ざんすることはよくあることなのかもしれない。

【続きを読む】《世界最大の覚醒剤市場》「7割はヤクザルート。残りの3割は、なあ、分かるか?」日本に覚醒剤を広めた男の“禁断の証言”

《世界最大の覚醒剤市場》「7割はヤクザルート。残りの3割は、なあ、分かるか?」日本に覚醒剤を広めた男の“禁断の証言” へ続く

(高木 瑞穂)

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