強権企業が島を支配、日本円すら流通せず…ナゾの離島「南大東島」のディープすぎる世界

強権企業が島を支配、日本円すら流通せず…ナゾの離島「南大東島」のディープすぎる世界

南大東島にて。サンゴ礁でできた島なのでビーチはない。ただ、孤島なのでハブもいない。

 離れ小島──。なんとも心を揺さぶる言葉だ。同じ日本国内にありながら、特有の歴史と生物相を持つ場所。ただし一部の観光地をのぞけば、よほどの事情がない限り行く機会がない。

「文春オンライン」編集部では、そんな日本国内の離島にルポライターの安田峰俊氏を派遣。現地をルポしてもらうことにした。まず最初の訪問地に選んだのは、沖縄県内でも最辺境に位置する元「社有島」、南大東島だ。(全2回の1回目/ 後編に続く )

■さとうきびは島を守り、ヒキガエルが死んでいる

「……人類、もしかして絶滅してないか?」

 思わずそんな感想を抱いてしまった。レンタルした原付にまたがり、サトウキビ畑をつらぬく道路を走り続けて数キロ。1人も村人に会わず、1台の対向車ともすれ違わない。建物もほとんど見かけず、道路がアスファルトで舗装されているのがかえって不思議なほどだ。冗談抜きで、文明崩壊後の社会に1人だけで放り出されたような気になってくる。

 空気がすこし不穏である。数百キロ南方のフィリピン海上で台風が発達しているらしいのだ。強風のせいで、晴れているのにちょっと肌寒い。しかもいっそう不穏なのは、路上に点々と黒い肉片が落ちていることだった。これらはすべて体長7〜10センチくらいのヒキガエルの死体であり、路面に顔を近づけるとかすかに屍臭を感じる。

 死体は乾燥してミイラ化したものと、轢死して腐っているものがあった。人間が引いた道路のせいで生命を奪われた野生生物の運命に儚さを覚えたが、スマホで調べたところヒキガエル(ミヤコヒキガエル、オオヒキガエル)は外来生物だった。別に同情しなくてもよかったらしい。

 県道に入ってさらに走り続ける。サトウキビの収穫に使うらしき、戦車のような謎の銀色のキャタピラー車が放置されていた。相変わらず住民に出会わないが、周囲は徐々にひらけてくる。

 やがて「さとうきびは島を守り島は国土を守る」とスローガンが書きつけられた巨大な白い煙突を持つ工場にぶつかった。この島で最も高い建造物にして、島の産業を支える製糖会社である。

 裏手には「在所」と呼ばれる、島の中心部の集落がささやかに広がっている──。

■台風のニュースでおなじみの地名

 私が旅しているのは沖縄県の南大東島(南大東村)だ。台風が発生したときに「南大東島の沖約1●●キロの海上を……」といったニュースで耳にするので、地名だけはご存知の人も多いかもしれない。

 南大東島の面積は30.52平方km、山手線の内側面積の約半分弱だ。2017年3月時点での島民人口は1277人(655世帯)である。沖縄本島の約360キロ東方の海上にあり、さらに北に8キロ隔てた北大東島、南に160キロ離れた沖大東島(無人島)の3島で「大東諸島」を構成している。

 沖縄県内の他地域(琉球諸島)とは違って、南大東島は約6000万年前にパプアニューギニア沖でその原型が生まれて以来、他の陸地と接続したことがない。島はサンゴ礁が盛りあがった堆積石灰岩で形成され、沖縄名物のビーチはみられない。周囲は水深数千メートルに達する深い海である。

 第二次大戦中に米軍が上陸してこなかったのも、沿岸部が岩場で作戦展開が大変だったので諦めたから、という話さえある。もっとも、海中ではハワイ近海の魚がみられるらしく、ダイビングの超上級者の間ではひそかに人気があるらしい。

■訪問のハードルが高い島

 大阪府から島内の男性に嫁いで在所の資料館(後述)で働いている、1歳と2歳の子どもがいる奥さんはこう話す。

「島の女性の妊婦健診や出産のときは沖縄本島に行きますねー。行政から補助も出るんです。あと、島内には高校がないので、大部分の子どもは中学校を卒業すると沖縄本島に進学していますね」

 県庁所在地の那覇から南大東島へのアクセスは飛行機で約1時間、もしくは船で13時間。もちろん飛行機のほうが便利だが、私が買ったチケットは往復で3万3000円もかかった(島民は2万円くらい)。

 いずれにせよ、沖縄旅行のついでに気軽に遊びに行くにはハードルが高い島である。

■実は尖閣諸島と似た歴史

 JAや郵便局がある在所の中心部には、錆びた小さな機関車が2台展示されていた。通称「シュガートレイン」。1917年に敷設され、1983年まで現役で稼働していたサトウキビ運搬用の私設鉄道だ。付近には島についての小さな資料館(ふるさと文化センター)もある。

 資料館で展示物を眺めていると、南大東島が実質的に100年くらいの歴史しかないことをあらためて確認できた。この島はもともと無人島。1885年にひとまず日本領とされたものの、沖縄県内の他地域とは違い、歴史上でも琉球王国の支配領域に組み込まれたことがない。

(実は琉球列島を挟んで逆側に位置する尖閣諸島と、日本領土に組み込まれた経緯がやや似ているのだが、尖閣諸島は前近代から琉球人に存在を知られていたので、歴史的には大東諸島のほうが沖縄とはいっそう縁遠い。なお、尖閣諸島の日本領有宣言は南大東領有の10年後の1895年であるいっぽう、開発の開始は南大東よりも3年早い1897年。尖閣の場合、大東諸島と違って中国・台湾と近かったことが、近年の面倒な領土問題の理由になっている)

 やがて1900年(明治33年)、八丈島の豪商だった玉置半右衛門が組織した八丈島民23人の開拓団が60日あまりの難航海の末に南大東島の西側海岸に上陸し、断崖をしがみついて登り島内に侵入。淡水の池を発見し、翌々年から黒砂糖の製造を開始した。

 島内の森が切り開かれてサトウキビ畑が作られ、もとは無人島だった南大東島は、玉置商会の所有物「社有島」になった。

■学校も病院も警察も会社が握る

 南大東島の主は、半右衛門が死んだ後に業績が傾いた玉置商会が東洋精糖と合併(1916年)、さらにこちらも経営難で大日本製糖と合併(1927年)──と変遷したが、島全体が一私企業の所有物なのは変わらなかった。

 いっぽう、開拓地での一攫千金を夢見る移住者は増えていった。島内では日本円が事実上通用せず、玉置商会〜大日本製糖の歴代支配者が発行した物品交換券が実質的には紙幣として流通。学校・病院・交通・通信・郵便などの事業は社営であり、さらに警察機構すらも会社からの嘱託で運営されていた。島の最高指導者は製糖工場の所長だ。

 島を開拓した玉置半右衛門は、現在もなお島民からそれなりの敬意を払われている。かつて「社有島」だったころも、事業の先鞭をつけた玉置商会時代はまだ会社と島民との距離感が近かったようだ。しかし、事業者の身売りが繰り返されるにつれて、当初の経緯を知らない会社側が傲慢になっていった。

■日本政府の支配がおよんでいなかった

「島外に出るのも会社が発行する出向許可証が必要だったんですが、『優秀な人ほど発行されない』(=島にとどめ置かれる)という噂があったといいますね。あと、警察がえこひいきをして、八丈系の人たちは悪いことをしてもつかまらないとか……」

 私が話を聞いた50代の島民(父親の代に移住、沖縄系)はこう話す。往年、島民たちは自由な移動も認められぬまま重労働を強いられ、しかも生産物は安く買い上げられた。病気をしても犯罪が起きても、島の支配者である会社に頼るしかない。

 当然、住民たち自身による民主的な意思決定システムは存在せず──。などという話以前の問題として、戦前のこの島にはそもそも日本政府の地方行政がおよんでおらず、町村すら設置されていなかった。

■辺境なのに東京文化

 1926年の島民人口4015人の内訳は、沖縄県出身者が2724人、東京都(実質的には八丈島など)からが1024人、さらに鹿児島・静岡・熊本など日本各地から数十〜数人ずつなどとなっている。彼らの多くが当時の南大東島のプランテーション労働者だった。

 人数としては沖縄県内出身者が多数派だったものの、開発の経緯から八丈人の勢力が強かったらしい。上記の証言のように、沖縄系島民と八丈系島民の対立も存在した。支配者である会社側から見れば「分割統治」に成功していたともいえる。

 ちなみにこうした経緯から、島内では現在でも、沖縄県の他地域ではあまりみられない、日本本土と同じ地蔵信仰がみられる。歴史が短い土地の割には神社の数が多く、墓石も琉球式と日本式が混在している。島の名物である大東寿司も、やはり八丈島の影響が強い──。

 つまり、間接的ながら東京の文化だ。沖縄県の最辺境の島のほうが文化的に東京に近いのは、理由はわかっていてもやはり不思議である。

 いっぽう、食堂に行くと大東寿司以外の料理は沖縄風のものが多く、テーブルにはこーれぐーすがある。

 島の言葉は「おじゃりやれ」と八丈系の言語なのだが、行政機関のポスターでは「はいさい」「ゆいまーる」などの琉球語が使われている。いろいろゴチャ混ぜなのだ。

■嫌われ者アメリカ軍人、島の偉人になる

 在所のふるさと文化センターの外は小さな緑地になっており、島とゆかりが深い米陸軍のポール・W・キャラウェイ中将の像と、彼の業績を顕彰する石碑がある。

 かつて第二次大戦中、沖縄本島は悲惨な地上戦の舞台となり、戦後に沖縄県の領域全体が本土から分離された──。のだが、その過程において南大東島も自動的にアメリカの統治下に編入された。結果、従来は日本政府の地方行政がおよんでいなかった島では、なんと米軍の指揮によって史上初の自治行政が施行されることになり「南大東村」が成立した。

 島の土地は製糖会社が所有し続けていたが、自由への希望を得た島民たちは粘り強い土地所有権の獲得闘争を展開。やがて、当時の軍政府支配の最高指導者だったキャラウェイ米国民政府高等弁務官に直訴するにいたり、南大東島は1964年にようやく会社支配から解き放たれて、「民主化」されることになった。

 ちなみに、往年のキャラウェイの琉球統治は非常に強権的だったことで知られている。キャラウェイは米軍人としての立場から琉球と本土との分断の固定化を図り、沖縄県民の自治を否定し本土復帰運動を妨害していた(「キャラウェイ旋風」)ことから、現在でも圧倒的多数の沖縄県民からは蛇蝎のごとく嫌われている。

 ……はずなのだが、大東諸島でのキャラウェイは、会社支配を完全に終結させて土地を与えてくれた「解放者」であり、島民たちの感謝の対象だ。歴史上の人物の評価の難しさを感じさせる話である。

■夜は宿が限界

 ──夜、寝苦しくてほとんど眠れなかった。

 島内に宿泊施設は複数あるらしかったが、ネットで予約できる宿は限られていた。いざ泊まってみたところ、在所からかなり離れたサトウキビ畑のなかに立地……していたのはまだしも、薄い壁と室内に入り込む虫に悩まされた。

 コロナ禍の影響で来客が少ないせいか布団が湿気っており、うっかり半袖で横になったせいで全身がかゆい。まったく眠れる気がしない。

「島内での宿は、2000年に秋篠宮殿下が来島された折に宿泊された在所のホテルで一択ですよ」

「そもそも離島に行くときの宿泊や交通の予約は、ネットよりも電話のほうが確実です」

 全身をかきむしって苦しみながら苦境を友人向けのツイッターに投稿していると、離島初心者の私にそんなリプライが寄せられたが、後の祭りだ。

 この夜は結局、2時間くらいしかまともな睡眠を取れなかった。翌日の冒険が思いやられる。

( 後編に続く )

撮影=安田峰俊

「2ヶ月ぶりのお客さんだ」ニッポンの秘境・南大東島を直撃 “怪魚インガンダルマ”を求めて旅してみたら… へ続く

(安田 峰俊)

関連記事(外部サイト)