校長代行を取り囲んで引きずり下ろした麻布、埼玉初めての中学校だった浦和…超名門校の知られざる “歩み”

校長代行を取り囲んで引きずり下ろした麻布、埼玉初めての中学校だった浦和…超名門校の知られざる “歩み”

米沢興譲館に江戸時代から伝わる学則

「名門校」というといわゆる進学校であり、ガリ勉が多く、受験に特化した教育が行われているイメージをもつひとがいるかもしれないが、それは誤解だ。

 開成にしても、灘にしても、筑波大学附属駒場にしても、校風は自由で、受験に特化した指導はほとんどしていない。生徒たちは部活や行事に熱心だし、教員たちはむしろ真の「ゆとり教育」を地でいくような授業を行っている。宿題は問題集よりもレポート中心。授業中はよく議論し、生徒が発表する機会も多い。

 大学進学実績が学校の価値を物語るわけではないことはいうまでもないはずなのだが、現実には世の中はそういう目で学校を見る。だから、華々しい大学進学実績を残して先輩が後輩の環境を守る文化があるからこそ、名門校は大学受験にとらわれない本質的な教育を続けられるという皮肉な逆説が成り立つ。

 ここで改めて「名門」という言葉の意味を確かめておきたい。『広辞苑』には「由緒ある家柄。有名な家門。名家。名族」とある。

 では「由緒」とは何か。「物事の由来した端緒。いわれ。また、物事が行われる根拠。伝えてきた事由。来歴。ゆかり」などの説明が並ぶ。時間という洗練を受け、脈々と受け継がれる何かが存在することを示唆する表現だ。だから、いくら進学実績が良くても、まだ歴史の浅い学校が名門校と呼ばれることはない。

 そこで今回は、拙著『 ルポ名門校 』から100年以上の歴史を有する名門校の歴史トリビアを2回に分けて紹介する。前編は「旧制中学の系譜」「藩校の系譜」。後編は「女学校の系譜」「大学予科の系譜」「師範学校の系譜」。

 超有名校ばかりだが、意外に知らないことが多いはずだ。だが、これらの歴史的背景を知ることで、それぞれの校風の理由が腑に落ちるのではないかと思う。

■旧制中学はもともとみんな中高一貫だった

 中学校が義務教育化されたのは戦後。それ以前、「中学校」に上がるためには入試を受けなければならなかった。ただし、このときの「中学校」が意味するものは、現在の中学校とはだいぶ違う。それがいわゆる明治以来の「旧制中学」である。

 旧制中学の修業期間は基本的に12歳から5年間。現在の中高6年一貫校の時期にほぼ重なる。また、現在の「高等学校」のようなものはなかった。当時の「高校」は、もともとはその名のとおり「高等教育」つまり大学相当の教育を行うものとされていた。現実には「大学予科」つまり現在の大学の教養課程に相当する教育を行っていた。「高校」に入れれば、原則無試験で大学に入学できた。

 終戦後、六・三・三制の導入。小学校の6年間に加え、当初は中等教育までを義務教育にしようと目論んだものの、資金不足から、前期中等教育までを義務教育にしたというのが定説だ。 

 公立の旧制中学の多くは新制の高等学校に姿を変えた。たとえば東京府立一中は日比谷高校になった。しかし私立の旧制中学の多くは、中学校と高校の両方を設置して、旧制五年制中学と同様の教育を続けた(図表)。

「中高一貫校」というと、あたかも中学校と高校を無理矢理接続したものだと認識されやすいが、もともとは一つの学校であったものをあとから中学校と高校に切り分けたにすぎない。中高一貫校を「中高一貫校」と呼ぶよりは、現在の3年単位の中学校と高校を「中等教育分断校」と呼ぶほうが、経緯としては正しいのである。

■「名門」の知られざる“歩み”

 東大合格ランキング40年以上1位の開成の設立は1871年。実はもともとの校名は「共立(きょうりゅう)中学」だった。現在の岸田文雄首相が開成初の内閣総理大臣だといわれているが、実は共立中学時代の卒業生に岡田啓介がいる。

 1970年代に東大進学者数で頭角をあらわす。学校群制度の導入で都立高校が不人気になったこと、高校紛争で都内の別の私立進学校が荒れたこと、学校の目の前に西日暮里駅ができたことの3つが重なり、風が吹いた。

 愛知の東海はもともと浄土宗の僧侶を養成する学校として1888年にできた。東京の芝の弟分に当たり、いまも移住による転校生を相互に受け入れるならわしがある。1910年に一般生も受け入れる旧制中学になった。

 麻布は1895年に東洋英和の男子部が独立したもの。1899年に宗教教育を禁止する訓令第12号が発出すると、やむなく教会とのつながりも断った。要するにもともとはプロテスタントの学校だったのだ。

 1970年前後には高校紛争で荒れた。中学校も含め38日間のロックアウトが行われ、最後は生徒たちが校長代行を取り囲み、その座から引きずり下ろした。

 埼玉県立浦和は、1896年の創立。実はこの以前の約10年間、埼玉には中学校がなかった。埼玉は大隈重信の立憲改進党の勢力下にあったが、明治14年の政変で大隈が失脚した翌年、鹿児島出身の県令(県知事)がやってきて、立憲改進党の下でつくられた中学校をつぶしてしまったのだ。藩閥による嫌がらせの末、ようやくできたのが、のちに浦和高校となる埼玉県立第一尋常中学校だった。

 西洋文化に迎合する社会へのアンチテーゼとして生まれたのが熊本の済々黌。1882年の紀元節に政治結社紫溟会によってつくられた。つまりもともとは私立だった。県内には公立の旧制中学もあったが、なんと紫溟会が政治の力でつぶしてしまい、済々黌は私立でありながら特例的に旧制一中の扱いを受けることになる。1900年には国から中学校令が出され、特例が認められなくなり、県立に移管した。

■廃藩置県後にも藩校を残した地元名士たちの意地

 藩校は17世紀ごろから、塾のような形で始まったといわれている。18世紀には大規模な学校形式のものが増え、19世紀にはほぼ全国に普及した。主に、支配者階級としての学識と徳を教える目的であり、その多くは儒教思想に基づいていた。有名な藩校としては、会津の日新館、水戸の弘道館、長州の明倫館、佐賀の弘道館、熊本の時習館、鹿児島の造士館などが挙げられる。

 寺子屋や私塾、そして藩校が明治以降の学校の基盤となったというのが定説だ。ただし、表面的にとらえれば、1871年の廃藩置県で藩校は途絶えたはずである。しかし社会のしくみが変わっても、藩士の志は受け継がれた。

 多くの藩校が明治に公立の中学校へと姿を変えた。戦後は高校に改組した。代表的なところでは、岡山の仮学館の流れを汲む岡山朝日高校(岡山県)、松山の明教館の流れを汲む松山東高校(愛媛県)、佐賀の弘道館の流れを汲む佐賀西高校(佐賀県)などがある。それぞれ各県を代表する高校としていまも特別な存在である(図表)。

 藩校の名称を現在にそのまま受け継ぐ米沢興譲館の創立は1697年にまで遡る。300年以上前から「興譲の精神」が語り継がれる。廃藩置県後、上杉家の資金によりいちどは私立米沢中学校になる。その後公立に転じる。

 米沢の人々にはいまも上杉の城下町という意識があり、公立小中学校には上杉謙信と上杉鷹山の肖像画が掲げられている。

 福岡の修猷館の創立は1784年。廃藩置県後、県立中学校として再興されようとしたときに、文部省から藩校名を引き継ぐのはふさわしくないといわれたが、旧藩士が猛反発。旧藩主・黒田長溥が出てきて「金は出すから館名は残せ」とした。

 鹿児島県の鶴丸の校名は、島津家の居城・鹿児島城の愛称に由来する。そこにあった造士館の系譜を直接受け継ぐのは現在の鹿児島大学だとされているが、その紆余曲折の中で鶴丸もできている。

 広島の修道の創立は1725年。廃藩置県後、旧藩主・浅野長勲は藩校を維持しようとしたが、官からの圧力で経営から身を引く。公立中学の経営に邪魔だとされたからだ。残された校長が独力でなんとかこれを維持し、藩校の系譜が私立中高一貫校という珍しい形でいまに受け継がれている。

「時代に合わせて教育も変化しなければ…」の落とし穴 “それだけで価値がある”学校とは? へ続く

(おおた としまさ)

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