豊洲騒動の“デジャブ感”とは 日本橋→築地移転も大モメだった歴史

豊洲騒動の“デジャブ感”とは 日本橋→築地移転も大モメだった歴史

10月11日にオープンした豊洲市場 ©AFLO

 今年の国内の「食」における最大のニュースと言えば、東京・築地にあった中央卸売市場が(散々モメ上げた末に)ようやく豊洲へと移転したことだろう。タイミングや移転先、移転自体の是非はさておき、1980年代、築地地区の再開発案が持ち上がった当時から、移転問題はさまざまな形で俎上にのぼってきた。結局、豊洲に移ったのは、築地の移転計画が持ち上がってから30年以上が経過した2018年秋のことだった。

■「築地以前」、日本橋に魚河岸があったことをご存知ですか?

 歴史は繰り返す。彼の地に魚河岸が移転したのは、ほんの100年足らず前の1923(大正12)年のこと。それまでの「築地」は、江戸時代に造成された埋立地であり、明治に入ってからの外国人居留区であり、帝国海軍の施設があった土地だった。

 そもそも東京の魚河岸は、江戸幕府開府間もない寛永年間(1624〜1645年)に水運を利用して江戸城に魚を納めた佃島の漁師や商人が、その帰りに余った魚を日本橋周辺で販売する許可を得たことに端を発する。河の岸にある魚市場だから魚河岸。彼らは戸板状の「板舟」に魚を並べ、商いに勤しみ、近隣の小網町のあたりに住まう者もいた。それから約300年間に渡り、日本橋は河岸として発展していった。

■日本橋からの「転居資金」に苦慮する漁業者

 しかし、時代は変わる。明治5年に起きた大火で築地から銀座にかけて町が灰燼と化したことで、明治政府は首都の改造に本腰を入れることになる。首都における大火や疫病(当時はコレラの流行が社会問題化していた)は「富国強兵」にとってはリスクになる。防災、防疫のためにも道路の拡幅や下水の整備が必要となり、公共のための組織や施設も再編成と移転を迫られることになった。日本橋界隈で隆盛を誇った魚河岸も例外ではなかった。

 日本橋の魚河岸市場の移転問題に触れた報道としては、1888(明治21年)年10月2日付の朝日新聞に「魚河岸の事」という記事がある。「市場移転の事も久しきものなるが此の度市区改正条例の発布あり……」という書き出しで始まるこの記事は、1888年の時点で市場移転が長きに渡って問題視されてきたことを示している。では、100年前の市場移転の経緯はどんなものだったのか。朝日新聞の報道を土台に見ていこう。

■河岸の男たちは与しやすい相手ではなかった

 実際に「東京市区改正」事業が始まったのは、先の報道の翌年、1889(明治22)年のこと。事業には市場の移転計画も盛り込まれた。

「魚鳥市場は日本橋永代町北新堀町箱崎町中洲町、芝区新網町湊町、深川区蛤町黒江町の三ヶ所(中略)十ヶ年以内に(中略)指定の地に移転すべき」(1889年5月25日付)

 ところが日本橋の河岸の男たちは、二つ返事で首を縦に振るほど与しやすい相手ではなかった。

「在来の魚河岸(中略)の魚商人は数百年間定住の居所を放棄するの損害と新市場を築造するの失費とを合算すれば莫大な金額となり到底商人の力にて弁じ得べからず」(1891年4月24日付)と主張。移転費の2割の補助を求めるなど、河岸の男たちは数々の要求を突きつける。

 もっともほぼ全項目で「認許相成り難し」「詮議に及び難し」と東京市参事会同府知事から断られ、当然のようにモメ上げることに。さらにこの頃になると内紛じみた騒動も報道されるようになる。河岸の衆から組合鑑札料の仕組みに不満が噴出してしまったのだ。

「不満抱けるもの多きが中にも芝川岸(しばかし)組と称する一派の魚商輩は殊の外激昂し同組中の(中略)三十四名は一両日前事務所に押し掛け書記加藤定吉に面会」(1891年9月8日付)

■延期、移転白紙、議論のやり直し……

 揚げ句、飲食店で「魚河岸連と米商連が出入」(1894年1月20日付)と他集団とケンカ騒動を起こすような状態では、期限通りの移転など望むべくもない。1899(明治32)年5月27日には「魚市場移転延期の許可」という見出しとともに「種々の事情あるがため」「更に五ヶ年の延期」を認めるという報道がなされた。

 もっとも多少期限が延期されようとも、長年、多数の人が関わってきた事業がひっくり返ることなどそうそうないのは、平成の築地→豊洲市場移転騒動を見ても明らかだ。「喉元すぎれば……」を地で行くように、延期とともに議論は動かなくなる。

 数年後、1902(明治35)年3月14日の朝日新聞に「魚河岸移転問題の切迫」という記事が掲載され、またも移転問題が可視化されるが「非移転派は飽くまでも祖先来の営業地を去るの情に忍びず又同所は東都の中心点にして八百八町何れよりするも利便の地なれば今他に移転する時は種々の不便を生じ市場の衰退を来すに至らん」と主張。事態はますます硬直化していく。半決まりだった箱崎への移転が白紙に戻り、一から議論のやり直しという、これまたどこかで聞いたような話が展開された。

■「魚河岸問題腐る」――箱崎移転の立ち消え

 その後は、時折「魚河岸紛議の続報」「魚河岸移転受書再延期」などの見出しが紙面に踊るものの、これといった進展は見られなくなる。だが1904年(明治37)1月9日に一連の事態を総括するかのような、歴史的にも傑出した見出しが打たれる。

「魚河岸問題腐る」

「日本橋魚河岸移転最終期限は来四月末日にして五月一日よりは移転指定地たる日本橋区箱崎町(中略)にて営業すべきは法令の示すところなるに市会も警視庁も市場組合自身も全く之を忘れたるものの如く」と痛烈に、かつ全方位的に批判している。しかもこの時点で予定地には「すべて家屋建ちて百九十余戸に及び大工場大倉庫もあり現住百六十戸に達して一坪の空地も余さず(中略)魚河岸は五月一日より居るに所なく移るに場所なき事実なり」

 まさに「腐る」という表現がふさわしい。こうして結局箱崎移転は立ち消えになってしまった。

■「魚河岸一つにさえ、30年もグズる東京じゃないか」

 市場移転の論議が現実味を伴って大きく動き出すのは、それから10年以上経過した大正時代に入ってから。1916(大正5)年にコレラが大流行し、より厳しい衛生管理が求められるようになる。さらに1918(大正7)年には米価暴騰からの米騒動。「騒動」というと呑気な趣もあるが、当時は軍隊まで出動し、夜間の外出が禁じられるほどの大騒乱だった。こうした背景もあり、食料供給の安定と安全の確保が急務となり、いよいよ政府も中央卸売市場の設置に本腰を入れることになる。

 ただし当時の世間やメディアには諦めムードすら漂っていた。「中央市場なんてまあ出来まい 魚河岸一つにさへ三十年も愚図る東京ぢやないか」(1922年8月20日付)というような論調が噴出する。1923(大正12)年3月に「中央卸売市場法」が公布されるものの、どこへ移転するのかも依然として侃々諤々。

 同年8月下旬には朝日新聞も「中央市場位置問題 市政調査会の意見」として全4回の連載形式で移転問題を取り上げている。その最終回となる8月31日の第4回においてもなお「芝離宮沖埋立地」「築地」「芝浦」という3つの候補地を比較する記事が掲載されたが、翻って言えばその程度の段階で事態は停滞していた。記事は「三十五年間の懸案を解決するのが目下の急務である」と結んでいる。

■関東大震災で一気に進んだ築地移転

 そしてその翌日の9月1日午前11時58分、関東大震災が起きた。日本橋魚河岸を始めとする各市場群は壊滅。もはや選択の余地はない。結果皮肉なことに、35年間進まなかった市場移転が震災で一気に進むことになる。

 震災から半月後の9月17日、日本橋市場組合が芝浦で仮営業を開始。震災から3カ月後の12月には築地に仮設の魚市場が開場する。その日の見出しは「鯛の揚げ荷で/けふ開場式の築地新魚市場/名残も惜く江戸名所移る」(1923年12月1日付)。その後、海軍から敷地を譲り受け、1935(昭和10)年に私たちの知る東京市中央卸売市場が開設される。

 衛生面の要求の高度化、河岸衆の反発、遅々として進まぬ話し合いに旧市場への愛着――。近年の築地から豊洲への市場移転に際して起きたことはすべて100年前に起きていた。

 現代に目を移すと、築地や豊洲における年の瀬の風情に変化はあるものの、市場の移転はまだ終わっていない。豊洲はいまだチューニング途中であり、移転元の築地市場跡地の活用案もここへ来て二転三転している。本来、舵取り役は、正しいと信じられる道を指し示し、社会に問わねばならない。為政者も然り、市民も然り。私たちが学ぶべきは歴史のなかにある。

(松浦 達也)

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