落合陽一×古市憲寿「平成の次」を語る #1「『平成』が終わり『魔法元年』が始まる」

 もうすぐ平成が終わる。次に来るのは、どんな時代か?
「現代の魔法使い」の異名を取るメディアアーティスト・落合陽一氏と、
小説「 平成くん、さようなら 」を発表した、社会学者・古市憲寿氏。
「平成育ち」のトップランナー2人のクロスジャンル対談!
『文學界』2019年1月号 より転載)

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■「落合君と僕の共通点は『昭和的』なところ」

古市 今日はもうすぐ終わる「平成」と、次にどんな時代が来るかについて話してみたいと思っています。この並びには、僕が平成側の終わりゆく古い人間で、落合君が次の元号を担う新しい人間という意図がありそうなので、その役割を担うことにします(笑)。

 ただ落合君と僕に共通点があるとしたら、世間的には「平成的」な存在だと見られているけれども、実は案外「昭和的」なところだと思う。落合君はメディアアーティストとして奇抜な活動をする人だと思われている一方で、テレビで活躍したり、すごくがむしゃらに働いたり、意外と昭和的なところがある。発想自体も、1960年代の思想をアップデートして今風に見せているわけでしょう。落合君の場合、それはどういう意図でやっているの?

落合 どの分野にも共通する話だけど、歴史の波は繰り返しながら違った地平を連れてくる。平成の次を見てる僕は平成の人から見れば昭和に見えるかもしれない。カルチャーでも60年代や70年代のカルチャーがリバイバルするでしょう。僕らの世界でも、自分の師匠が20年前にやっていたことより、その一つ上の世代が40年前にやっていたことのほうが面白く見える。なぜかというと、テクノロジーが進化してリソースが変わるから、話が2段階進むんですよ。過去が戻ってくる。

 僕の中で衝撃的だったのは、大学一年の頃、自然言語処理の授業に出てたんです。そのときは「自然言語を翻訳するにはあと100年かかる」と言われていたんですよ。でも、10年経った今、ディープ・ラーニングのゼロショット翻訳によって自然言語がかなり翻訳できるようになった。データ量と処理能力が上がったことで、発想自体が変わってきたなという気がしてますね。それを考えると、人間がこれまでに議論してきた知能というのは思ったほど高尚ではないのかもしれない。今の自分たちの感覚というのも、「将棋の一手にオーラが宿ると思われていた時代がありました」みたいな感じで前時代的なものになる可能性もある。

■人工知能に「人間の偏見」は入るか

古市 「AIが将棋を指す」だとあんまり人間に脅威とは思われないだろうけど、AIが法律を作って裁判をしたり、病気を診断したりするようになったらどうかな?

落合 どうだろう。でも、自動運転が事故を起こす確率と人間の運転が事故を起こす確率を比較すると、自動運転のほうがはるかに低いということが明らかになる可能性もありますよね。そうすると、何十年か経つと「昔は人間が運転してたんですか?」と思うようになっているかもしれない。人間が運転するほうが安全だというのは思い込みかもしれなくて、それは自動運転の実装フェーズが終わったあとに出てくる話なんです。そこが面白いのかな、と。つまり、高度に発達した統計処理のほうが、高度に教育された人間よりも十分機能的に振る舞う可能性もある。

古市 その話、半分はすごくわかる。今、人工知能が不審者を判別する仕組みが開発されているけども、それを怖いとは思わない。だって、これまでは刑事の勘で「なんか怪しそうだ」と差別されていたのが、統計的により正しい判断が下されるようになれば冤罪率が下がる。その点においてはすごく良いと思うんだけど、じゃあそのプログラムを作るのは誰かと考えたときに、人間の偏見がどうしても入ってしまう。システムを作る段階で「こういう行動をする人が怪しい」という偏見がどうしても入ってしまうでしょう?

落合 その仕様は前時代的実装な気がしますけど、まあ、集団的に偏見を持っているのが民主主義国家だから、そんなもんじゃないかなと思いますけどね。一人の人間の偏見という感じがしないから国家だと言えているだけで、結局のところ一人の人間によって法律が決められているような気配感はいつの時代もぬぐえない。

■AIによって「差別」は生まれるのか

古市 近代という時代は、たとえそれがフィクションだとしても「誰しも平等に人権を持っている」ということを信じてきたわけだよね。それを前提として、「差別はいずれなくしていきましょう」とやってきた。でも、統計的な差異に基づいて決定を下すと、人種の差や男女の差が全部温存されてしまって、これまでの挑戦が頓挫してしまう可能性ってないかな。

落合 そういった差異はこれまでも温存されてきたでしょう。それが現在の格差社会だと思いますけど。

古市 たとえば、黒人は白人よりIQが低いという研究が発表され、アメリカで大論争を呼んだことがあった。でも研究が正しかったとしても、それは黒人差別を正当化する根拠にはならない。知能は環境にも左右されるから、少なくとも人権は平等で、最終的にはあらゆる差別を解消しましょうという建前が生きていた。だけどコンピューターが統計的に判断する時代がやってくると、遺伝情報や生まれた環境によって「あなたはこういう人間です」というレッテルを貼られて、AIによって選別される可能性もある。

落合 それはむしろ逆だと思う。今のは「この人種のIQの平均は」と属性値で判断するって話だけど、実際にその人のIQを測ってしまえば一発ですよね。そうするとその人を判別する集団的な属性値は関係なくなる。その方が僕は良いと思う。

古市 よりマシな差別になるということだね。ただ、よりマシな差別を超えることは考えないの?

落合 考えるというよりは今の僕の実装テーマはそこですね。ひとりひとりの実効値を測ったときに、明らかに数値に差があった場合、その差をテクノロジーで埋められるかというのが次のプロセスなんです。僕が今、国プロでやっているのは、視覚や聴覚に障害がある場合に、認知機能をコンピューターで埋めていく研究。つまり、人間のフィジカルな処理能力なんて大したものではないかもしれない。もし人間の処理能力に差があったとしても、機械によって差を埋められる状況を作ればいい。僕がソロバン能力が著しく低かったとしても、電卓を使えば問題ないわけです。それがコンピューターがもたらす新しい平等の見方じゃないかなと思う。

■差異が民主化されてアートが生まれなくなる?

古市 江戸時代であれば、近視の人は障害者扱いされていたけど、眼鏡の誕生によって障害者ではなくなったわけだよね。それに、昔は記憶力や知識量が重視されたけど、今は検索すればいいんだから、そんな能力は大して重要じゃない。ハンディだと思われていたものが、テクノロジーによって克服されていくというのはまさにその通りだと思う。でも、それでも残り続ける差異があるわけでしょう。

落合 ある程度は――しかしながら、コンピューターは差異の可能性をかなり民主化するほうへ向かっているとは思います。具体的には人間のクリエイティビティの差を埋めるようにAdobeはアップデートを重ねているし、Instagramのフィルターやカメラのオート補正だって、腕の差や感性の差を埋めているところがある。ただ、そこでアートは可能かというのが気になるところで、差異が埋められて平均化され、誰でも思った通りにできるようになると、偶発性の範疇の中でしかアートが生まれえなくなる。偶発性を超えたものにオーラが宿るか――それが文化が培ってきたことだと思うんです。でも、今後はそういう文脈を含んだある意味技術的な発明によってしかプラットフォームにすら批評性を持ちうるようなアートは成立し得なくなってしまうんじゃないかというのが、3年前に『魔法の世紀』で書いたこと。つまり、「コンピューターによって差異が民主化された世界では、プラットフォームを超克するテクノロジーこそがアートである」と思ってあの本を書いたんですよね。

■ライフスタイルがプラットフォームを超克する

落合 でも、この3年のあいだに考え方もある程度は変わってきて。なぜかというと、たとえばウェブの入り口をおさえた「Googleってすげえな」と思いますよね。でも、昔はFacebookなんかもGoogleというプラットフォームを必要としていたけど、今はFacebookがアプリになって、Googleのウェブ検索を介さずにたどり着けるようになった。その意味ではGoogleというプラットフォームからは離脱したといえる。ただ、iPhoneの上にかぶさったFacebookもいれば、Androidの上にかぶさったFacebookもいるという状態になっている。そうして複雑に絡み合ったレイヤーの中から、われわれはプラットフォームを選んでいる。そうすると、新たなテクノロジーがプラットフォームを超克するということではなくて、ライフスタイルがプラットフォームを超克するようになってきた。それはもう、超克というよりは、ライフスタイルに落ちてくるという感じに近くて、全体批評性を持ったアートというより職人的なんだろうなと思うんですよね。だから次は狩猟採集的生活をテーマにした『マタギドライブ』という本を書こうと思っているんです。

古市 ライフスタイルがプラットフォームを超克するというのは、具体的にどういうこと?

落合 一度プラットフォームが完成すると、それを超克するテクノロジーを生み出さないと、プラットフォームの外側に出られなかったかもしれない。でも、バーチャル化したコミュニティが属するオープンソースのプラットフォームがあれば、別にプラットフォームを超克しなくてもよくなるわけです。個別の技術はコモディティになる。つまり、誰でもFacebookを作れるようになると、それはもうプラットフォームの外に出ているというか。ある意味プラットフォーム作りですら民主化されてしまう。

古市 それを皆欲しているの?

落合 それはわからないですけど、Uberだと各国のローカルサービスが出てるじゃないですか。それは誰でも技術的にはUberを作れるからですよね。Airbnbもローカルサービスを出せると思うけど、ブランド価値によってメジャー化しないだけで、家を貸すことを怖いと感じる人が少なくなれば日本版のプラットフォームが出てくる。そうやって誰でもプラットフォームを作れるようになれば、サービスが分散して小さくなっていく。

古市 悪くいえばパクリだけど、昔から秀逸なアイディアはローカライズされ、世界中に広がっていくよね。「近代国家」や「人権」もそうだろうし。身近な例でいうとスマホのアプリとか。「荒野行動」(*1)とかもそうなのかな。

(*1)荒野行動 中国のNetEase Games が開発・運営するバトルロイヤルゲーム。およそ100人のプレイヤーが無人島に降り立ち、ひとりが勝ち残るまで戦闘を繰り広げる。2017年11月に配信され、登録ユーザー数は2億人を超える。

■GoogleやAppleが無敵じゃなくなる日

落合 よくある、よくある。「まったく同じスタイルのゲームを作ったら、こっちのほうが流行った」と。そうやってテック的には変わらない二者が出てくると、あとはユーザーコミュニティがどう育つかの問題になる。「荒野行動」の元ネタになった「PLAYERUNKNOWN’SBATTLEGROUNDS」(*2)であれば、世界中でプレイされていて、全世界から5億人ぐらいが常時繋がっている。それをローカライゼーションした「荒野行動」が出てくると、今度はそこに人が集まってきて稼ぎ頭になる。でも、そうして「荒野行動」がプラットフォームになってくると、さらにローカライゼーションしたコミュニティが生まれてくる。テクノロジーに差がなくなってくると、パクリが一瞬でできるんですよね。そういう世界になってくると、前までは無敵だったように思えたGoogleやAppleもそこまで無敵じゃなくなって、新たに小さく出てきた有象無象がどんな動きをするんだろうなというのが最近の興味ですね。

古市 でも、そうやって出てきた新興勢力はGoogleやAppleが持っている情報量に敵わないんじゃない?

落合 おそらく統計的に飽和するし、ネットワークが用途に応じて分断されるから、情報量ってそんなに必要ないんですよね。何億人分のデータがなければ達成しえない知能があるかと言われると、少なくともわれわれの脳の中にはそういう訓練をした過去はないですよね。しかし、資本は別かもしれないですが。

古市 Googleでさえも十分な情報が取れない、あるいは十分な情報が取れたとしてもそれを使える状態にならないとするならば、落合君が本で書いていたような「幸福な全体主義社会」は作れないんじゃない?

落合 そこはデータ量の話ではなく、技術の民主化の話でしょう。誰でもプラットフォームを作れるようになったとき、バックエンドにあるものは何かと考えると、契約や通貨の概念だと思うんです。今は決済や課税に関するサービスを国が担ってますけど、このプラットフォームに関してはローカライゼーションが起こるというより、レイヤーが複層化すると思う。今、様々な規制で下火ですが、現実的には日本円決済圏とビットコイン決済圏とイーサリアム(*3)決済圏が同時にまわるようになってレイヤーが何層にも重なってくると、一つのプラットフォームの上ではある種全体主義的に振る舞うものが出てくるんじゃないかと思います。

 たとえば、イーサリアムはウェブに対するGoogleプラットフォームみたいなところがありますよね。ITジャイアントはドルを中心とした市場経済と連結された企業だけど、イーサリアムを作ることで、契約や決済を自分たちのプラットフォームに載せようとしている。そうやって決済圏や経済圏が何層も作られていくと、また違う世界になるんじゃないかと思うんですよね。これに関しては、長期スパンで考えないとちゃんと着陸できないかもしれないですけど。

(*2)PLAYERUNKNOWN’S BATTLEGROUNDS 韓国のPUBG Corporation が開発・運営するバトルロイヤルゲーム。2017年3月配信開始。登録ユーザー数は4億人超。建造物や風景、車両、武器、衣類など類似点が多いとして、著作権侵害で「荒野行動」を提訴(のちに取り下げ)

#2 に続く)
写真=佐藤亘

平成くん、さようなら

古市 憲寿

文藝春秋

2018年11月9日 発売

(橋本 倫史/文學界 2019年1月号)

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