落合陽一×古市憲寿「平成の次」を語る #4 「なぜ小説という“古いメディア”に取り組むのか?」

 メディアアーティスト・落合陽一氏と、小説「 平成くん、さようなら 」を発表した、社会学者・古市憲寿氏。「平成育ち」のトップランナー2人の対談4回目!( #3 より続く)( 『文學界』2019年1月号 より転載)

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■宗教というサブスクリプション・モデル

落合 最強のゴーグルや最強のパワードスーツを開発して、「一個100万円です」と売っていく――日本人はこういうのが好きですよね。実際に販売される物質が動いているし、それを製造するために工場が動いているから。でも、それは物質価値が減少する時代には全然儲かるスタイルではなくて、たとえば家にバーチャルペットを置いて月額3000円とか、付加価値の限界費用がゼロのサービスを生み出したやつが儲かるんですよ。なぜそのサービスにお金を払っているのか、まるで合理的な説明がつかないけど、利便性へ物質価値と関係なく毎月支払ってしまう。そういうサービスが日本ではなかなか出てこないんですよね。

古市 今は通信料ぐらいしかないよね。あとは国や地方自治体に払う社会保険料と住民税くらいでしょう。他にサブスクリプションでお金を取れる可能性があるとすれば、それが宗教なのかもしれない。「月に何百円か払えば、毎月お祈りしてくれる」とかね。

落合 有史以来、日本がそういうので儲けたことはあるのかな?

古市 お寺はそうじゃない? うちの実家だって、お寺に特に何かしてもらってるわけじゃないのに、お墓を維持するためのお金ということで年間5万ぐらい払ってるよ。あれも一種のサブスクリプションだよね。

落合 そこで「宗教」に戻る。宗教的義務感があるようなものには課金しているということですよね。墓になぜお金を払うかというと、それが一つのブランドだからですよね。仏教が積み上げてきたブランドがあるから、「そのお金を払わないのはまずい」という宗教的義務感がある。

 そういうブランドを、いかに作ることができるか。たとえば、学習塾だってブランドだなと思うんですよ。つまり、入試というヤバいものがあって、それに立ち向かうための合理的な判断がつかないけど、とりあえず夏期講習代を何十万か支払うことで安心する。大学もブランドだと思うんですよ。僕も大学で学長補佐をしていますが、対価とサービスの基準はわかりにくい。僕が授業をして、授業料をもらう。それは一見合理的に見えるけど、なぜそこにお金が発生するのかというと、それがブランドだからですよね。そうやってついうっかりお金を払っているものを増やして、「物質性がなくともお金は動くのだ」ということを身に沁みさせないといけない気がする。そう考えると、紙に印刷した雑誌をお店に置くのやめていただきたいですね。紙に印刷された雑誌にお金を払うんじゃなくて、物質性のないコンテンツにお金を払うようになって、その後、神は家に届くみたいな。

■なぜ小説という古いメディアに取り組むのか?

古市 でも、電子書籍しかない世界があって、そこに紙の書籍が流通したら、皆めっちゃ便利だと思うんじゃない?

落合 それは絶対思う。紙のほうがあきらかに解像度が高いし、iPadの電源が切れると「紙のほうが超便利だな」と思いますからね。ただ、電子書籍にお金を払う人がいるのは、ブランドと宗教的な理由じゃないですか。物質に対してではなく、サービスに対してお金を払う。そこにお金を払う合理的な理由がまるで存在しないという。

古市 電子書籍であれ紙の書籍であれ、本自体がそうだよね。ただ紙に文字が印字されたものなのに、それ以上の対価を払っている。たとえば小説に対してお金を払う合理的な理由も存在しないよね。落合君は今、小説を書いてるみたいだけど、何で小説なんて古いメディアに取り組もうと思ったの?

落合 小説は比較的彫刻っぽいからかな。僕はアーティストをしているときはロジカルな考え方をしないから、小説を書くのに向いてるんですよ。

古市 でも、日本語の小説を選ばなくても、ゲームであるとか、もっと世界的に流通する可能性があるものだってあるわけじゃん。

落合 別にゲームを作ってもいいんですけど、今じゃないかなっていう気がする。ゲームは総合芸術だから、最初からそこに行くにはパーツが足りないなと思っていて。今やりたいのは小説や写真集で、それを一通りやってみて、全部のお作法が決まってから総合芸術に行くと、世界観も綺麗になる。アカデミックとテックとベンチャーとメディアアートをやってきたから。

 たとえば蜷川幸雄さんや寺山修司さんが映画を撮ると、いろんな所作が固定ルールになる。それはなぜかというと、その人が格好良いと思うものが全方位的に埋まってから映画を撮っているからですよね。だから、僕も自分が格好良いと感じるものが全方位的に埋まるまでは、ライフスタイルの中を生きていこうと思っていて。だから小説で自分が好きなタイプの文章を書いたり、写真で自分の好きなタイプのビジュアルを撮ったりして。そうやっているうちに、自分が好きな言葉の選び方の癖が出てくるといいなと思ってるんですよ。それはメディアが古いか新しいかは関係なくて、小説を書くときにもゲームのシナリオを書くときにも共通することで。そのゲームが言葉で会話するゲームであれば、言葉の癖があったほうが面白いから。

■「平成は終わらない」ということを書きたかった

古市 「古いメディア」といったあとなんだけど(笑)、僕も『平成くん、さようなら』という小説を書きました。

落合 読んだ、読んだ。安楽死がテーマになった小説だったから、「古市さん、死にたいのかな?」と思ったんだけど。

古市 小説の中と違って、この国ではまだ安楽死ができないからね。僕が小説を書こうと思った理由はすごくシンプルで、平成という時代をテーマに何かを書こうと思ったときに、小説のほうがぴんときたから。一つは「平成は終わらない」ということを書きたかったんだよね。平成は、膨大な量の写真や動画が残されたアーカイブの時代。だから平成が終わっても平成は後からいくらでも検索可能でしょ。平成の音楽を聴いて平成のYouTubeを観ながら、望めばいつまでも平成を生き続けることができる。

 そして、小説のほうがほんとうのことを書けると思った。これまで「ほんとうのことです」という体で評論やノンフィクションを書いてきたけど、フィクションというフォーマットに載せたほうが、自分が感じたことをより言えるなと思った。極めて個人的で誰にも言うはずのなかったことや、コンプライアンス上そのままでは言いにくいことも、物語でなら書ける。江戸時代の御家物じゃないけどね。それがフィクションの力かなと思うんだけど、落合君はどういう小説が好きなの?

落合 小説だと、SFはだいたい好きですよ。ロバート・A・ハインラインの『夏への扉』や、フレドリック・ブラウンの『天の光はすべて星』、あとはサリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』やダニエル・キイスの『アルジャーノンに花束を』も好きです。青春の本を選べと言われると、村上春樹さんが出す本は全部読んでますね。何で村上春樹さんの本が好きかというと、読んだあとになんかしゃべりたくなるんです。言葉が出やすくなる。僕はそれを「どうでもいいことに対してツベコベ文句を言いたくなる感情」と言ってるんですけど、たとえばペットボトルを取ったときに、「この世に完成されたペットボトルなんてないんじゃないか」とか、そんなことを言いたくなるじゃないですか。

古市 乗り移るということね。

落合 その感覚が強いから、良い小説だと言われているんだと思う。どうしようもないことに対して村上春樹的に語りたくなる、その語りエンジンが小説に漂っているから好きっていうのはあるかもしれない。

■フィクションが現実に及ぼす力は今も昔も変わっていない

古市 最近読んだ朝吹真理子さんの『TIMELESS』がそういう小説だった。言葉の一つ一つが綺麗で瑞々しくて、ストーリーよりも言葉の美しさを追える素敵な小説。でも、僕は基本的には文体よりもプロットに惹かれる。漫画だけど藤子・F・不二雄のSF短編集とか好きなんだよね。『気楽に殺ろうよ』という短編は、性欲と食欲の受け止められかたが逆転した世界に主人公が迷い込む話。その世界では性欲がオープンなことで、食欲が恥ずかしいこととされている。性欲は種を保存するための公共的な願望だけど、食欲は一個人を維持するための独善的な願望である、と。主人公はそう諭されて納得していくんだけど、そうやって世界の違うありようを見せてくれる作品が好きなんだよね。

 現実世界においても、フィクションの想像力はすごく使われているなと思う。社会が今の姿になったことには、昔の人が描いたSFや未来予測のフィクションが介在しているはずで、想像力が社会に及ぼす影響って馬鹿にできない。リニアモーターカーの建設が進められているのも、「未来にはリニアモーターカーが走る世界が実現する」と書かれた絵本や少年雑誌を読んでいた人たちが、今それを作っているわけでしょう。フィクションが現実に及ぼす力は今も昔も変わっていなくて、それが小説に興味を持った理由なんだよね。

 小説に比べると、いわゆる論文なんてここ数百年のもので、そこまで普遍性のあるフォーマットではない。でも、おそらく物語はホモ・サピエンスの歴史と同じぐらい昔からある。文字が残される前から、神話という形で物語が存在してきた。物語は評論より全然古くて、物語でしか伝わらないものがあっても不思議じゃない。

落合 それで言うと、僕が好きな物語は聖書ですかね。ビジョンが必要で、それを共有して、手を動かしながら物語を語ることでともに動く仲間を増やす。そういった観点では、テクノロジーは実装可能な物語であるし、我々は実装しながら走ってますから。

古市 神話が面白いのは、たとえば日本書紀とギリシャ神話の共通性がよく語られるけれども、世界の神話は2つのルーツに遡ることができるという説もある。つまり、ある面白い神話が世界中に伝わって、それが地方ごとにローカライズされていく。そう考えると、面白い物語というのは、時間と距離を超えて残り続ける。その意味で物語の可能性はすごく感じるし、落合君の言う「魔法」は物語に近いところがある。昔の人にとっては、言葉を語ること、物語を語ることは、ファンタジーを見せることに近かったんじゃないかな。今よりはるかに食事量が足りなくて、栄養条件の悪い生活をしていた人たちであっても、今ここにはない世界を描くファンタジーをこぞって語っていた。今ここにないものを見せてくれるという意味では、文学と魔法はすごく近い位置にあるんだと思います。

(10月7日、文藝春秋にて収録)

#1 から読む)
写真=佐藤亘

平成くん、さようなら

古市 憲寿

文藝春秋

2018年11月9日 発売

(橋本 倫史/文學界 2019年1月号)

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