「週に1回の交流」は誇張だった? 上皇陛下と美智子さまの“距離を縮めたテニスデート”の知られざる裏側

「週に1回の交流」は誇張だった? 上皇陛下と美智子さまの“距離を縮めたテニスデート”の知られざる裏側

上皇陛下と美智子さま(2001年12月撮影) ©文藝春秋

 1958年11月27日に婚約を発表した明仁皇太子(現上皇)と正田美智子さん(現上皇后)は「皇室史上初めて恋愛結婚をしたカップルである」と繰り返し語られてきた。

 しかし元皇室記者の森暢平さんは、正田美智子さんが候補に挙がる以前から選考チームによる皇太子妃候補の検討は始まっており、良家の子女が在学していそうな学校からの推薦リストの中に、以前から皇太子の知り合いであった美智子さんの名前があったのが皇太子妃候補となったきっかけではないかと指摘する。

 ここでは森さんの著書『 天皇家の恋愛 』から一部を抜粋し、明仁皇太子と美智子さんの距離を縮めたとされる「テニスデート」の裏側を紹介する。(全2回の1回目/ 後編を読む )

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■美智子を選んだのは誰か

 正田美智子は選考チームの主導で選ばれた。それにもかかわらず、「明仁皇太子が自分の意思で美智子を選んだ」と受け止められるのはなぜだろう。

 明仁皇太子ともっとも仲がよかった徳川義宣(よしのぶ)の説明を見ていきたい(徳川義宣寄稿)。「美智子さま神話」が広く信じられるようになるのも、徳川ら学友の説明による部分が大きい。徳川は婚約直後、共同通信社に寄稿し、婚約までの経緯を説明した。徳川は次のように述べる。

 冬を越え、殿下〔明仁皇太子〕と正田さんは会う機会もなく、また積極的に会おうという動機もまだ生まれていなかった。冬も過ぎて何かの話のおりに正田さんの事が話題に上ったとき、殿下は初めて自分の妃候補として彼女を思い返してみたそうだ。考えてみれば自分の理想にかないそうな人だと思いついて、いろいろくわしく事情を調べるよう手配させ、自分の気持もはっきりさせる事ができたので、この人こそと一本ヤリに決めこんだのだそうだ。(『防長新聞』1958年11月30日)

 明仁皇太子が美智子をふいに思い返したと、徳川は解説する。皇太子が「正田さんも調べてみたら」と軽く示唆したとする報道もなされ(『週刊朝日』1958年12月14日号)、美智子を選んだのは皇太子自身であると長らく語られてきた。

 しかし、実際は、各学校からの書類や写真を見ているとき、そこに美智子を見付けたのではないか。毎日新聞記者の藤樫準二が、東宮侍医の佐藤久(さとうひさし)から聞いた話によると、明仁皇太子は各学校から来た写真を「これは丸顔だね」などと側近と話しながら書類をさばいていた(『毎日新聞』1996年10月1日夕刊)。

 想像するに、美智子が見いだされた経緯は、次のようなものではないか。すなわち、聖心女子大学の推薦リストのなかに、前年にテニスをした美智子があった。皇太子は、粘り強いプレーや、意見をはっきり言う性格を思い返し、彼女も妃候補になると考えた――。

 小泉(編注:選考チームの一員。東宮職御教育常時参与)は、のちに「殿下〔明仁皇太子〕のみる所と、われわれの意思が一致したのだが、どちらかといえば、われわれの方が先だった」と述べた(『週刊朝日』1958年12月14日号)。学校推薦の候補のなかから、美智子をピックアップしたのは選考チームが「先」であったと小泉は強調する。

 黒木(編注:選考チームの一員。東宮職侍従)もまた、決定権は選考チームにあったと証言した。「〔皇太子は〕宮内庁の我々、事に携わる者たちの客観的な調査をまたれ、果たしてご自身の中に芽生え始めたお気持ちが許されるものであるか否かをお確かめになったのであった。もしこの時お相手の方が妃殿下に適(ふさわ) しくないとの結論が出たとしたら殿下は恐らく断念なさったと私は思う」(黒木従達回想)。皇太子の意思より、選考チームの意向が優先した。

■皇太子と宮内庁の共同作業

 徳川の寄稿には、もうひとつ重要な事実が述べられている。つまり、明仁皇太子が、美智子を「一本ヤリ」と決めて以降、「一つの目的のために方針は決められ、五月にテニス大会があった時を利用し、殿下はその後の再会の場所、時間などまで決められた」との一節である。

「5月のテニス大会」は1958年5月4日に調布市の日本郵船コートで行われた。皇太子の仲間がつくった「ルプスの会」が主催した。ルプスとはラテン語で狼(おおかみ) を意味する。皇太子の学友たちが結婚適齢期となり、テニスを通じた相手探しを行う会だった。いまで言えば、婚活サークルであろう。

 徳川の説明では、明仁皇太子自身が「再会の場所、時間」を決めたことになっている。しかし、宮内庁選考チームとの連動に注目すべきだ。少なくとも小泉と黒木は4月中には美智子を皇太子妃候補とする腹を決めていた。調査と同時並行で「出会いと交流」の場を設けようとしたのではないか。

 つまり、皇太子が独力で場所と時間を決めたのではなく、選考チーム、とくに黒木と相談し、美智子を誘う状況を考えた。半年ぶりの再会は、皇太子と小泉・黒木との共同作業であった。

■一緒のテニスの回数は……

 徳川は「それから後は大体1週に1回ぐらいの割りで〔明仁皇太子は美智子と〕テニスクラブで顔を合わせ話をし、親しくなることに努められた」と続ける。「テニスクラブ」とは、麻布の東京ローンテニスクラブ(以下、東京ローンクラブ)である。徳川は、週1回という頻度で交流したと証言した。しかし、交流がそれほど頻繁であったかは疑わしい。

 東京ローンクラブでのテニスは、結婚前のデートのように受け止められている。皇太子は以前から会員であり、美智子は5月15日に会員となった。美智子はなぜ、都合よくテニスクラブに入会したのだろうか。

 おそらく、次の誘いが用意されたからだろう。当時、東京五輪の前哨(ぜんしょう)戦として第3回アジア競技大会(5月24日〜6月1日)が開催直前だった。そこにイラン皇弟来日の予定があった。国際親善を兼ね、テニスを趣味とする皇弟と皇太子が一緒にプレーする計画が持ち上がる。皇太子は妹の貴子内親王とペアを組むため、イラン皇弟にも女性ひとりが必要になった。そこで美智子が誘われた。

「英語もテニスも堪能だから」と理由を付ければ接伴(せっぱん) 役を頼みやすい。「練習をするから」との名目ならクラブへの勧誘も不自然ではない。

 東京ローンクラブに入会した美智子は5月21、31日の2回、皇太子とテニスの練習をした(以下、テニスの日付は「織田和雄日記」を参照した)。6月1日にイラン皇弟との親善テニスがあり、美智子は予定どおり接伴役を果たした。皇太子と美智子のテニスは、前年を含めここまでで計6回となる。

 イラン皇弟の接伴が終わっても二人は東京ローンクラブでテニス交流をした。6月9日は確実である。しかし、その後のテニス交流はそう頻繁ではない。明仁皇太子は6月23日〜7月10日までの18日間、北海道行啓に出掛け、7月18日〜25日は葉山御用邸で静養した。この間、物理的にテニスはできない。7月16日に美智子を誘ったテニスが計画されたが、テニス仲間である織田の連絡ミスで実際は流れた(『天皇陛下のプロポーズ』)。7月に2人がテニスをした形跡はない。

 明仁皇太子は8月1日、静養のため軽井沢に移動し、美智子も8月3日、同じく軽井沢に移動した。軽井沢のテニスの場で二人が会ったのは、おそらく2回だ(8月7日、10日)。8月13日、皇太子の学友の別荘でのパーティーで、皇太子と美智子がダンスを踊った事実も確認される。しかし、これが、婚約発表(11月27日)までに、2人が会った最後であった。その後、3ヵ月半、2人は一度も会っていない。

 婚約発表までのテニスの交流は、10回を少し超える程度であろう。徳川の言う週1回の頻度は、誇張した言い方だ。

 そもそも美智子は明仁皇太子との結婚を意識していなかった。純粋に皇太子とテニスの練習をしただけである。逆に、結婚をまったく意識しなかったから、気軽にテニスができたのだ。テニスは2人きりのデートでもないし、結婚を前提にした交際でもない。

 徳川ら学友の証言は、恋愛を過度に物語化する。スポーツを通じて距離を縮めたとするストーリーになっている。

■ツーショット写真の裏側

 1958年8月に軽井沢で撮影された「ツーショット」写真も、2人が親密に交流した印象を与えるが、果たしてどうか。仲よく並ぶように見えるが、実際は間に男性ひとりがいる。偶然、仲よさそうに撮影されたショットに過ぎない。

 明仁皇太子はその年の夏、軽井沢で友人・知人多数と頻繁にテニスをした。そこには多くの女性がいて、美智子もそのひとりであった。新聞社は、皇太子周辺にいる女性を片っ端から撮影した。毎日新聞記者藤樫の旧蔵資料(「皇太子妃候補関係ファイル」)のなかには、同紙がこの年、軽井沢のコートで撮影した若い女性のリストが残り、25人もの名前が挙がる。

 毎日新聞・朝日新聞の2社だけが、宮内庁が密かに美智子を妃候補として調査していると勘付いてはいたが、この2社とて半信半疑の状態であった。

 選考チームと皇太子にとって注意すべきことは、美智子には、彼女が皇太子妃候補であると知られてはならなかったことだ。結婚が意識された途端、交流を忌避する事態が容易に想像できたからである。相手に気付かれずに、親しくなるのは難題であった。

 明仁皇太子の姉東久邇成子(もと照宮)は、皇太子と美智子の交流について、さらにシビアな見方をする。婚約発表当日のNHKテレビでのコメントだ。東久邇は「推薦されたなかに、たまたま東宮様〔皇太子〕がテニスの折々にお目に止められていた方があったということは不思議な御縁だと存じます。〔中略〕長いこと、相手に気付かれないように観察なさったうえで、〔最後に〕その御決心を打ち明けられました」と説明する。

 美智子との交流は、彼女の適性を観察する場であったと、東久邇は位置付ける。ロマンティックさがまったくない冷静な物言いであるが、テニスデートを否定する客観的な視線であった。

眞子さんと小室さんだけじゃない…「国民の理解と納得」の外ですでに多様化している“現代皇室の真実” へ続く

(森 暢平)

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