「バイト辞めて生活できるようになったのは40越えてから」51歳の芸人が好きなことを仕事にできた理由

「バイト辞めて生活できるようになったのは40越えてから」51歳の芸人が好きなことを仕事にできた理由

プチ鹿島さん

 新聞14紙を購読しての読み比べが趣味で、時事芸人として各メディアで発信を続けるプチ鹿島さん(51)。実は芽が出るまでの紆余曲折は数知れず、遅咲きの人でもある。「バイトを辞めて生活できるようになったのが40越えてから」という鹿島さんが「謎の自信」を持ちながら好きなことを仕事にできた理由を聞いた。(全2回の1回目。 #2 に続く)

◆ ◆ ◆

■時事ネタ芸人を目指していたのか?

――文春オンラインでの新聞読み比べコラムも連載6年目。プチ鹿島さんはスポーツ紙、夕刊紙を含め14紙を購読しているんですよね。毎日、目を通すルーティンに苦しくなることはないですか。

鹿島 もう「たしなみ」の域ですからね。1紙だけ読んでいるより楽というか、やっぱり楽しいんです。電子版で読むものもありますが、毎朝、ポストに入りきらない新聞がドサっと置き配されていくのにも慣れました。午前中に2時間、見出しや記事の切り口を読み比べる時間を取っているんですが、1紙を隅から隅まで読むよりも疲れないし、興味のあるニュースについての土台ができていく感じがします。

――今や「時事芸人」という肩書きでの活躍をされていますが、もともと時事ネタをやる芸人を目指していたんでしょうか。

鹿島 いえ、コンビ時代にオチで時事ネタっぽいものを使うこともありましたが、基本的には堪能する側でした。特に政治分野は好きすぎて新聞や書籍を読んでいるだけで十分でした。

 時事ネタ全般が好きなのは、高田文夫先生の影響ですね。子どもの頃、たけしさんのオールナイトニッポンを聴いてたんですが、次第にスタジオで嬉しそうに笑って絶妙な合いの手を入れる人のほうが気になり出して。そのうち本も探して読むようになって、ますます好きになりました。高田先生が日大芸術学部出身だからって、受験の際には日芸目指してたくらいです。結局、推薦合格していた大阪芸大の放送学科に入るんですけど、高田先生への憧れは募るばかり。2〜3カ月に1回のペースで夜行バスで上京して、紀伊國屋ホールや安田生命ホールで高座に上がる先生を観に行ってました。

――立川談志に入門して、落語家の顔も持っていますもんね。

鹿島 立川藤志楼として語る時事を絡めたマクラが本当に楽しみで、高田文夫フリークとしてはどんなネタが出ても、即座に反応できるくらいの気構えで行くわけです。ところが、周りのファンも同じくらいワァーっと盛り上がってる。「高田先生のネタは俺だけがわかってる」という自惚れが、見事に崩れるんですね。そして、東京のファンはどうやら高田先生の『ラジオビバリー昼ズ』という番組を聴いているらしい。しかもそのオープニングトークが面白いらしい。だから会場ですぐに反応できるんだ、と気づいてしまう(笑)。

■ボロアパートで知った“地下鉄サリン事件”

――若き日の挫折ですね。

鹿島 そうです。大阪から通っている俺は何だと。それでバイトでお金を貯めて、大学を卒業してすぐに東京に来ました。就職活動もしてません。その時は芸人になるかも、放送作家になるかもよく決めてない。とにかく『ビバリー昼ズ』が聴きたかった。

 2万円くらいの新高円寺のボロアパートを借りて、働きもせず、とにかく朝11時くらいに起きて『ビバリー昼ズ』を聴く。そんな日々を過ごしていた95年の3月20日に地下鉄サリン事件が起きます。11時くらいに目を覚ましてラジオをつけると、いつもの陽気な雰囲気じゃないんです。あの時の「エッ?」という感じは忘れられないですね。そして同時に、自己嫌悪に陥ったんです。

■「いつまでもこのままの生活をしていられない」

鹿島 住んでいたところは丸ノ内線沿線で、霞ケ関で事件に巻き込まれた路線でもあります。昼前に目を覚ました自分には何も被害がなくて、ちゃんと働いている人たちが通勤時間に被害を受けた……。その2カ月前に起きた阪神・淡路大震災のことも大きかったですが、この年は「いつまでもこのままの生活をしていられない」と思い続ける1年でした。24歳とか25歳のとき。「気づくのが遅いよ!」って本当に思います。

――そして大川興業での芸人修行時代が始まるんですね。

鹿島 大川興業に入るきっかけが実は東スポなんです。大川総裁がコラムを連載してまして、そこに「この国はもう、食いっぱぐれることもないだろうし、どんなに貧乏でも餓死する奴はいないんだ、だから同じ貧乏なら面白いことをやろうじゃないか」というようなことが書かれていたんです。ちょっと感じ入るところがあって、それでオーディションを受けました。

 ただ、大川興業って寺田体育の日さんや江頭2:50さんみたいな体のでかい人しかいないし、怖そうな体育会系の組織だと思ってたんです。ところがみなさん優しくていい人ばかりで、しかも東スポとプロレスを愛している。それまで隠れキリシタンのように東スポ愛とプロレス愛を抱えていた僕にとっては、夢のような世界でした。所属芸人たちの一体感もしっかりありましたし。

――大川興業は芸能事務所ではなくて、「芸人集団」を謳っていますもんね。

鹿島 大川興業って半分劇団のような感じなんです。僕も新人としていきなり芸人デビューしたわけではなくて、公演のお手伝いをするスタッフから始まりました。本公演は1年に1回あって、1カ月前から稽古が始まるのでバイトもできなくなる。お金は大変でしたけど、やっぱり地方公演は旅巡業の楽しさがありました。旅先のホテルで全員の衣装を洗濯し終わってから、先輩に「新人たちも美味いもの食べてきなよ」なんて言われると、旅芸人気分でしたね。すでに売れっ子になっていた江頭さんと同じ弁当食べながらお話しできたのも、巡業のいい思い出になってます。

■『エンタの神様』から声がかかった

――そして、コンビ芸人として舞台を踏み始める。

鹿島 グループも含め、何回か相方を変えて最終的に落ち着いたのが「俺のバカ」というコンビです。ここで僕はバカキャラの相方に対して、縄跳びをムチのように床に叩きつけるツッコミというのをやってました。このマッチングをしてくれたのが、松本キックさんです。

 ハウス加賀谷さんと組んだ松本ハウスは『ボキャブラ天国』でブレイクしたコンビ。大川興業が生んだスター芸人でした。キックさんのセンスはカリスマ性がありましたから、他の事務所の芸人も教えを乞うて訪ねてくるほどでした。青木さやかさんとか、ピン芸人時代の松田大輔君(東京ダイナマイト)とか。そんなキックさんが僕たちに目をかけてくれて、ネタを見てもらったりアドバイスをもらっているうちに、爆笑問題さんの事務所タイタンのライブに出演できるようになったり、そしてついには『エンタの神様』から声がかかったんです。

――当時『エンタの神様』から声がかかるのは相当なこと。

鹿島 特に初期は大物しか出ていないので、「何で自分らなんだろう?」と思いました。どうやらライブでやってたイラク戦争のナンセンスなギャグが気に入られたみたいで。ところが番宣CMには何回か僕らが映るんですけど、いつまでたってもオンエアはされない。あのCMは今でも謎です(笑)。

 そんなこともありつつ、周りからは「テレビに向いてる芸風だ」というふうに言われ始め、少しずつ手応えが出てきた。ひょっとするとテレビで行けるかも、テレビに強い事務所から声がかかるように活動の幅を広げたほうがいいかも、とアドバイスをいろんな方からいただいて、筋を通して大川興業を離れることにしたんです。これが2006年末のことで、フリーのコンビ活動が2007年から。

――鹿島さん、37歳の年ですね。

鹿島 ところが相方が突然、芸人辞めると言い出すんです。しかも「パイロットになりたい」って。もともとアマチュアレスリングをやっていたやつで、大川興業に入ったあと、浜口ジムに入り直して大会にも出るようになっていた。そんなある日、「鹿島さん、僕には夢が3つあって、それはお笑い芸人になること、プロレスラーになること、そしてパイロットになることなんです。2つは夢が叶いました。あと1つを叶えるためにコンビをやめさせてください」と。

 どう考えても言ってることがバカなんですがその本気度も相当のもので、生粋のバカキャラには敵わないなあと。3日間くらい徹夜で説得しましたが最後は、「まあ、じゃあわかった」ってキツネにつままれた感じでしたね。それで相方はアメリカに行っちゃいました。

■事務所独立→コンビ解散が転機に

――辞めてフリーになったら、今度はコンビ解散……。

鹿島 もう、一人ぼっちです。周りも、芸人を辞めるんだろうなと思っていたみたいです。でも僕は辞める気がさらさらなくて、何かやっていればいいだろうくらいの気持ちでした。ただピンでの活動を告知するにしても、事務所に所属しているわけでもないので、何らかの発信をしなきゃならないなと。それで友人のTシャツブランド・ハードコアチョコレートのMUNEさんが「ブログぐらい書いてみたら」ってアドバイスしてくれたんです。ありがたいことにウェブデザイナーを紹介してくれて、無料でブログを開設してくれた。

――このブログで新聞ネタも書き始めるようになるんですね。

鹿島 社説パロディを書いたりですね。社説いじりで言えば、成人の日の《ああ、またオヤジの「居酒屋若者論」か、などと言わずに、聞いてほしい。》で始まる、伝説の朝日新聞社説「 尾崎豊を知っているか 」を取り上げたのもブログでした。もともと新聞を読むのが好きでしたから、時事ネタを書くぞという意気込みがあったというより、自分が面白いと思っていたことを自然に書く感じでした。

――書くのは得意だったんですか?

鹿島 文章を書くのは好きでしたけど、それは芸人活動とは別と考えていました。ブログを始めるまで……というか「一人ぼっち」になるまで、僕はゴリゴリの芸人観を持っていて、芸人たるもの、舞台の上で客を笑わせてナンボだという考えに凝り固まっていたんです。ですからブログで何かを発信するとか、そんなことは邪道だくらいに思っていた。でも、必要に迫られて自分の面白いと思っていることを文章にして発信してみると、これで楽しんでくれている人がいるなら、これも芸人としてアリだなと思い直したんです。

■コールセンターバイトで月収15万

――とはいえ、かつては『エンタの神様』出演の話もあったほどだった鹿島さんにとって、忸怩たるものというか、脚光を浴びたいという焦りみたいなものはなかったんですか?

鹿島 これがいつまで続くのかなっていう漠然とした不安はもちろんありました。だけど、最終的には自分で面白いことをしていれば大丈夫だろうみたいな、謎の自信があったんですよね。コンビを解散したあとは、深夜のコールセンターでバイトを始めて、収入はだいたい月15万円くらい。たまにロフトプラスワンのイベント司会の仕事を振ってもらえて、そこで貴闘力さんとか、突如麻原批判を始めた上祐史浩氏をゲストに呼んだトークライブをやったりしました。自分なりに面白いという軸をぶらさずに司会の仕事を続けていると、次第に「あいつ回し上手えな」って認められるようになってきて、一時期はこういう仕事を中心にした「司会業」として生きていってもいいのかな、と思ったりもしました。

■売れない芸人が集まった『許可局』誕生前史

――ブログの開設といい、司会の仕事といい、一人ぼっちになったときに手を差し伸べてくれる人との出会いが貴重ですね。

鹿島 そうですね。さっき謎の自信があったと言いましたけど、この頃の行動は全部今につながっていますね。ライブが終わったあと、マキタスポーツや米粒写経のサンキュータツオと居酒屋やルノアールに行って、昨日観たテレビの話とか、「なんでああいう笑いがウケるのか」みたいなことを淡々と語り合っていたんです。この時間がみんな好きで、誰彼となくこれをポッドキャストで配信しようということになった。みんな売れない芸人だったけど、もしかしたら僕が「一人ぼっち」になったことを心配して、ポッドキャストという場所を作ってくれたのかもしれませんけど。

 こうして、マキタさんとタツオと僕との配信が始まって、登録数が増えていって、コンビ時代よりも僕のことを知ってくれる人も増えていったんです。今も続いている『東京ポッド許可局』の誕生前史ですね。

――時事芸人として自分を確立した、と思うタイミングはありますか?

鹿島 2013年に『許可局』がTBSラジオで番組になったこと、ニッポン放送でナイターオフシーズンの番組を任されたこと、翌年に初めての単著『教養としてのプロレス』(双葉社)が売れたあたりですかね。2017年の「文春オンライン」スタート時から連載陣に抜擢されたのも大きいと思います。

 昨日今日起こったことを原稿に書いたり、ラジオで話すと喜んでもらっている、ウケているという実感が出てきた。あと、1年を振り返る年末ライブをやり始めて、時事漫談一本で舞台に立ち始めたんです。コンビ時代は定番のネタとかいろいろ試行錯誤していたんですが、時事ネタだけでいいじゃんって吹っ切れたんですね。これが42〜43歳のこと。今は毎日のニュースをネタにできるか考える日々ですから、コンビ時代よりもよっぽど芸人していると思ってます。

■40越えてバイトを辞めて生活できるように

――40歳前後というのはキャリアチェンジのギリギリのラインと言われたり、こと仕事面では分岐点で悩む人も多いんじゃないかと思うんです。こうして振り返ってみて、鹿島さんがこの世代に伝えたいメッセージってありますか?

鹿島 僕なんかバイトを辞めて生活できるようになったのが40越えてからですし、結婚したのが43歳のとき。本当に42〜43歳からですよ、こうやって好きなことを仕事にできているのは。でも、「謎の自信」を持ってここまでこれたのは、人より溜めの時間が多かったからだと思います。

 若いころは無駄なことしかやっていなかったけど、無駄なことが役に立っている。新聞が好きでネタにし始めたら、時事芸人とか読み比べ芸人としてニッチなポジションをいつの間にか獲得できていた。東スポを読み続けていたから、今のネタがある。一人ぼっちになっても、何とかやってこれた。そして実際は一人ぼっちじゃないこともわかった。無駄の埋蔵量が多い人ほど、人生の曲がり角や分岐点にうまく太刀打ちできるんじゃないかって思います。

写真=佐藤亘/文藝春秋

「ゴリゴリの芸人観を捨てたのが10年前」プチ鹿島が“専門家じゃない人問題”に対抗するための時事ネタの扱い方 へ続く

(プチ鹿島/文藝春秋)

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