「何だかだまされているような気がする…」補給の途絶えた島に取り残された極限状態の兵士は“終戦”の瞬間に何を思ったか

「何だかだまされているような気がする…」補給の途絶えた島に取り残された極限状態の兵士は“終戦”の瞬間に何を思ったか

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「タイヒ! タイヒ!」甲板上は鮮血が流れ、絶叫と悲鳴でごったがえして…第二次大戦下の太平洋で日本軍が体験した“地獄絵図” から続く

 太平洋における日本海軍の最大の根拠地トラック島防衛のため派遣されるも、米機攻撃に遭遇し、多数の人員と装備全部を喪失してしまった「松本百五十連隊」。生き残った兵士は、命からがらトラック島に到着したが、その後、戦線は硫黄島などに進んだため、彼らはトラック島への補給が途絶された状態で取り残されてしまった……。

 上陸から終戦までの1年半を空襲にさらされ、飢餓と戦いながら、彼らはいかにして生き抜いたのか。ここでは、『あゝ野麦峠』で著名な作家の山本茂実氏が、出征していた人々の生の声を記録した『 松本連隊の最後 』(角川新書)より一部を抜粋。極限状態の戦地で生き延びた兵士たちの知られざる最後を紹介する。(全2回の2回目/ 前編 を読む)

◆◆◆

■玉音放送を聞いた海没慰霊祭の日

 昭和20年8月15日、いうまでもなくポツダム宣言受諾の日、つまり日本降伏の日である。

 そんなこととは知らない長沢少佐の第一大隊では夏島(編集部注:トラック諸島のひとつの島)の砲台山でお盆のてんぷらをあげて盛大な慰霊祭の準備をしていた。

「柏四六五六部隊海没戦死者慰霊祭」というものである。しかるにどうしたものか、この日のことは20年たった今日ではいっこうに要領を得ないことがいくつかある。たとえばてんぷらをあげたことだけはみんなよく覚えているが、かんじんの慰霊祭がどんなふうに行なわれたのかはほとんどわかっていない。

 また林田連隊長、草間副官、大竹主計将校、門倉軍医のほかにまだ数名の連隊本部の将校が砲台山の会場へ来たことは確かで、この日連隊長は長沢少佐の顔をみるなり「負けたよ、日本は負けたよ! と、いまだかつてみたこともない悲痛な顔で言って握手した。そしてみんなの心づくしに出したてんぷらも一つも食べずに、すぐ師団司令部に行くと帰ってしまった」と。

 これは長沢少佐の記憶であるが、一ノ瀬中尉の話はこれがぜんぜん違う。

「そんなことないですよ、連隊長以下みんなよろこんでてんぷらをたらふく食って、ヤシ酒も飲んで帰りましたよ……」

 連隊長がてんぷらを食ったか食わないかは別として、当時栄養失調者が続出しているトラック島でコプラ油でてんぷらをあげたということがいかに大事件であったかは想像にかたくない。慰霊祭のことはみんな忘れてしまっているばかりでなく、その直後天皇放送によって日本軍敗北という歴史的宣言をきいているはずなのに、その前後のことはみんな忘れてしまい、このてんぷらのことだけはだれもがよく覚えていたということである。

 たとえばある兵隊はこう言った。

「敗戦をきいた時ですか……さあよく覚えていないナ、てんぷらをあげた日は確かお盆ですが、日本の負けたことをきいたのはもっと後だったじゃないですか?――いやそうじゃあなかったかな、てんぷらをあげている時にだれかそんなことを言った者があったナ……」

 いかにてんぷらの印象が強烈だったかよくわかる。

 もう一つの疑問は、林田連隊長が「日本は負けたよ」と、長沢少佐に言った言葉ははたしてどこから出た言葉かということである。

 天皇の放送は正午である。一大隊の慰霊祭は十時からである。それを前に大本営から内命があったものか、いやもしあったとしても連隊長はまだその日師団司令部に行っていないはず、もちろん行かなくてもきくことは出来るが、こんな重大なことを電話で知らせることはない――とするならば連隊長はこの時正式な命令系統からきいているはずはない。おそらく外電や海軍方面から伝わる情報からではなかったろうか……。

 師団長からの正式の話は当然正午の天皇放送以後であろう。これに続いて大本営からは続けざまにいくつかの命令が出ているはずである。

 各連隊長が集合したのはそれ以後とみるのが妥当である。

 もう一つ当日の奇妙な現象は、連隊長が「日本は負けた」と言った時、長沢少佐ははじめてきいてびっくりしたというが、かたわらにいた大隊副官の北沢粂治中尉、松沢正直中尉らはとうに知っていた。兵隊たちもあちこちでボソボソ話し合っておぼろげには知っていた。知らない者は大隊長ばかりという奇妙な現象である。よくあることであるが、責任ある人にはだれも無責任なうわさをうっかり言えなかったということかも知れない。

 長沢少佐が日本降服のうわさをかんかんに怒ったという話をきかしてくれた者があるが、しかし本人は否定した。いずれにしても15日の午後には、終戦の報せはもろもろの喜びと不安を乗せたままたちまち全島に広がっていった。

■「連隊長殿、えらいことになりましたナ」

 春島の松本連隊本部から、将校集合の命令が伝えられたのは16日午後である。

 天皇放送の重大ニュースと、大本営命令が下ったのは15日正午であるが、この日は夏島ララの師団司令部はまさかと思ったうわさが事実となって、この重大放送にとまどい、どう処理していいものか迷いに迷い、うっかりこれが広がったら、それこそ全軍大混乱におちいることは火をみるよりあきらかであった。三十一軍司令官麦倉中将の一番おそれたものもおそらくそれだったであろう。すでに戦局の帰結ははっきりしている。あとはいかにして幾万の部下将兵を混乱から護り無事に故国へかえすか? 連隊長を集めて話したのももちろんそれだった。

 林田連隊長が春島に帰ったのは16日の夜ふけである。

「連隊長殿、えらいことになりましたナ」

「うん!」

 草間副官と二人は目と目でそう言っただけで師団司令部を出てからまだひと言も発していなかった。ただ黙々と歩いてダイハツに乗り移り、舟が動き出してしばらくたってからはじめて二人はしんみりと語った。来るべきものがついに来たという感じであった。

 連隊長は何を言っても、「うん、うん」と答えるだけだった。彼の頭の中には、いまいくつかの想念がうず巻いていた。敗戦のくやしさというより「日本もこれで終わりになるのではないか」という、いまだ味わったこともない不安だった。立っている地盤が音を立ててくずれていく姿を想像していた。

■茫然自失涙も出なかった

 しかし現実はそんな余裕は今の連隊長にはなかった。草間副官が先ほどからいらいらしているのもそれである。

 いかにしてこれを部下将兵に伝えるか? いや伝えることはやさしい。それより、もり上げてきた戦意をどうおさめるか? ということである。――そんなバカなことが出来るものか――と打ち消す。人間は機関車のように、スイッチ一つで前進も後進も出来るほど、便利調法には出来ていない。その機関車だって今まで走ってきた惰性というものはある。

 こんなことが無事にすむはずはない。一つまちがえばすぐ同志討ちの内乱状態にならないとは保証しがたい。

 そのおそろしい現実は刻々と近づきつつあった。

 しかし、ダイハツが春島の桟橋に横づけになり、一歩足が玄武岩の上に立った時、すでにもとの林田連隊長にもどっていた。

「すぐ連隊本部に将校集合!」

 10坪ほどのニッパヤシのバラックに床板をはった連隊本部の前に、数十名の将校が集合するのに時間はかからなかった。

「ただいま大本営から重大なる命令を受けてきた。どうか諸君はこの命令を静かにきいてもらいたい」

 林田大佐はいまだかつてない沈痛なおももちで言った。

「ただいまから伝える言葉は、昨日おそれ多くも天皇陛下から直接全国民に伝えられたご命令であり、大本営からの命令もこれと同じである。われわれの戦争は終わったのである……」

 連隊長はここまで一気に言って、ハンカチで涙をふいてじっとたえていた。はじめロシアへの宣戦布告とばかり思いこんでいた将校連も、ことの意外さに言葉もなく、まるでハトが豆鉄砲をくったように茫然自失、涙も出なかった。

■戦争終って虫取りの兵隊に解放感

 林田連隊長の話をきいているときも、天皇の終戦のご詔勅をきいたときも将校たちの大部分はその時はそれほど実感としてピンとこなかった。「ポツダム宣言受諾」という言葉のアイマイさがこの場合かえって幸いしたともいえる。まさか無条件降伏とはだれも思わなかったからである。

 また気づいていた者もそれはあたかも肉親の死に突然あった時のように、その時にはむしろ実感はなく、しばらくたって気も落ちついたとき、はじめて新たな悲しみとなるようなおそらくそんな感じだったようである。

 したがって将校たちはじゅんじゅんと、とききかせるような連隊長の話と、〈終戦の大詔〉を人ごとのようにきいていた。そして最後に長沢少佐が、

「――では、これで解散する。ただ今連隊長の言われたように、この上は妄動をつつしみ、最後まで秩序ある軍隊として松本連隊の名誉を傷つけないよう、部下全員を家族のもとに送りとどけねばならない。諸君らの責任は重い。ではくれぐれも自重を望む! 連隊長殿に敬礼!――解散!」

 静かないつもの解散であった。だれ一人興奮してわめく者もなくそして厳然たる部隊行動だった。みんな何ごともなく解散していった。しかし、将校たちの心の内部はそれほど平静だったはずはない。ただ彼らはこういう場合どうしていいのかまったくわからなかった。むりもないだれもこんなことを体験したものは日本には一人もなかったから、何を言っていいのか言葉も知らなかったといったほうがむしろ正しいだろう。彼らがぽつぽつものを言い出したのは連隊本部を出て帰途についてからである。

「どうも、何だかだまされているような気がする」と、だれもが心の奥でつぶやいていた。勅語のいう「これを加うるに敵はあらたに残虐なる爆弾をもって無辜の臣民を殺傷――このままなおも交戦を継続せむか、ついにはわが民族の滅亡を招来するのみならず、ひいては人類の文明をも根こそぎ破壊すべし。かくのごときは朕は何をもって億兆の赤子を保し、皇祖皇宗の神霊に謝せむや、これ朕が連合軍の申し入れを受諾せしゆえんなり」という意味の天皇の言葉はわかるような気もするが、今さらそんなことを……という気持ちが強かった。

「それは得手勝手だ、死んだ部下はどうなるのだ」だれもがそう思った。しかし「時運のおもむくところたえがたきをたえ、忍びがたきを忍んで万世のために太平を開かむと欲す」というくだりをいく度もわが心に言いきかせるように繰り返していた。それはまた「これをいかにして部下将兵に伝えるか?」という指揮官としての当然の苦悩でもあった。

 とにかく連隊本部からの帰りの道は足が重かった。何も知らない兵隊たちはきょうも芋畑の虫取りをしていた(編集部注:食糧がなかったため夜盗虫を食していた)。

 そういえば、きのうまでの爆撃はぴったりと止んでいた。戦争は終わったのだ、おれたちはもう壕を出ていられるのだ。虫取りをしているこの兵隊たちも死ななくていいのだ! そういう生への喜び、解放感は虫取りの中にさえありありと感じとることができた。

【前編を読む】「タイヒ! タイヒ!」甲板上は鮮血が流れ、絶叫と悲鳴でごったがえして…第二次大戦下の太平洋で日本軍が体験した地獄絵図

(山本 茂実)

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