「V6のサインをもらってきて」神田沙也加さんが綴っていた“14歳の芸能界デビュー”への本当の思い〈母が作りあげた“SAYAKA”にしたくなかった〉――2021年BEST5

「V6のサインをもらってきて」神田沙也加さんが綴っていた“14歳の芸能界デビュー”への本当の思い〈母が作りあげた“SAYAKA”にしたくなかった〉――2021年BEST5

『アナと雪の女王』で妹・アナの声を演じた神田沙也加さん。『アナと雪の女王2』のスペシャルイベントに登壇

2021年(1月〜12月)、文春オンラインで反響の大きかった記事ベスト5を発表します。エンタメ女性部門の第5位は、こちら!(初公開日 2021年12月20日)

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 12月18日、女優の神田沙也加さんが札幌市内のホテルの高層階から転落し、同日午後9時40分に亡くなった。35歳だった。SAYAKAとして芸能界デビューした14歳の神田さんが、母・松田聖子との関係性などを率直に明かした手記(「文藝春秋」2001年10月号)を追悼を込めて再録する。(全2回の1回目/ 後編 に続く)

(※年齢、日付などは掲載当時のまま)

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■「カンヌとかに行っちゃったりしてねー」

 今年の5月21日、カンヌ映画祭で『BEAN CAKE(おはぎ)』が、短編部門のパルムドールを受賞したというニュースが飛び込んできた。初めはそれがどれ程すごいことなのか、いまいち実感が湧かなくって、ポカンとしてしまった(笑)。

 撮影したのは2年前で、そのころは冗談で、「カンヌとかに行っちゃったりしてねー」などと言っていた。だけど、私はパルムドールという賞がグランプリより上で、最優秀作品賞だなんて知らなくて、「うそーっ、すごい賞なんだねー」と、その日の新聞に教えてもらった感じだった。

 ビデオをもう一度じっくり見てみると、改めてこの映画の素晴らしさに気づくことができた。出演者のみんな、カメラさん、デビッド・グリーンスパン監督……みんなの才能が一つになって、パルムドールを受賞することができたのだと思った。この映画に出演できたことは、今でも私の一番の宝物である。

■“松田聖子の娘の沙也加”じゃなくて

 今から2年前、中学生になって初めての夏、私は親の仕事の関係でロサンゼルスの日本人学校に通っていた。

 私が入った中1のクラスは、全校の中で一番少なくて、9人とか10人だった。小さいころからアメリカで暮らしている人や、オーストラリアとかから来た人たちで、みんな英語をペラペラしゃべることができる。私のように日本から突然入って来て、「えっ、英語、わかんない」という人はいなくて、最初はポカーンと浮いているような気もして、ちょっとした疎外感もあった。

 日本では、私の母が松田聖子だとわかると、「V6のサインをもらってきて」とか、そういうことがよくあった。手のひらを返したように、いきなり「お早う、その筆箱かわいいね」と見え見えだったりして、「あれ?」ってガッカリしたこともあった(笑)。だけど、向こうでは、そんな特別扱いはなかった。「私は、あなたのお母さんを前提に付き合っているんじゃないよ」と言われると、ホッとする。“松田聖子の娘の沙也加”じゃなくて、ただの沙也加として自分を認めてもらえて、すごく新鮮な経験をした。

■母と同じ仕事がしたいと思っていた

 間もなく夏休みに入ろうとしていたそんなある日、私はホームルームで配られた数枚のプリントの中から、興味深いものを見つけた。そのプリントの内容は、USC(南カリフォルニア大学)の映画学部の卒業生が、短編映画を作るという通知だった。そして、それは同時に、その映画に出演する男の子と女の子を探しているという、オーディション告知でもあった。

「募集してるんだってよ、受けてみれば?」

「無理だよー、あなた受けてみなよ」

「やだよー!」

 そのプリントを読んでいた友達が、隣に座っていた女の子と話しているのが聞こえた。私は、思わずドキドキしていた。やってみたいと直感的に思ったからだ。

 その映画の原作は、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が紹介した日本の民話「THE RED BRIDAL」。「小泉八雲って誰?」私はその人の名前を聞いたことがなかった。でも、時代設定は1933年で、天皇陛下が世界で一番という教育方法に慣れていない男の子(太郎君)が、四国から東京の学校に転校してきて色々つらい思いをするというお話だった。

 もし女優さんになれたら、日本の古い時代のお話をやってみたいとずっと思っていた私にとって、まさにこれは天から降ってきたような大切な大切なチャンスに思えた。このオーディションに合格できれば、一気に2つの夢が叶ってしまうのだ。私は、物心がついたころから、漠然とではあったが、母と同じ仕事がしたいと思っていた。

「この世界でやっていくのは、決してたやすいことじゃないのよ。もちろん楽しいことも沢山あるけれど、華やかに見えてもつらいことの方が多いんだから」

 母がそう言っていたことを思い出す。

 でも、松田聖子の娘として生まれて、母がコンサートとかをやっているのを見たら、同じ仕事をやってみたいと思わないほうが、正直に言って難しい。応援してくれる人がいっぱいいて素敵な所に見えるから、すごく自然に芸能界に憧れる気持ちがあった。女優さんをやれるとしたらこんなことにチャレンジしたい、歌手をやれるとしたらこういう歌にチャレンジしたい、色々なことに全部チャレンジしてみたいと思っていたのだ。

■母がきょとんとした顔で……

 その日、家に帰ると、母はいつものようにキッチンで夕食の準備をしていた。私は母に駆け寄り、「ねーねーねーねーねーねー!」と、握りしめていたプリントを差し出した。

「今日ね、こんなのが配られたんだけど、ちょっとやってみたいんだよねー」

 母が、きょとんとした顔でプリントを読み始めた。どんな答えが返ってくるか、一瞬、緊張した。私はUSCという大学の名前も知らなかったが、映画学部の卒業生にジョージ・ルーカスとか、すごく有名な監督さんがいることを母は知っていた(←尊敬)。

「いいじゃない、やってみたら。すごくいい経験になると思うよ」

 母が笑いながら言った。

「ほんと!? じゃあ、これ受けてみてもいい!?」

「うん、いいよ。じゃあ、ママが聞いてみてあげるね」

 と、オーディション詳細のFAXまでもらってくれた。すごく嬉しかった。送られてきたそのFAXは、オーディション時に演じる場面の台本だった。

■母が作りあげた“SAYAKA”にしたくなかった

 ところが、台本の台詞やト書きは、全部英語だった。当時の私は、アメリカ人と日常会話をするのもままならない状況だったが、でも、そんなことで諦めるのはどうしても納得がいかなかった。オーディションまで時間がなかったので、母の助けも借りて、一つ一つ、和訳していくことにした。そして、訳し終わった所を何度も繰り返しながら覚えて、母と一緒に夜遅くまで練習した。

 母は、書斎に椅子を持ってきて私の向かい側に座り、転校生の太郎君の役とかをやってくれた。でも、こんな表情でこう演じたほうがいいんじゃないとか、先輩としての演技指導は一言もなかった。それは、「オーディションを受けるのはあなたで、合格するのも不合格になるのもあなた。あなたの感性で台本を読んで、あなたの演技をすればいいのよ」という考えがあるからだ。私が松田聖子の娘として生きているぶん、母が作りあげた“SAYAKA”にしたくなかったのではないかと思う。

 私は、少し不安だったけれど、変に作らずに、普段のまま、自分らしくオーディションに臨もうと思った。7割ぐらいは母の手助けのおかげである。

■「頑張ってね! ママも応援してるからね」

 7月29日、オーディション会場は私が通っている日本人学校の図書室だった。学校に向かう車の中で、私はお気に入りのオレンジソーダを飲んでいたが、学校が近くなるにつれて、緊張のあまり、味が薄くなっていく気がした(笑)。一緒に車に乗ってきてくれた母は、「頑張ってね! ママも応援してるからね」と励ましてくれて、終わるまでパーキングで待っていた。

 フーッと深呼吸をして図書室の中に入ると、背が高くて眼鏡をかけたデビッド・グリーンスパン監督と、通訳の女性が座っていた。私は、挨拶をして、台本をバッグから出した。何だか英検の2次試験みたいだ。ビデオカメラを構えながら、監督が流暢な日本語で言った。

「この女の人(通訳の女性)を、太郎君と思って、ここの演技をして下さい」

 映画監督って、「違う、違う。何やってるんだ」という感じで怖いのかと思ったが、グリーンスパン監督は、穏やかで柔らかい感じの人だった。

「はい」

 緊張しつつも、練習した通りにやった。でもそれだけでは終わらなかった。

「じゃあ、本当は嫌なんだけど、先生に言われて、仕方なく太郎君に話しかける感じでやってみて」

 と、監督が言った。

「仕方なく話しかける!?」一瞬、焦った。でも、私がこの学校に入って来た時、「仲良くしてあげてね」と先生は言った。先生にそう言われた生徒の気持ちを想像して、思ったことをそのままやってみた。

 最後に自由演技があった。「転校生の太郎君がここに座っていると思って、自由に声をかけてみて下さい」ということだった。ここまできたら、どうしても合格したいと思った。監督の考えている“三原よしちゃん”に少しでも近づきたかった。

 本当に隣に転校生がいたら、最初はちょっと恐る恐るも仲良くなろうとして、すごくぎこちなく話すだろうと思ったら、一瞬のうちに色々と台詞が出てきた。

「とりあえず、教科書は持ってるの?」「なかったら、一緒に見ようね」「次の先生はこうこうでね、こんな先生なんだよ。すごいでしょう」とか……。

 全ての演技が終わると、監督が「Super!」と言った。私は、その言葉の意味はよくわからなかったけれど、なぜだかとても嬉しくなって、「Thank you!」と言って、図書室を後にした。本当は数十分のオーディションだったと思うが、私にはそれが5時間ぐらいに感じられた。でも、最後は楽しく演技をすることができた。帰りの車の中でも、「やるだけやったよ!」と達成感でいっぱいだった。

■「ところで、あのオーディションなんだけど、受かったよ」

 合格したことを知ったのは、オーディションの翌日だった。最初に母のケータイに連絡が入ったようで、普通の話をしている時に、

「ところで、あのオーディションなんだけど、受かったよ」

 と、母はサラッと言った。

 電報か手紙で知らせてくると思っていた私は、合格したという証拠がないので、「えっ、うそー」「からかってるんじゃないの?」「ホントに?」と何度も聞いた。

 本当に嬉しかった。飛び上がって喜ぶ私に、母も、

「良かったね! 頑張ったね!」

 と、言ってくれた。

 8月15日から映画の撮影が始まった。撮影する学校はパサディナという所にあり、そこは私の住んでいる所からはすごく遠くて、毎朝早起きした。初めてメークをしてもらって、用意されていた衣装の制服に着替えて、髪をきゅっと2つに結ぶと、「私はこれから三原よしなんだ……」と、改めて実感が湧いてきた。そして、同時に少し緊張もしてきた。

 廊下に歩いて行くと、カメラや照明がばっちりセットしてあって、「おおーっ!!」と感激して、思わず拍手してしまった。太郎君役の宮川竜一君は、床に座って、「こんにちはー」と、くすくす笑っていた。

「リッチー、着物じゃーん!」

「うん!」

 私を含めて、スタッフのほとんどは、当時小学校5年生だった竜一君のことを「リッチー」と呼んでいた。すっかり定着したニックネームがあって、ちょっぴり羨ましかった。

 いよいよ本番になった。リハーサルはなく、ぶっつけ本番だった。私もリッチーもこの映画が初体験だから、ここはこうしてはいけない、というタブーがわからない。ぶっつけ本番のほうが、かえって真っ直ぐに演技ができた気がする。

 そんなある日、ちょっとした事件が起きた。太郎君が先生に、「この世で何が一番好きですか?」と聞かれ、「……おはぎ!」と答えてしまい、クラスメイトがどっと笑うシーンだった。リッチーの「おはぎ!」という声を合図に、みんな笑い出すのだが、そこで突然、リッチーが泣き出してしまったのだ。

「ここのところ、ずっと撮影続きだったでしょ。色々気をつかって疲れてるだろうし、ナーバスになっちゃったんでしょう。可哀相に……」

 通訳の女性が言った。

 主役であるリッチーは誰よりも頑張らなければいけないし、人一倍責任を感じていたに違いなかった。

 弟のように仲良くなったリッチーに私がしてあげられることといったら、リッチーが教えてくれて2人の大のお気に入りになった“マウンテンデュー”というジュースを持ってきてあげることぐらいだった。通訳さんに連れられて廊下に出てきたリッチーは、しゃがみ込んでずっとうつむいていた。

「大丈夫、リッチー。すごくわかる。そういうふうになっちゃうのよね」

 私はリッチーを覗き込んでそう言った。

( 後編 に続く)

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【厚生労働省のサイトで紹介している主な悩み相談窓口】
▼いのちの電話 0570-783-556(午前10時〜午後10時)、0120-783-556(毎日16時〜21時、毎月10日は午前8時〜翌日午前8時)
▼こころの健康相談統一ダイヤル 0570-064-556(対応の曜日・時間は都道府県により異なる)
▼よりそいホットライン 0120-279-338(24時間対応) 岩手、宮城、福島各県からは0120-279-226(24時間対応)

(「文藝春秋」編集部/文藝春秋 2001年10月号)

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