「展示室を開いていいのか」シベリアの都市と友好締結してから46年…“ロシアとの友情”を深めてきた自治体の苦悩

「展示室を開いていいのか」シベリアの都市と友好締結してから46年…“ロシアとの友情”を深めてきた自治体の苦悩

ロシアの自治体と親密に交流してきた石川県能美市。発端となった森茂喜・元根上町長が住んだ家には、シェレホフ市・イルクーツク市との「友好の館」という看板が掛けられている

 ロシアのウクライナ侵攻に衝撃を受け、悲しみ、困惑している自治体がある。ロシア国内の市などと友好都市の締結をして、交流を深めてきたからだ。

 その数、計43。内訳は11都道府県、28市、4町村である。

 自治体交流は政府の外交とは異なり、住民同士の顔の見える交わりが基本とされている。国家間の利害や思惑を超えて、人と人との率直な付き合いを深めるのが真髄だ。(全3回の1回目/ #2に続く )

■石川県能美市が抱える“苦悩”

 とは言っても、国同士の争いや騒乱に影響される部分が大きい。特に、ロシア軍の非道な蛮行が連日報じられる状況にあっては、なおさらだろう。

 在日ウクライナ大使館も、一時はロシア国内の自治体と交流しないよう、日本の自治体に呼び掛けた(「行き過ぎたお願いだったかもしれない」として後に撤回)。

 自治体側は東京都の小池百合子知事が他に先駆けてモスクワ市との交流停止を発表した。ただ、都がモスクワと「断交」しても、都民生活への影響はなく、関心を持つ人も少ない。これまでの交流がいかに希薄だったかの裏返しだろう。

 一方、住民同士が付き合いを深めてきた自治体ほど苦悩している。「様々な意見が出ている中で、今後の交流をどうしていけばいいのか」と悩む職員もいる。

 そうした地区で、人々はどう考えているのか。国内で最も親密なロシア交流を続けてきた石川県能美(のみ)市を訪れた。

■なぜシベリアの市と友好都市に?

 能美市は、石川県南部の日本海に面した自治体だ。野球の元メジャーリーガー・松井秀喜さんや、森喜朗・元首相の故郷として知られている。もとからあった市ではなく、2005年の平成大合併で、能美郡の根上(ねあがり)町、寺井町、辰口町の3町が一緒になってできた。

 このうち、海外の自治体と友好締結をして交流していたのは旧根上町だけで、相手はロシアのシベリアにあるシェレホフ市だ。この唯一の都市交流が新市に引き継がれて現在に至っている。

 両市の付き合いは長い。森元首相の父で、旧根上町長を9期務めた森茂喜さん(1910〜89年)が、平和への思いを実現するため住民同士を友情で結ぼうと考えた。

 発端は1960年にさかのぼる。1953年に就任した森元町長は、当時のソビエト連邦を初めて訪問した。モスクワ市で「日本産業見本市」が開かれ、日本から派遣された経済視察団員の1人として海を渡ったのだ。

 まだ、1956年に国交が回復されたばかりという時期だった。折り悪しく1960年に岸信介内閣が日米安保条約を改定し、日ソ関係は悪化していた。それでも森元町長は約1カ月にわたってソ連各地を巡った。

 1960年8月6日に新潟港を出港し、日本海に面したナホトカ港に上陸。そこから鉄道でハバロフスク市へ向かい、シベリア横断鉄道に乗り換える。イルクーツク市からさらに飛行機でモスクワを目指すという旅程だった。

 9月6日に新潟へ戻るまでに様々な土地を訪れ、旧ソ連の一部だった現在のウクライナにも足を踏み入れた。ロシア軍の侵攻で激戦の地となったハリコフには8月21日〜22日、首都のキーウ(ロシア語ではキエフ)には8月23日〜25日に滞在した。

■「ソ連には、よい感じを持っていなかった」

 森元町長は保守系の政治家だ。しかも、旧日本軍の軍人で、旧満州で対ソ作戦に従事したこともある。このため「ソ連には、よい感じを持っていなかった」という。だが、滞在時に目にした出来事が認識を一変させた。

 まず、日本産業見本市で「君が代」の演奏とともに掲揚された「日の丸」に、旧ソ連の人々が脱帽し、直立して敬礼するのに心を動かされた。さらに、旧ソ連に抑留された旧日本兵が眠るイルクーツク市やハバロフスク市の日本人墓地を訪れた時、きれいに清掃されているのを見て感動した。

 極寒の異国で故郷を思いながら命を落とした旧日本兵について、森元町長は他人事に思えなかった。というのも、終戦は南洋のトラック諸島(現チューク諸島)で迎えたものの、南方派遣されるまでは旧満州に駐留していたからだ。もし転戦の命令が出なければ、自身もシベリアに抑留されていたかもしれなかった。

 しかも、中国戦線で迫撃砲弾を受け、九死に一生を得るような経験もしていた。

 森元町長の没後、町民らがまとめた伝記によると、1960年の訪ソ体験がきっかけとなり、「国家体制は違っても、ソ連の人達と友好を深めて日本海を平和な海にしなければならない。(ロシア人も)一人ひとりの人間性は素晴らしいものを持っているから、そこを大事にしていきたい。『友情に国境なし』と考えるようになった」と語っていたという。

■子供の親善使節団を交換し合う

 森元町長はその後、何度も旧ソ連を訪れ、シベリアのバイカル湖の近くにあるイルクーツク州のシェレホフ市を交流先に定めた。同市は1953年、東シベリア最大のアルミニウム工場建設に伴って造られた新興都市だ。石川県の資料によると2020年の人口は約4万3000人。約4万9500人の能美市とは同規模である。

 こうして「イデオロギーを抜きにした人間同士の交流」が始まり、双方から人が行き来した。ただ、政府は国家体制の異なる旧ソ連との交流を快く思っていなかったようで、両市町の友好締結は1976年まで待たなければならなかった。

 その間にも、旧根上町では住民らが民間の親善協会を結成し(当初は日ソ協会根上支部)、少しでも言葉を話せるようにしようとロシア語講座を開くなどした。ロシア映画鑑賞会も催した。さらには、ロシア料理の講習会、シベリア抑留展と、相手を知り、自分達との関係も見つめ直すような様々な企画を行ってゆく。

 双方に結成された親善協会のメンバーがお互いに訪問を重ねたほか、バレーボールやサッカー、陸上競技、野球といったスポーツ交流も行われた。文化使節団も派遣し合った。

 中でも力を入れたのは、子供の親善使節団の交換だ。

 青年団のリーダーだった時、森元町長に誘われてシェレホフ市との交流に関わるようになった能美シェレホフ親善協会の高田龍藏理事長(79)は「将来の平和のためには、子供を国際派に育てていかなければならない」と、森元町長がよく話していたのを覚えている。平和の実現には互いの人づくりこそ重要だと考えていたのである。

 旧根上町時代には、根上中学校から20人以上の使節団が渡航していた時期もある。能美市になってからは、市内の3中学校から2年生がそれぞれ定員4人までで選ばれ、夏休みに入ったばかりの7月後半に1週間、シェレホフ市を訪れる。夏休みが早いシェレホフ市からは毎年6月末に同年代の使節団を迎える。

■ロシアの子供達にとって「日本」とは?

 新型コロナウイルス感染症が流行した2020年からは相互訪問を見合わせているものの、能美市側からは通算37回もの使節団を派遣した実績がある。佐々木紀・衆院議員(石川2区)もかつての団員の1人で、親善協会の記念誌には「(派遣に当たって)森町長が熱い思いを語られ、両市の交流が将来の日ロ関係にいかに大きな意義をもつことになるかを話されたのを今でも忘れません」などとする文章を寄せている。

 シェレホフ市との窓口になっている能美市国際交流協会のロシア人職員で、多文化共生マネージャーのブシマキン・バジムさん(38)は「シェレホフ市では能美市以上に使節団への参加が人気です。ロシアの子供達にとって日本は知らない世界で、どんなところか実際に行ってみたいし、友達になりたいと考える子が多いのです」と話す。

 長い交流だけに、大人の訪問団への参加も含めると、シェレホフ市では4代にわたって能美市を訪れている一家もある。シェレホフ市からの訪問団は毎回、「友情の森」と名付けられた日本海沿いの土地に植樹をしているが、本数が増えすぎて拡張の必要性に迫られているほどだ。使節団員に選ばれたのがきっかけで日本語を学び、日本の研究者になったり、石川県の国際交流員として訪日したりした人もいる。

 滞在時に特別なことをしてきたわけではない。互いに学校訪問やホームステイ、演奏の披露、博物館見学などといった定番のメニューをこなす。それでも子供達への影響は極めて大きく、能美市役所の前田あす香・観光交流課長補佐は「ひと回りも、ふた回りも大きくなって帰って来ると話す保護者がいます」と言う。

 なぜなのか。前田さんは「ロシアは未知の世界だから」と考えている。

■「ロシア人は冷たいと思っていたけど……」

 生活習慣や文化が違うだけではない。ロシア語は世界の言語でも難しいとされており、英語が堪能な前田さんもロシア語の習得には音を上げたほどだ。「英語や中国語なら聞いたり見たりしたことがあるので、ある程度は想像ができます。ところが、ロシア語は事前に学習して訪問したとしても、それまで見たこともなかったキリル文字です。子供達は生まれて初めて『分からない』という経験をして、成長するのです」と語る。

 隣国であるにもかかわらず、遠い国。帰国した子供達が異口同音に語るのは、ロシア人の「優しさ」だという。「ロシア人は冷たいと思っていたけど、全然違った」と話す子もいる。

 前田さんの部下でシェレホフ市との交流を担当している中村延栄(のぶえ)主査は、その気持ちがよく分かる。同じような体験をしたからだ。

 中村さんは日本の市役所では珍しいロシア語ができる職員だ。市がシェレホフ市との交流を進めるために、わざわざ養成したのである。

 それまでロシア語に対する知識はなかった。が、中学生の使節団派遣事業を担当していた教育総務課に配属され、最も若い職員だったことから、上司に「やってみないか」と勧められた。20代半ばだった。

 まずは石川県金沢市の県国際交流協会が行っているロシア語の初級講座に約1年間通った。そのうえで2011年4月から5カ月間、北海道函館市にあるロシア極東連邦総合大学の函館校で学んだ。

■ロシア語が堪能な職員も採用

 同大学はウラジオストクに本校があり、ロシアの大学としては唯一日本国内で教育をしている。「2年制と4年制があり、当時の教官は日本人1人を除いて全員がロシア人でした」と中村さんは振り返る。

 中村さんが受講したのは、能美市の求めに応じて大学が設けた特別コースで、マンツーマンでロシア語を詰め込まれた。

「入学時は自分の名前が言える程度でしかなかったので、授業は本当に大変でした。担当教官は教育に対して非常に厳しく、鬼のようだと感じたこともあります。自分ができないことが悔しくて、何度も何度も涙を流しました。

 ただ、授業を離れると包容力があって優しく、『どんなに忙しくても散歩をしなさい』と教えられました。授業で辛そうな顔をしていたら、外に連れ出して会話の授業をしてくれたこともあります。日本にはあり得ないタイプで、世界にはいろんな人がいて、様々な考え方があるのだなと知りました」

 短期間の派遣でしかなく、能美市に帰ってからは日常的に話す場がないので、語学力を維持するのは大変だ。「会話となると難しいですが、なんとか読めるようにはしています」と中村さんは言う。

 その後、ロシア語が堪能な職員も採用され、能美市役所にはロシア語ができる職員が2人もいる。人口約5万人の市の人材としては異例の豊富さだろう。それだけシェレホフ市との交流に熱を入れてきた証拠である。

■そしてウクライナ侵攻が始まった

 シェレホフ市との交流では、今も様々な事業を行っている。

 最大のイベントは「ロシア風新年会」だ。

 4歳から小学生を対象に、遊びを通してロシアを知る催しで、新年会とはいうものの、毎年12月に催す。ロシア版のサンタクロースの「デド・モローズ」(寒さおじいさん)が会場に姿を見せ、ロシアのゲームをしたり、スイーツを作って食べたりする。100人の定員は毎年いっぱいになるほど盛況だ。

 シェレホフ市からは美術学校に通う子らから年賀状が送られてくる。今年は38通が届き、日本の干支の寅や雪だるまが見事な筆で描かれていた。これらは図書館で能美市民に展示された。返信は能美市内の3中学校の希望者がやはり絵を描いて船便で送った。

 コロナ禍で行き交えない分、オンラインも活用している。双方の親善協会員らが語り合うイベントや、両市で柔道を習う子が技を披露し合う催しも行った。能美市は九谷焼の産地で、下絵に塗り絵をするコンテストを毎年行っている。これにはシェレホフ市のみならず、ロシアの各地からも多数の応募がある。

 ところが、ロシアのウクライナ侵攻が始まった。

■「ロシアのロの字を聞いただけで胸が悪くなる」

「シェレホフ市側は今も交流に熱心で、次の催しの打診が来ています。双方で雪が解け、春の芽吹きの季節を迎えると、毎年送られてくる挨拶状も届きました。ただ、戦争を受けての住民感情を考えると、どうしていいのか」。能美市役所の前田さんは言葉少なだ。

 旧根上町内で住民に話を聞いたところ、「こんな時だからこそ、住民交流を絶やしてはいけない」(80代女性)「交流を進めることで、逆にロシアの人々に世界がどう見ているか知ってもらう機会になる」(60代男性)という声の一方で、「ロシア軍の残虐行為は酷すぎる。ロシアのロの字を聞いただけで胸が悪くなる」(70代男性)と話す人もいた。

 能美シェレホフ親善協会の高田理事長は「国家の政治や戦争では人間の欲望や闘争本能がむき出しになります。戦争を起こさないためにも住民同士の友達付き合いが必要なのですが、ロシアの侵攻が始まってからは、会員を辞めたいという人もいて……」と表情を曇らせる。

■閉鎖された交流展示室

 旧根上町内にある根上学習センターには、シェレホフ市との交流展示室がある。これまでの歴史を記した年表や、使節団が交換した土産、シェレホフの文化を知る物品などが置いてあるのだが、能美市はロシアの侵攻後、閉鎖してしまった。

 ロシア語で「友情の部屋」と書いてあった看板を外し、展示室外に飾ってあったバイカル湖の風景画や、結婚式の衣装をまとった男女のマネキンも、室内に入れて鍵を掛けた。根上学習センターに行っても、そこに展示室があるとは気づかないほどだ。

 市民から「今の時期に展示室を開いていていいのか」と疑問を呈する声が数件、市に寄せられたため、庁内で議論した結果だという。

 森元町長の訪ソから約60年。地道に積み上げてきた交流は今、大きな危機を迎えていると言っていいだろう。

 能美シェレホフ親善協会の会報は、森元町長が口癖にしていた「平和と友情」がタイトルだ。

 平和とは何か。友情とはいかにあるべきか。

 能美市民のみならず、私達にも突き付けられているのではなかろうか。

撮影=葉上太郎

「共産主義のスパイではないか」と言われ…ロシアとの住民交流を推し進めた“北陸の元町長”が打った最後の一手 へ続く

(葉上 太郎)

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