「共産主義のスパイではないか」と言われ…ロシアとの住民交流を推し進めた“北陸の元町長”が打った最後の一手

「共産主義のスパイではないか」と言われ…ロシアとの住民交流を推し進めた“北陸の元町長”が打った最後の一手

シェレホフ市の名誉市民になった旧根上町の森茂喜元町長(能美シェレホフ親善協会の記念誌より)

「展示室を開いていいのか」シベリアの都市と友好締結してから46年…“ロシアとの友情”を深めてきた自治体の苦悩 から続く

 全国の自治体で最も活発なロシア交流を行ってきたのは石川県能美市だろう。

 最初に推し進めたのは森茂喜さん(1910〜89年)。平成大合併で能美市になる前の旧根上(ねあがり)町長を9期も務めた人だ。

 国家体制が違い、「あまり快く思っていなかった」という旧ソビエト連邦の自治体と、わざわざ交流しようと考えたのはなぜなのか。背景にあるのは森元町長自身の苛烈な戦場体験と、「二度と戦争をしてはならない」という思いだった。平和を求めるには、高い国境を超えて、人と人とが友情で結ばれるべきだという信念があったのである。(全3回の2回目/ #3に続く )

■森元町長の“過酷な戦争体験”

 森元町長はどのような戦争体験をしたのか。これを知るには格好の資料がある。本人の没後、地元住民らで作る伝記刊行委員会が出版した『おつぶけ町長 森茂喜その人と足跡』という著作だ。「おつぶけ」とは加賀弁で正座を意味する。まじめな人柄で、いつも正座をしていた森元町長は、人々に「おつぶけ町長」と呼ばれていた。

 早稲田大学の専門部を卒業後、石川県庁で働いていた森元町長が、陸軍少尉として応召したのは1937年10月のことだ。既に日中戦争が始まっており、広島市の宇品(うじな)港から、中国の上海に上陸して、前線を目指した。

 最初に遭遇した激戦は、蘇州河を渡る戦闘だった。

 現地ではコレラが流行し、治療もされないまま放置された兵士が、小屋でのたうち回るなどして苦しんでいた。その近くの川で、決死の工兵隊が橋を架けていた。中国兵が対岸から集中砲火を浴びせかける。工兵は被弾しているはずなのに、川に落ちたり、流されたりしなかった。実は、銃撃されても川に落ちないよう、橋に体をくくり付けて作業をしていたのだった。

 人柱のような架橋でなんとか川が渡れるようになると、今度は歩兵の番だ。だが、中国兵の集中砲火に一歩も進めない。工兵隊長が「歩兵は工兵を見殺しにするのか」と泣いて叫ぶと、歩兵が突撃を始めた。「即死する兵隊、倒れる兵隊、撃たれて川の中で真っ逆さまに飛び込む兵隊、踏み外して落ちる兵隊、これまた橋の上は地獄だった」となど伝記には書かれている。

■左の大腿部を機関銃に射撃され……

 この戦闘の後、森元町長は小隊長に任じられて、先に金沢から派遣されていた中隊に加わる。しかし、その中隊は日本を出発した時の要員196人が18人にまで減っていたと知り驚いた。

 後年、森元町長が「人間と人間が相打つ凄惨な肉弾戦だった」と回想するような激しい戦闘が続いていたのだった。それでも部隊は侵攻を続け、当時の中国の首都が置かれていた南京の攻略戦に取り掛かる。

 激しい戦いとなった。地雷源で人が吹き飛ばされるような現場もあった。南京は城壁で囲まれた城砦都市になっていたのだが、戦意を失って城内へ逃げ込もうとする中国兵がいると、退却させまいとする中国の部隊が味方を射撃する場面もあった。

 森元町長は左の大腿部を機関銃に射撃される。銃弾は貫通せず、体内に残ったが、手当てをしただけで戦闘を続けたという。

 そして城門への突撃。最初に突入した大隊は、一番乗りとなった中隊が中国軍の射撃でほとんど全滅したとされる。

 森元町長の隊はやや遅れて攻め入った。この時、自身の伝令役として同行させていた初年兵を失った。戦闘の後、姿が見えなくなっているのに気づいて捜索したが、砲弾の爆発で地形が変わるなどしていたため、遺体はなかなか見つからなかった。

 1週間ほどの探索の最終日に発見された初年兵は壕の中で倒れていた。担いでいた背負い袋には、戦闘の合間に摘んだのだろう、菜っ葉がいっぱいに入れてあった。野菜好きな森元町長に食べさせようと集めていたらしい。森元町長は遺体を前にして涙を抑えられなかった。

■「皆、決死隊になって突撃してくれ」

 至る所に「東洋鬼」などと日本軍をなじる落書きがあった南京市街を後にして、部隊は別の土地の警備に移る。森元町長は「首都南京の攻略が終われば帰国できる」と思っていたが、それほど甘くはなかった。戦争は長引き、徐州作戦、武漢作戦と戦闘が続く。途中でマラリアにかかり、40度近い高熱にも悩まされた。

 武漢作戦では、手榴弾を投げながら突進し、壕に飛び込んで中国兵と格闘するという壮絶な戦いになった。森元町長も「皆、決死隊になって突撃してくれ。ワシと一緒にここで運命を共にしてもらいたい」と訓示するほどの局面があった。

 中国軍に包囲されて弾薬が切れ、補充のために決死隊を出したこともある。その決死隊が弾薬を調達して戻った時、森元町長らが潜んでいた壕は白く見えたという。中国軍に迫撃砲を次々と撃ち込まれ、戦死者や負傷者が巻いた包帯で白く見えたのだった。

 銃弾が補充されると、突進してきた中国軍に機関銃で猛反撃した。中国兵は遺体をそのままにして退却を余儀なくされたが、そうした遺体のうち小隊長の荷物を調べさせたところ、1通の手紙が出てきた。親が戦場の息子を思いやる文面だった。「敵」にも温かい家族があったのだ。森元町長は戦後、この時の様子を思い出しては話していたという。

 このような戦いを重ねるうちに、ついに森元町長も砲弾で重傷を負った。

■心臓の近くに破片を残したまま

 中隊長代理に昇進していた森元町長が、中隊幹部を集めて打ち合わせをしていた時のことだ。近くに迫撃砲弾が着弾し、左肩から胸にかけて破片が突き刺さった。

 血だらけになった森元町長は、銃弾が飛び交う中、部下によって自動車が走る道路に運ばれた。通りがかった車で野戦病院へ運ぼうとしたのだが、どの車も負傷者でいっぱいで、なかなか搬送できなかった。

 傷は簡単には治せなかった。内地送還となり、退院までには1年ほどかかる。心臓の近くに破片が二つも刺さっていた。取り除く手術には命の保障がなかったので、そのまま生涯を送ることになった。このため後遺症が残り、腕がしびれたり痛んだりしたようだ。

 それほどの重傷を負ったのに、迫撃砲による傷が癒えると、森元町長は再び戦地へ戻った。中尉に昇進して中隊長に任命され、1940年10月に旧満州へ渡った。

 戦況は悪化した。このため旧満州の部隊のうちから南方の守備に移された。森元町長の隊も対象に選ばれ、1944年4月にトラック諸島(現在のミクロネシア・チューク諸島)へ向かった。輸送船は米軍の魚雷攻撃にさらされ、多くが兵士を乗せたまま太平洋で撃沈された。運良く上陸できた隊も、サイパンの守備隊は米軍の攻撃で玉砕することになる。

■1960年の訪ソが転機になった

 森元町長の船にも魚雷が当たったが、不発弾だったので、沈没を免れた。

 トラック諸島の守備に着いた森元町長は大隊長に昇進した。米軍が上陸して来れば、玉砕するしかない。覚悟を決めて、地下壕の構築などに精を出した。食料が不足し、兵はトカゲからネズミまで食べたという。

 結局、米軍は空襲することはあっても、サイパンのようには上陸して来なかった。森元町長は命を長らえて、復員を果たした。

 森元町長の体内には、心臓の近くに刺さった砲弾片を含めて「砲片7個が残ったままだった」と、息子の森喜朗・元首相が自身の著書『私の履歴書 森喜朗回想録』で明らかにしている。

 森元町長にとって、戦争は人生を決定づける出来事だった。戦死した戦友や部下の名前を名簿にし、背広の胸にいつも入れていたという。

 そうした森元町長に転機が訪れた。1960年の訪ソだ。

■「日本海を平和な海にする」

 旧ソ連国境に近い旧満州へ駐留した経験などから、あまりいい対ソ感情を持っていなかったという森元町長だが、モスクワで開かれた「日本産業見本市」でロシア人が日本国旗に対して見せた厳粛な態度に驚き、さらにはシベリアに抑留されて亡くなった元日本兵の墓がイルクーツクやハバロフスクできれいに清掃されているのに感動した。その経緯は #1 で書いた通りだ。

 森元町長に誘われてロシア交流に関わることになる能美シェレホフ親善協会の高田龍藏理事長(79)は「あの時、ロシア人は友情に厚い人々だと感じたようです。日本海を平和な海にすることが、戦争から生きて帰って来た者の使命だ。『友情に国境なし』と考えるようになったと、熱く説いていたのを思い出します」と話す。

 前出の伝記本には「日本海を隔てて向かい合う両国の相互理解こそ、日本の平和につながるから、我々が活動しなければならない」という森元町長の言葉が紹介されているほか、「日本とソビエトがけんかをして不幸な状態になれば、日本国民の破滅だ。思想信条、社会制度や政治体制は違っていても、その人達と仲良くしなければ日本の平和はない、というのが森町長の持論、信念だった。それが自民党員でありながら日ソ協会を通して日ソの友好運動に飛び込んだ理由だった」などと解説されている。

 まず親交を結んだのは、シベリア抑留者の墓があるイルクーツク市のサラッキー市長だ。同市長はやはり元軍人で、戦傷を負った経験がある。その点、森元町長に通じる思いを持っていたようだ。

 だが、イルクーツク市は石川県で言えば金沢市クラスの人口規模で、当時の根上町と交流するには大きすぎた。そこで、サラッキー市長はイルクーツク近郊のアルヒーポワ・シェレホフ市長を紹介した。アルヒーポワ市長は、今に至るまでシェレホフでただ1人の女性市長だ。

 友好交流の歴史を研究している能美市国際交流協会のロシア人職員、ブシマキン・バジムさん(38)は「アルヒーポワ市長は笑顔が多い、おおらかな人でした。市の隅々まで歩き、働き者でもありました。その点、森元町長とは首長としてのタイプが似ていて、意気投合したようです」と話す。

■市民同士の友好親善で何が変わるか?

 森元町長は多くの人にシェレホフ市を訪れてほしいと願ったようだ。

「当時、ソ連は怖い国で、ロシア人も怖い人間だという印象を持たれていました。でも、森元町長が触れたロシア人は全く違っていました。『流布されている情報と、自分の目で見た現実は違う。だからこそ訪れ、触れ合い、自分で確かめるべきだ。誤った情報も戦争の原因の一つだ』と森元町長は考えたのです」と、ブシマキンさんは熱く語る。

 訪問団でシェレホフ市を訪れた人の中にも、認識を一変させる人がいた。「以前よりロシアの国に対し、あまり好意を持っていませんでしたが今回、シェレホフ市の皆様から受けた友情や厚意により一瞬にして変わってしまいました。市民同士の友好親善の大切さやありがたさを我が身を持って理解できたと思います」とする手記を能美シェレホフ親善協会の会報に寄せた人もいる。

 さらに、森元町長はシェレホフ市に学べるものは学ぼうとした。注目したのは、同市で手厚かった青少年・幼児教育や福祉行政だ。

 ブシマキンさんは「旧根上町の保育園に初めてできたプールは、ロシアの施設を参考にして建設しました。保育園の子供用の洋式便所も向こうの保育園で研究しました。根上からの訪問団がびっくりするほど多くの写真を撮影して帰ったので、シェレホフ市の担当者を驚かせたほどでした。また、ロシアでは小さな村にも図書館があります。これも旧根上町で整備した時には下敷きにして考えたようです。一方のシェレホフ市側も、旧ソ連からロシアに変わった後、経済の仕組みや自治体の運営方法などを学びに来ました」と話す。

■「共産主義のスパイではないか」と……

 こうして両自治体の交流は深まり、シェレホフ市は森元町長に名誉市民の称号を、旧根上町はアルヒーポワ市長に特別名誉町民の称号を贈った。

 だが、そうした森元町長の姿勢はなかなか理解されない面もあった。

「『赤い町長』と呼ばれることもありました。『共産主義のスパイではないか』という誤解もされました。実際の森元町長は信念を持った資本主義者でした。ただし、相手のいいところは国家体制が違ってもピックアップして持ち帰るべきだと戦略的に考えていたのです」とブシマキンさんは説明する。

 親善協会の高田理事長も「旧ソ連時代は、シェレホフ市から訪問客があると、警察の尾行が付きました。私も公安委員会に呼び出されて、金沢まで説明に行ったことがあります。ロシアになってからは、そういうことはなくなりましたが」と苦笑する。

■シェレホフ市に建設された墓碑

 森元町長は両自治体の交流が永遠となるよう願いを込めて「最後の一手」を打つ。自らの死後、シェレホフ市民墓地に分骨してほしいと願ったのだ。

 高田理事長は森元町長に「皆さんが私の墓参りにシェレホフを訪れ、市民との交流を永遠に続けてほしい」と言われたことがある。

 驚いたのはシェレホフ市だ。「最初は冗談だろうと思っていました」とブシマキンさんは語る。だが、意志が固いと見るや、森元町長の存命中に墓地予定地を決め、同市を訪問した森元町長を案内して「ここでいかがでしょうか」と了解を取った。

 森元町長は1989年に亡くなった。シェレホフ市は遺影入りの墓碑を建設し、ロシア語と日本語で「友情と平和」と刻んだ。翌90年に旧根上町から遺族ら関係者を招いて納骨した時には、イルクーツク市にあるロシア正教のシベリア総本山で追悼のミサが特別に営まれた。墓地での式典には周囲を埋めつくすほど市民が訪れ、遺族ら日本の関係者を驚かせたという。

■約60年かけて住民交流を積み上げてきたが……

 ブシマキンさんは「シェレホフ市には能美市の展示コーナーがあるだけでなく、学校で教えているので、森元町長のことを知らない市民はいません」と断言する。

 だが、ロシアのウクライナ侵攻で、日本国内の世論は一変した。これまで約60年もかけて積み上げてきた住民交流にも影が差している。

 高田理事長は「一人ひとりのロシア人は素朴なのに、政治にはかつてロシア帝国だった頃からの流れがあるようです。中国もそうですが、大陸で領土のやり取りをしてきた国には、皇帝のような政治的リーダーが出現しやすいのでしょうか」と首をひねる。

「森元町長が生きていたら、どう思うでしょう。戦争だけは絶対にいかんと言うだろうな」と噛みしめるように話していた。

撮影=葉上太郎

「日本にはいられなくなるかもしれない」石川県能美市“加賀弁を操るロシア人職員”38歳がウクライナ侵攻に思うこと へ続く

(葉上 太郎)

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