「どうして小室さんでダメなのか、僕にはさっぱりわからない」紀子さまの父・川嶋辰彦さんが明かした“信念”――2021年BEST5

「どうして小室さんでダメなのか、僕にはさっぱりわからない」紀子さまの父・川嶋辰彦さんが明かした“信念”――2021年BEST5

上皇ご夫妻に挨拶された秋篠宮家の長女・眞子さま(当時) ©時事通信社

2021年(1月〜12月)、文春オンラインで反響の大きかった記事ベスト5を発表します。皇室部門の第5位は、こちら!(初公開日 2021年12月18日)。

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「文藝春秋」2022年1月号より元朝日新聞記者・皇室担当の斎藤智子氏による「川嶋辰彦さんのキス」を一部公開します。(全2回の1回目/ 後編 に続く)

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■「眠ったまま、静かに、逝ってしまいました」

 秋篠宮皇嗣妃殿下紀子さまの父、川嶋辰彦さんが11月4日午前、都内の病院で息をひきとった。81歳だった。

「とても穏やかな最期でした。痛みも、感じなかったと思いますよ。眠ったまま、静かに、逝ってしまいました」

 と妻の和代さんは語る。

 学習院大学名誉教授。経済学部で長く教鞭をとった。同時にタイの山村で4半世紀にわたり、少数民族の生活改善のために力を尽くしたボランティア活動家であり、教育者でもあった。

 どんな人にも分けへだてなく丁寧に接し、タイや日本の若者から「タツ」と呼ばれて慕われた。

 縁あって、34年にわたって、お話をきく機会を得た。くちはばったい言い方だが、取材する人、される人、という関係は、とうの昔に超えていたと思う。

■「どうして小室さんでダメなのか、さっぱりわからない」

 生前の思い出を語りたい。

「どうして小室さんでダメなのか、僕にはさっぱりわからない」

 孫の眞子さんの小室圭さんとの結婚について、風当たりが強かったころ、どう思うかを尋ねてみたことがある。その時の、川嶋さんの反応だ。

 そして、手帳を取り出し、カリール・ジブランというレバノン出身の詩人の詩を読んでくれた。

《あなたの子は、あなたの子ではありません……あなたを通ってやって来ますが、あなたからではなく、あなたと一緒にいますが、それでいてあなたのものではないのです……あなたの家に子供の体を住まわせるがよい。でもその魂は別です。子供の魂は明日あすの家に住んでいて、あなたは夢のなかにでも、そこには立ち入れないのです》

「ね、いい詩でしょ?」

 と、共感を求めた川嶋さんの顔を、いまも忘れられない。

 小室さんの人格や家の事情について、川嶋さんが特に詳しく知っていたわけではないだろう。ただ結婚は本人同士が話し合って決めることであって、誰も関与してはならない。そんな、強い信念を持っていた。

 娘の紀子さまの結婚のときも、そうだった。

 初めて川嶋さんに会ったのは1987年、川嶋さんが学習院大学経済学部教授のころだった。宮内庁担当だった先輩の内藤修平記者に連れられて、東京・目白にある大学の研究室を訪ねた。

■宮さまの結婚相手・紀子さま

 娘の紀子さまが、同じ学習院大学で1年先輩の「礼宮さま」(現・秋篠宮文仁皇嗣殿下)と親しく交際している。そんな情報を内藤記者はいち早くキャッチしていた。

 皇室ではこの時期、礼宮さまと兄の浩宮さま(現・徳仁天皇陛下)が、そろって結婚適齢期を迎えていた。誰と結婚されるのか、については、今以上に世間の関心が大きかった。新聞社としては、「宮さまの結婚相手」はなんとしても「トクダネ」で報じたいと思っていた。

 当時、私は30代前半。支局勤務を経て東京社会部記者となり、事件はもちろん、上野動物園のパンダの妊娠や中国残留孤児の親探し、大学の教育改革など、実にさまざまなテーマの取材に関わっていた。

 先行していた内藤記者の取材に若い私が加えられたのは、「女性の視点」から、お相手の女性をみてほしいという会社の考えがあったように思う。今思うと、なんとも時代遅れで取材相手にも失礼な話だが、当時は大真面目だった。

 そもそも新聞社は、長らく典型的な「男の職場」だ。ニュース記事は男性が書くもので、女性はニュースの「ネタ」になる側だった。「結婚までの腰掛けではないか」「夜勤や宿直ができるのか」等々の理由で、女性記者の採用には社内の反対も根強かった時代だ。

 私にも入社以来、「初の県庁クラブ女性記者」など「初モノ」の肩書きがついて回っていた。100人を超す大所帯の東京社会部に女性記者はほんの4、5人。最も若い私はパンダ並みの注目度で、女性のからむ取材はなんでも降ってきた。

■「紀子のことはよくわからない」

 初めて訪れた川嶋さんの研究室は本や書類が積み上げられ、いかにも教授の仕事場然としていた。机の上に、幼い紀子さまの小さな写真が飾ってあった。黒っぽい乗馬帽をかぶり、白いポニーにまたがってまっすぐに前を向いた愛らしい姿。一家がウィーンにいた頃の撮影と聞いた。

 経済、乗馬といった話に続き、ようやく本題の紀子さまと礼宮さまとのおつきあいの話になったとき、私は心底びっくりした。

「紀子のことは僕にはよくわからないから、本人に直接聴くよう、内藤さんにも申し上げてきたんです」

 と、川嶋さんが言ったからだ。

 お妃選びは歓迎されない取材だと感じていた。浩宮さまのお妃取材にもどっぷり関わったが、若い女性の家に突然押し掛けても、まず、インターホン越しで終わった。玄関に入れてくれれば「御の字」。どの家でも親の困惑と警戒感がひしひしと伝わってきた。まして、新聞記者に娘を会わせるなんてことはめったになかったから、川嶋さんの反応は、意外に感じられたのだ。

■父親中心の川嶋家

 それから少しして、実際に私は内藤記者と目白の喫茶店で紀子さまにお会いした。内藤記者はすでに前年から何度か話を聞いており、会話はとても自然だったが、私はその時、川嶋さんがなぜ記者に娘を紹介したか、わかったような気がした。20代そこそこの紀子さまの対応は、父親にとてもよく似ていたからだ。ニコニコしながら何分でも会話はする。だが、肝心なことは話さない。

「それはね、ひ・み・つ、です」

「さあ。斎藤さんはどうだと思いますか」

 じつに、手強いお方だった。

 川嶋家は、父親中心の家庭だった。川嶋さんを軸に、家族4人ががっちりとまとまっていた。紀子さまが高校のころから自宅にテレビを置かなくなったのも、川嶋さんの判断だったと聴いた。おかげで紀子さまは、高校時代、それまでにもまして猛烈に本を読んだという。

「決して押さえつけないし押しつけないのにいつの間にか夫の思っている通りに事が進んでいるんですよ」

 妻の和代さんから、そんな話を聴いたことがある。

 本を読み、絵を描き、ピアノを弾く。小さいころから乗馬やテニス、スキーを楽しみ、手話や奉仕活動に汗を流す。紀子さまはまさに、川嶋さんにとって理想の娘だったろう。

「かわいい子には旅をさせろ」

「人種的な偏見を持たない子に育てたい」

 川嶋さんのモットーにそって、大学時代には、青年の船で東南アジアも訪れている。

 内藤記者はその後、九州に異動し、私は1人で川嶋家の取材をつづけることになった。礼宮さまは88年から英国に留学され、紀子さまは礼宮さまと離ればなれになったことで、ご自身の気持ちをはっきりと自覚されたように思う。

( 後編 に続く)

(斎藤 智子/文藝春秋 2022年1月号)

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