「大連から貨物船に乗って行ったよ。船の底に乗っていったんです」 密航者と売春で溢れたかつての“横浜・中華街のリアル”

「大連から貨物船に乗って行ったよ。船の底に乗っていったんです」 密航者と売春で溢れたかつての“横浜・中華街のリアル”

横浜中華街 ©iStock.com

 赤レンガ倉庫、みなとみらいが港沿いに広がる洗練された街・横浜。異国情緒あふれる中華街に、スポーツファンで溢れる横浜スタジアムもあり、有数の観光スポットでもある。しかし、その歴史を紐解くと、売春や麻薬、ストリップ劇業に革命家の隠れ家といったカオスな日常があった――。ノンフィクション作家・八木澤高明氏の新著 『裏横浜 グレーな世界とその痕跡』 (ちくま新書)から一部を抜粋して転載する。(全2回の1回目/ 後編 を読む)

 ◆◆◆

■70年代までは、売春と麻薬の巣窟だった中華街

 アジアとの濃厚な結びつきを持っていた中華街は、太平洋戦争の後もまた違った形で、縁を結び続けていた。

 戦後、中華街に現れたのは米兵だった。横浜が米軍に占領された1945年からベトナム戦争が終結する70年代まで、中華街は売春と麻薬の巣窟だったという。

 裏通りには米兵相手の連れ出しバーが軒を連ね、その数は中華料理店の数より多かった。麻薬は香港やシンガポールから中華街へと密輸され、横浜の黄金町などに流れて、娼婦や肉体労働者たちが溺れた。

「中華街は物騒な場所でね。歩くどころか入れる場所じゃなかったよ。新車で入ったら、中国人に囲まれてさ、車を持っていかれたりする危険な場所だったんだよ」 

 横浜市内でバーを経営する60代の男性は言う。ひと昔前までは、殺伐とした空気がこの街には漂っていた。

 私が物心つく頃には、そんな空気は失われていたが、ただ30年ほど前には、中華街に暮らす中国人と日本人の若者が喧嘩をしたという話を聞いたことがあった。

■ベトナム戦争時代から営業しているバーで

 今から10年ほど前のことになるが、かつて米兵向けの連れ出しバーだった店に足を運んだことがあった。その店は中華街の横浜スタジアムと道路を挟んで向かい合っている玄武門から入って、100メートルほど歩いた場所にあった。

 私の友人の山岸さんが、ベトナム戦争時代から営業しているバーがあると教えてくれたので、一緒に足を運んだのだった。

 バーは中華料理屋が並ぶ通りに、ぽつんと一軒だけあった。中華街が観光地となるにつれ、次々と消えていった連れ出しバーの最後の灯火だった。

 ドアを開けると、店内はタイル張りで10人は座れる立派なカウンターがあった。客の姿はなく、カウンターの中にオーナーと思しき女性とカウンターの奥まった場所に茶色いハイネックのセーターを着て、土色の肌をした顔色の悪いホステスがひとり座っていた。

■チャコと名乗ったホステス

 私たちが席に着くと、ホステスは私の左となりに座った。

「いらっしゃいませ。飲んでいいですか?」

 私の横に座るや否や、長年染み付いた店での習慣なのだろうか、それとも私が格好のカモに見えたのだろうか。何の遠慮もなく飲み物を所望した。その仕草は、ベトナム戦争の時代に始まり、今も、バンコクやフィリピンにあるゴーゴーバーで働く女たちの姿とだぶって見えた。ただ、かの地では若い女たちが、米兵ではなく観光客相手に春を売っていて、ベトナム戦争が生んだそうしたバーは、未だに生き続けているのだった。

 片や、中華街のバーは、その種の雰囲気は残されているものの、時には横須賀辺りから米兵たちが来るのかもしれないが、明日にでも店を閉じそうな寂れた空気に包まれているのだった。

 年の頃60代後半の彼女は、間違いなくベトナム戦争時代からここにいるはずだ。できれば当時の話を聞いてみたかった。

「まぁ、米兵は掃いて捨てるほどいたけどさ、そんな昔の話はしたくないのよ」

 嗄れた声でやんわりと、昔話を拒んだ。

 ショットグラスに入ったウイスキーがカウンターに置かれると、「かんぱーい」の掛け声とともにウイスキーを一気に流し込んだのだった。

 今では、米兵ばかりか、ほとんど客など来ず、見慣れぬカモが現れた時に、稼げるだけ稼ごうという算段なのだろう。立て続けにおかわりし、同じように一気に飲み干した。己の体を痛めつけ、命を縮めるような飲み方だった。

 カウンターの向こうにある壁には、英語のメニューが掛けられていた。ホステスドリンク1000円から1000万円と書かれていた。街が賑やかで色街だった時代の空気がメニューから漂っている。現在とのギャップにメニューを見ていて、何だか無性に虚しい気持ちになってくる。

 特に会話をするわけでもなかったホステスの女性は肝臓が悪いのだろう、目には黄疸の気があり、眼球は黄色く、充血していた。

「1万5000円です」

 彼女が飲んだのはウイスキー3杯、滞在した時間は30分、メニューに1000万円までと書かれている以上、私はその料金を払って店を出た。

 翌日の夕方、見慣れぬ電話番号から着信があり、電話に出ると、昨晩のバーのホステスからだった。

「昨日はありがとね。また良かったら来てくださいね」

 そう言って、彼女は電話を切った。それから、常にバーのことは気になってはいたが、数年前に店が潰れたことを人づてに知った。

 チャコと名乗ったホステスは、今何をしているのだろうか。

■コロンビアで出会った華僑の若者

 中華街を生み出した中国人たちは、日本の横浜や神戸、長崎ばかりでなく、アメリカのニューヨーク、フィリピンのマニラやタイのバンコクなど、世界を股にかけてビジネスをしている。そんな華僑たちは、福建省や広東省の出身者が多いと前に記した。

 フィリピンを例にあげれば、中華街ばかりでなく、ショッピングモールなどのフードコートにある中華を出すレストランなどのメニューには、フッケンミーという麺料理がたいがいのっている。フッケンは福建省を意味し、ミーとは麺のことだ。フッケンミーは、フィリピン社会に広く華僑の文化が根付いていることを物語っている。

 中国南部の福建省や広東省は、伝統的に多くの華僑を生んできた。私は、東南アジアばかりでなく、コロンビアの田舎町でも広東省台山市出身の男性に出会ったことがあった。その男性は一族の出身地である台山という名の中華レストランを経営していた。

 台山は、あの孫文に住居を提供していた横浜中華街の温炳臣の出身地でもある。コロンビアを訪ねた当時は、私は横浜中華街の温のことを知らなかったが、この原稿を書くにあたって、不思議な結びつきを感じて奇妙な気持ちになった。

 コロンビアの田舎町で、華僑に出会った時、こんな所にまで移民として来ているのだなと、華僑の逞しさに感嘆したものだった。ちなみにレストランで、チャーハンを注文してみたが、日本の中華料理屋の3倍はある量がプレートに盛られ、食べ応えはあったが、脂っこくて、横浜の中華街で味わえるご飯がパラパラとしたチャーハンとは程遠かった。そして、南米チリの首都サンチアゴでも小さな中華料理屋を経営する華僑に出会ったことがあった。どこの出身か聞くのを忘れてしまったが、コロンビアの華僑と同じようにやはり彼らのバイタリティーに感嘆した。

 華僑の逞しさと言えば、ちょっと話がそれるが、2004年に私はイラク戦争後のバグダッドを訪ねたことがあった。米軍占領下のバグダッドは、連日のように街中で爆弾テロが発生していた。私が滞在していたホテルから歩いて行ける距離にあるホテルが車爆弾のテロに遭い、外壁が剥がれ、窓ガラスはすべて吹き飛び、部屋の中が滅茶苦茶になったその現場にも立ち会った。とにかく私が訪ねた土地で、治安が最悪だったのがバグダッドだった。

 そんな荒れた土地で、一軒の中華料理屋が営業していた。毎日食べていたアラブ料理に飽きたことや店主が久しく見ていなかった東アジアの同胞という親近感もあったが――今でもあの訪ねた中華料理屋のことは忘れられないのだが――やはり思ったのはとんでもない治安の場所でも店を出す、華僑の図太さだった。彼らからしてみれば、バグダッドは商売仇もいないから、商機があるとただ思っていたのかもしれない。この人たちには叶わないなと思ったものだった。

 しぶとく、したたかな華僑に、なぜ中国南部の出身者が多いのか。山間部が多く耕作地が少ないなどの地理的な要因もあるが、日本でいえば江戸時代末期の1860年代に清朝が、人々の居住地を制限していた遷界令を解除したこともその理由のひとつだったろう。

 それにより、広東省の台山をはじめ、それまで移住が制限され、人々が少なかった沿海部に人々が流れ込んできた。そして、住民の間に耕地不足が深刻化し、軋轢が生じるようになったのだ。

 もともとの住民と新たな移住者とのいざこざを解消するための策として、海外への移住が奨励された。それと時を同じくして、アメリカやカナダでは大陸横断鉄道の建設や、カリフォルニアの金鉱山などで労働者が必要とされたのだった。さらには、19世紀に入り世界は新たな輸送手段である船で結ばれ、多くの移民たちが、それまでとは格段に安全な方法で海を渡ることができるようになったのだった。

 アメリカでは中国移民の排斥運動が起きたので、移民を希望する者たちは、中米、南米へと流れていったのだった。その移民のなかにコロンビアで出会った華僑の若者の一族がいたのだ。

■バンコクで出会った、天安門事件で逃れてきた青年

 コロンビアで華僑の若者と出会ってから5年ほどが経った頃、私は多くの移民を出した福建省や広東省を歩いたことがあった。移民たちの故郷を見たかったことと、かつては中華街にもいた、中国人女性の伝統としてあった纏足の女性が今も暮らしているという情報を得たからだった。

 私は、山東省から夜行バスに乗って福建省に向かったのだが、平野が広がっていた山東省と比べて、小高い山が連なる福建省の景色を眺めた時、この場所から多くの移民が旅立っていったことに合点がいった。

 見渡す限り田畑が広がっていた山東省と比べて、海の背後には山が迫り、田畑は目立たず、華僑の人々が送金して建てた派手な色をした家ばかりが目立った。

 福建省といえば、日本でも有名な地下組織蛇頭の本拠地としても知られている。蛇頭は密航の手配をする組織として、1989年に起きた天安門事件以降、急速に勢力を拡大した。共産党に嫌気が差した人々が集団で蛇頭を頼ったのだ。蛇頭は日本やタイのバンコクなどに拠点を持っているといわれている。

 実際に私もバンコクのチャイナタウンの小さな食堂で、天安門事件で中国から逃れてきたという青年に会ったことがあった。彼は英語を話し、店の奥にあるテーブルにいつも腰掛けていて、私が日本人だとわかると、話しかけてくれたのだった。

 その時私は20代でバックパッカーとしてアジアをふらついている時だったこともあり、その青年とは深く話すこともなかった。今から思えば、貴重な話を聞けたはずだったのだが、若さゆえの無知さがそのチャンスを奪ってしまった。

■「ビザは?」「船の底に乗っていったんですよ」

 それから、10年以上の年月が過ぎ、福建省で密航者に話を聞く機会に恵まれた。その日、私は纏足の女性がいるという村へタクシーで向かっていた。

 タクシーの運転手は、私が日本人だとわかると、九十九折りのくねくねした道を走りながら、日本へ働きに行ったことがある女性に電話をかけてくれた。

 海辺の小さな町でタクシーが止まると、しばらくしてひとりの女性が現れた。年は50歳ぐらいに見えた。

「こんにちは、日本の方ですか?」

 タクシーに乗り込んでくるなり、日本語で話しかけてきた。彼女の名前は劉さん。中国に帰ってきてからは、日本人に会ったことがなかったので、久しぶりに日本語を話したいのだという。彼女が日本に行ったのは、2000年のことだったという。

「劉さんは日本のどこに行っていたんですか?」

「横浜なんですよ」

「何をしていたんですか?」

「いろんな仕事をしたんですよ」

 仕事に関しては、あんまり話したくないのか、これ以上触れたがらなかった。

「中華街の梅蘭の焼きそばが私は大好きだったんですよ。今でも食べたいなって思い出します」

 まさか、密航したと思っていたわけではないが、念のためどうやって日本に行ったのか尋ねると、思わぬ答えが返ってきた。

「大連から、貨物船に乗って行ったよ。石を運んでいる船です。横浜の港についたんです」

「ビザはあったんですか?」

「そんなのないよ。船の底に乗っていったんですよ」

 密航したことをあっさりと打ち明けてくれたのだった。横浜の埠頭に密航船が着くという話を聞いたことはあったが、当事者に会えるとは思いもしなかった。

 劉さんは、どこにでもいるような普通の女性だった。そんな女性が、海を渡る際に密航という手段を選ぶ。しかもあっけらかんとしている。中国の図太さに改めて、いい意味で感心した。

■纏足の女性に漂う艶かしさ

 劉さんの暮らす村から、さらに30分ほどで、纏足の女性が暮らす村についた。劉さんが知り合いに頼んで、探してもらうと、一軒の石造りの民家へ案内された。その民家の門前でひとりの老婆が日向ぼっこをしていた。

 その足に目をやった時、私は自分の目を疑った。老婆の足はあまりに小さく、人間の足には見えず、羊の蹄のように見えた。老婆は纏足を凝視する私に気がつくと、すぐに家の中に隠れてしまった。

 私は老婆の写真が撮りたいと思い、家の中へ入った。はじめは写真を拒んでいた老婆だが、劉さんが、説得してくれたおかげで、写真を撮らせてくれた。

 昔ながらの服装で、カメラを見つめる纏足の老婆からは、艶かしさを感じた。

 老婆の名前は、林金花さん、83歳。3歳の時、母親から布で縛られ、纏足にさせられた。彼女の足の倍以上の大きさがある最近の女性たちの足についてどう思うか尋ねた。

「前の時代のほうがいいよ。みんな足が大きくなってしまって、きれいではないね。だけど時代の流れだから仕方ないね」

 中国の大部分の街では失われた纏足という風習が、残っているのが福建省だった。そのことが意味するのは、地理的な要因もあり、海を通じて海外とは繋がっていたが、中国国内の他の街とはあまり接触がなく、昔からの風習が残ったのではないかということだ。人の移動を拒む、地理的な制約があった。それゆえに人々の目は、内陸ではなく開かれた海の方を向いたのだった。華僑、纏足、蛇頭というキーワードは密接に繋がっていた。

 華僑の人々にとってのフロンティアのひとつが横浜の中華街だった。今日中華街を歩いてみれば、安く中華料理を楽しめる食べ放題の店が目につくようになった。かつて、正月に家族で歩いたような異国の雰囲気は薄れてしまったのかもしれないが、それも仕方あるまい。街は時代の流れによって変化していくものなのだ。( #2 に続く)

「やらせてちょうだい」 缶チューハイ片手に男が踊り子に声をかけていた横浜最後のストリップ劇場「黄金劇場」の風景 へ続く

(八木澤 高明/Webオリジナル(特集班))

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